「彼らは自分の形を持っていて、そこに持っていくのがうまい」
出典:Yahoo!ニュース 2026年10月2日
SOCCERPEDIA / 選手ページ / スペインのサッカー選手 / 最終更新:2026年9月1日
ダビド・ビジャ(David Villa、1981年12月3日生)は、スペイン出身の元サッカー選手。ポジションはFW(フォワード)。スペインでは2005年から通算98試合59得点を記録している。クラブでは公式戦通算765試合382得点(2000-01 シーズン以降)。クラブ・代表で通算28個のタイトルを獲得、個人賞は38回(サラ賞 4回)。
ダビド・ビジャ・サンチェス(、1981年12月3日 - )は、スペイン・アストゥリアス州ラングレオ出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはフォワード。元スペイン代表。スペイン代表の最多得点記録保持者。
愛称の「エル・グアッヘ(El Guaje)」はアストゥリアス語で「子供、少年」という意味。4歳のときに大腿骨に重傷を負い、医者に「サッカーはできない」と言われたが完治し、現在は後遺症も残っていない。そのリハビリ中に父と共に左足での練習を続けたことで両足を巧みに使えるようになったと本人は述べている。
UPラングレオでプレーしていたが、17歳の時にスポルティング・ヒホンの下部組織、マレオに移った。スポルティング・ヒホンはルイス・エンリケなどの名選手を輩出し育成に長けることで知られる。2000-01シーズンのセグンダ・ディビシオン最終戦(第42節)2001年6月17日カサ(ホーム)、エスタディオ・エル・モリノンのコルドバ戦で途中出場し30分プレーしてトップチームにデビューした。トップチームで2001-02シーズンは18得点するもチームは6位。2002-03シーズンも20得点したがチームは10位だった。
ヒホンが財政難に陥っていたこと、プリメーラ・ディビシオン(1部)に2シーズン振りに昇格したサラゴサがストライカーを探していたことから、2003年夏に移籍金約300万ユーロでサラゴサに移籍した。デポルティーボ・ラ・コルーニャ戦でデビューし、レアル・ムルシア戦でプリメーラ初得点を決めた。2003年12月4日のビルバオ戦では2得点し、2004年4月25日のセビージャ戦ではチームの全4得点を一人で叩き出した。初体験のプリメーラでも通用することを示し、2003-04シーズンは計16ゴールを決めた。このシーズンのコパ・デル・レイでは決勝まで勝ち進み、レアル・マドリードを3-2で破って3年ぶりの優勝を果たした。サラゴサのファンは「¡Illa, illa, illa, Villa maravilla!(イジャ、イジャ、イジャ、ビジャ・マラビージャ)」(maravillaは「驚くべき」「素晴らしい」の意)というイムノHimno(チャント)を歌った。
2004-05シーズンのUEFAカップグループリーグのユトレヒト戦では、ロスタイムに2得点を挙げてサラゴサを救った。ベスト16ではFKアウストリア・ウィーン戦第2戦でも得点したが、アウェーゴール差で敗退した。リーグ戦では、2004年9月23日にカンプ・ノウで行われたFCバルセロナ戦で試合唯一の得点を決めて1-0で勝利した。
サラゴサは現金を必要としており、2005年夏に移籍金1200万ユーロ(約16億8000万円)でバレンシアに移籍した。UEFAインタートトカップのKAAヘント戦でデビューし、初ゴールも決めた。8月27日のベティス戦でリーグ戦デビューし、翌節のサラゴサ戦では途中出場して古巣相手にリーグ戦初ゴールを奪った。9月21日のカンプ・ノウでのFCバルセロナ戦では2得点し、23日のエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウでのレアル・マドリード戦では決勝点を挙げた。2006年2月12日にはFCバルセロナから再びゴールを挙げ、勝ち点3をもぎ取った。2月4日のデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦ではハーフウェーライン付近からのロングシュートでゴールを決めた。4月23日のビルバオ戦では、80分から85分の間に続けざまに3得点を決め、移籍後初めてハットトリックを達成した。シーズンを通じて25ゴールを決め、26ゴールのサミュエル・エトーには及ばなかったものの、得点ランク2位の好成績を残した。
2006年夏にはレアル・マドリードからフェルナンド・モリエンテスが加入し、2006-07シーズンは二人で43得点(全大会通算)を奪った。UEFAチャンピオンズリーグに初めて出場し、予選のレッドブル・ザルツブルク戦第2戦で得点した。グループリーグのASローマ戦、FCシャフタール・ドネツク戦で重要なゴールを奪い、決勝トーナメント1回戦のインテル・ミラノ戦第1戦では、壁の横から大きく曲がる鮮やかなフリーキックで得点を決めた(GKはジュリオ・セザル)。準々決勝のチェルシー戦で敗退したものの、ベスト8という成績を残した。2006年10月にはバロンドール候補50人にノミネートされた。リーグ戦では16得点し、ラウール・タムードと並んで得点ランク6位に入った。
2007-08シーズンは自身にとってもクラブにとっても困難なシーズンであった。シーズン序盤に監督のキケ・サンチェス・フローレスが解任され後任にロナルド・クーマンが就任したが、彼はサンチャゴ・カニサレスなどのベテラン選手と対立し、成績も散々だったため、シーズン終了を待たずに解任された(シーズン残り5試合はチーム代表のボロが指揮)。レバンテUD戦でバレンシアでのリーグ戦100試合出場を達成し、54ゴール目から56ゴール目を決めた。UEFAチャンピオンズリーグではグループリーグのシャルケ04戦でこの大会唯一の得点を決めたが、グループ最下位で敗退した。コパ・デル・レイ準決勝ではFCバルセロナを、決勝ではヘタフェを破り、バレンシア移籍後初のタイトルを獲得した。シーズン終盤には2014年まで6年間の契約延長を果たした。
UEFA EURO 2008で得点王を獲得して迎えた2008-09シーズン、マジョルカとの開幕戦で幸先良くゴールを記録した。彼の獲得に失敗したレアル・マドリードのベルント・シュスター監督は「野心のない選手だ」と獲得失敗を悔やんだが、ビジャは「常に野心を持っている」と切り返した。2008年12月2日、バロンドール投票で7位に選ばれた。2009年1月12日、FIFA最優秀選手投票では9位に選ばれた。UEFAカップのグループステージを2位で通過したが、ベスト32のFCディナモ・キーウ戦でアウェーゴール差で敗れて大会からの敗退が決定した。
リーグ戦では順調に得点を重ねたが、左膝関節部分に炎症を起こし、2週間の間離脱した。4月5日、復帰戦のヘタフェ戦では2得点を決めて4-1で快勝した。4月12日はプロデビューしたスポルティング・ヒホンとの対戦であり、チームの2得点目を決めたが、プレシーズンから約束していた通り、ゴールセレブレーションは行わなかった。2008-09シーズンは33試合で28得点を決め、32得点のディエゴ・フォルラン、30得点のサミュエル・エトーに次いで得点ランク3位に入った。28得点は1978年のマリオ・ケンペス(34試合28得点)、1996年のプレドラグ・ミヤトヴィッチ(40試合28得点)と並ぶクラブ記録となった。バレンシアに移籍してから公式戦通算180試合で101得点となった。
2009年夏の移籍期間にはレアル・マドリード、FCバルセロナ、リヴァプール、チェルシー、マンチェスター・ユナイテッドなどの関心が噂されたが、エスタディオ・デ・メスタージャにとどまることを希望した。8月20日、UEFAヨーロッパリーグ予選スターベクIF戦でシーズン公式戦初得点を決めると、リーグ戦の初得点・2点目を9月13日のバリャドリード戦で決め、1週間後のスポルティング・ヒホン戦でも2得点を決めた。2009年10月18日にはバロンドール候補に選ばれ、10月30日にはFIFA最優秀選手候補に選ばれた。2010年1月17日のビジャレアル戦で2得点したが、最初の得点はバレンシアでのリーグ戦通算100ゴール目となる節目の得点だった。2月22日のヘタフェ戦でも2得点し、2点目はジョルディ・コディーナの上を超えるチップシュートだった。3月18日、UEFAヨーロッパリーグのブレーメン戦(アウェー)ではハットトリックを達成し、アウェーゴール差で次のラウンドに進んだ。5月4日、シェレスCD戦に途中出場したのがバレンシアでのラストゲームとなった。
2010年5月19日、移籍金4000万ユーロ(約44億4000万円)でFCバルセロナに移籍した。4年契約だが5年目のオプションもあり、年俸は700万ユーロと報道されている。5月21日にカンプ・ノウで行われたお披露目式には3万5000人以上のファンが詰めかけ、FWエイドゥル・グジョンセンが2009年に移籍してから空いていた背番号7のシャツを受け取った。シーズン前半では、バレンシア時代と同じく多くのゴールを記録したが、代表戦での疲れや、バルセロナではWG的役割も任されていたことから、後半戦ではゴール数が減少した。それでも、5月29日に行われたマンチェスター・ユナイテッドFCとのUEFAチャンピオンズリーグ決勝ではゴール右隅を射抜くカーブシュートを放ち、優勝に大きく貢献した。
2011年8月17日に行われたスーペルコパ・デ・エスパーニャ、レアル・マドリード戦第2戦では、試合終了間際にメスト・エジルを叩き一発退場となった。なお、エジルも退場している。12月15日、FIFAクラブワールドカップでのアル・サッド戦で左脚のけい骨を骨折。横浜市内の病院で精密検査を行なった結果、復帰に最長5ヶ月かかることがわかり、シーズン終了後まで治療に費やすこととなった。
アーセナルやトッテナムといった国外からの関心も寄せられたが、2013年7月8日、アトレティコ・マドリードへの移籍が合意した。背番号はスペイン代表のチームメイト、フェルナンド・トーレスやラダメル・ファルカオが着けていた9番である。8月21日、スーペルコパ・デ・エスパーニャ第1戦、古巣FCバルセロナ戦にて右足ボレーシュートで得点を記録した。
9月1日、レアル・ソシエダ戦でコケのアシストから移籍後リーグ戦初得点を記録した。2013-14シーズン、リーグ戦36試合に出場し13得点を記録し、1996年以来18年ぶりのリーグ優勝に貢献した。
2014年6月1日、2015年からメジャーリーグサッカーに参入したニューヨーク・シティFCへの移籍が決定。シーズン開始まではAリーグのメルボルン・シティFCでプレーした。2017年23節のレッドブル戦でMLSでの初ハットトリックを決めた。
2018年12月1日、自身の公式Twitter、YouTubeにてヴィッセル神戸への加入を発表した。当日神戸入りし、J1リーグ最終節が行なわれていたノエビアスタジアム神戸にてベガルタ仙台戦を観戦後、スタジアム内の記者会見室で入団会見を行なった。
2019年3月2日、第2節のサガン鳥栖戦で移籍後初得点を決めた。7月6日、第18節の清水エスパルス戦で同年では最速となる今季10点目を記録。通算で13得点をあげ、その中で8点目の第17節・名古屋グランパス戦で決めた得点が、同年のJリーグアウォーズにおいて最優秀ゴール賞に選出された。
2019年11月13日、今シーズン限りでの引退を表明。リーグ最終節の第34節のジュビロ磐田戦でPKを成功させ、これが現役ラストゴールとなった。2020年1月1日、現役最後の公式戦となった天皇杯決勝・鹿島アントラーズ戦では、2点リードで迎えた後半アディショナルタイムに出場。現役最後のタイトル獲得の瞬間をピッチで迎えた。引退会見やリーグ最終節後に行われた引退セレモニーで、天皇杯を優勝してから引退したいと宣言しており、その宣言通りクラブ初のタイトルを獲得し、約20年間の現役生活に幕を閉じた。
2021年12月には、Jリーグで一番凄いと思った選手として山口蛍の名を挙げて「今でも良いキャリアを過ごしていると思うけど、スペインでも素晴らしいキャリアを送られただろう。様々な数値が100%の、かなり複合的に完璧な選手だと評価できると思う」と答えた。
ルイス・アラゴネス体制時にスペイン代表に初招集され、2005年2月9日の2006 FIFAワールドカップ欧州予選アルメリアで行われたサンマリノ戦の後半開始から出場し代表デビューした。初得点は同年11月16日にブラチスラバで行われた同予選スロバキア戦で61分から交代出場し、71分に1-1の同点とする得点だった。この試合は1-1で引き分けた。2005-06シーズンは所属するバレンシアで好調なシーズンを送り、本大会の出場メンバーに選ばれた。初戦のウクライナ戦では2得点を決め、4-0の快勝に貢献した。決勝トーナメント1回戦のフランス戦でも1得点したが、1-3で敗れた。彼とフェルナンド・トーレスが3得点で並び、チーム得点王になった。
UEFA EURO 2008予選ではチーム最多の6得点を決め、ラウル・ゴンサレスに代わって不可欠な選手となった。本大会にも招集され、グループリーグのロシア戦で3得点を決めたが、UEFA欧州選手権でハットトリックを達成したのは2000年大会のパトリック・クライファート以来だった。スウェーデン戦では92分に決勝点を決め、引き分け濃厚の試合を勝利に導いた。グループリーグ3戦目のギリシャ戦は休養したが、決勝トーナメント1回戦のイタリア戦には出場し、0-0で迎えたPK戦は1番目に蹴った。PK戦に4-2で勝利したスペインは24年ぶりに準決勝に進出し、準決勝ではグループリーグでも対戦したロシアとぶつかった。フリーキックを放った際に腿を痛め、前半途中にセスク・ファブレガスと交代した。その怪我の影響により決勝のドイツ戦には出場できなかったが、ビジャを欠きながらもスペイン代表は1-0で勝利を収め、44年ぶり2度目の優勝を飾った。4試合で4ゴールを決めた彼は大会得点王とゴールデンブーツ、FIFAによる大会ベストイレブンに選ばれた。
2008年9月11日、2010 FIFAワールドカップ欧州予選の開幕戦ボスニア・ヘルツェゴビナ戦では試合唯一となる得点を決めた。ベルギー戦ではロスタイムに決勝弾を叩き込むなど、2節からの3試合で4得点した。2008年は代表戦通算で12ゴールを決め、1999年にラウル・ゴンサレスが達成した年間10ゴールの記録を破った。また、イングランド戦まで6試合連続ゴールを記録し、テルモ・サラとラディスラオ・クバラの記録を破ってスペイン代表の新記録を樹立した。
2009年6月1日、FIFAコンフェデレーションズカップに出場するメンバーに選ばれた。大会直前の6月9日に行われたアゼルバイジャンとの親善試合では、1年前のロシア戦に続いて2度目のハットトリックを達成した。本大会のグループリーグ、ニュージーランド戦、イラク戦と2戦連続ゴールして迎えた南アフリカ戦ではPKを外したが、プレーが再開されると1分も経たないうちにネットを揺らした。アメリカ戦に敗れて敗退したため、得点ランク3位に終わったが、スペイン代表の連続勝利記録と連続不敗記録の更新に貢献した。
マケドニア共和国(現:北マケドニア共和国)戦で代表50キャップ目を記録した。2009年9月5日、ア・コルーニャで行われたベルギー戦で2ゴールを決めた。前半にPKを蹴る機会があったが、GKジャン・フランソワ・ジレに止められた。オーストリア戦では代表で6度目の1試合2得点を決めた。2010年最初の試合はフランス戦で、2-0で快勝したこの試合で先制点を奪った。
2010年5月、2010 FIFAワールドカップ本大会の出場メンバーに選ばれた。大会前に行われたサウジアラビアとの親善試合では、UEFA EURO 2008でハットトリックを達成した相性の良いスタジアムで1得点を決めた。韓国戦ではゴールを奪えなかったが、6-0と記録的な大勝に終わったポーランド戦では先制点を決め、大会前最後の試合を飾った。
グループリーグ第1戦は1トップで起用されたが、ゴールを奪うことはできず、逆にカウンターから1点を失ってスイスに敗れた。2戦目のホンジュラス戦ではスペインの全得点となる2得点を挙げて勝利し、大会選定のマン・オブ・ザ・マッチに選出された。3点目をPKで決めるチャンスがあったが、ゴールネットを揺らすことはできず、ハットトリックは逃した。FIFAワールドカップ本大会の舞台で、スペイン代表の選手がPK戦以外でPKを外したのは、過去14回で初めてだった。3戦目のチリ戦では相手GKクラウディオ・ブラーボがクリアしたボールを拾い、ミドルレンジからシュートを放って先制点を決めた。前回大会から合わせて6得点目となり、5得点の4人(エミリオ・ブトラゲーニョ、フェルナンド・イエロ、フェルナンド・モリエンテス、ラウル・ゴンサレス)を抜いてスペイン代表の歴代最多得点選手となった。決勝トーナメント1回戦のポルトガル戦、準々決勝のパラグアイ戦と2試合連続で1-0での決勝点を挙げ、4試合連続得点を記録した。スペイン代表は準決勝でドイツを破り、決勝では、オランダをイニエスタのゴールで1対0で下し初優勝を果たした。ビジャは5得点でウェズレイ・スナイデル(オランダ)、トーマス・ミュラー(ドイツ)、フォルラン(ウルグアイ)と共に2010FIFAワールドカップ南アフリカ大会得点王に輝いたが、ゴールデンブーツ賞はアシスト数が多かったミュラーのものとなった。
2010年10月12日、EURO2012予選・スコットランド戦でPKを決め、ラウルの持つスペイン代表歴代最多得点記録(44得点)に並んだ。2011年3月25日のチェコ戦で2得点を挙げスペイン代表歴代最多得点記録を更新した。2011年10月11日のEURO2012予選・スコットランド戦で得点を挙げ、スペイン代表史上初となる代表通算50得点を達成した。当然本大会での活躍も期待されていたが、2011年12月に負った怪我(クラブ経歴参照)が完治せず、出場は叶わなかった。
2014年のワールドカップではグループリーグ敗退が決まっていた最終節のオーストラリア戦で先発してゴールを決めた。
2017年8月25日、ビジャは2018年ワールドカップ予選のイタリア代表およびリヒテンシュタイン代表との試合に向けて、スペイン代表に招集された。これは、彼が国際舞台から引退してから3年ぶりの復帰となった。 最終的に、彼のスペイン代表での最後の出場はイタリア戦となり、試合終盤に得点者のイスコに代わって途中出場した。 その後、内転筋の負傷によりリヒテンシュタイン戦は欠場することとなった。
一次情報の発言のみ収録。1回の会見につき主要な発言を最大3つ引用し、他は解説で要約しています。
「彼らは自分の形を持っていて、そこに持っていくのがうまい」
出典:Yahoo!ニュース 2026年10月2日
数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。
| クラブ | シーズン | 年齢 | ディビジョン | リーグ | 国内カップ1 | 大陸大会2 | シーズン通算 | ||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| スポルティング・ヒホンB | 2000-01 | 18 | セグンダ・ディビシオンB | 35 | 13 | — | — | — | — | 35 | 13 |
| 2001-02 | 19 | セグンダ・ディビシオンB | 1 | 1 | — | — | — | — | 1 | 1 | |
| 通算 | 36 | 14 | — | — | — | — | 36 | 14 | |||
| 2000-01 | 18 | セグンダ・ディビシオン | 1 | 0 | — | — | — | — | 1 | 0 | |
| 2001-02 | 19 | セグンダ・ディビシオン | 40 | 18 | 4 | 2 | — | — | 44 | 20 | |
| 2002-03 | 20 | セグンダ・ディビシオン | 39 | 20 | 1 | 1 | — | — | 40 | 21 | |
| 通算 | 80 | 38 | 5 | 3 | — | — | 85 | 41 | |||
| サラゴサ | 2003-04 | 21 | ラ・リーガ | 38 | 17 | 8 | 4 | — | — | 46 | 21 |
| 2004-05 | 22 | ラ・リーガ | 35 | 15 | 3 | 0 | 10 | 3 | 48 | 18 | |
| 通算 | 73 | 32 | 11 | 4 | 10 | 3 | 94 | 39 | |||
| 2005-06 | 23 | ラ・リーガ | 37 | 25 | 4 | 2 | 6 | 1 | 47 | 28 | |
| 2006-07 | 24 | ラ・リーガ | 36 | 16 | 2 | 0 | 11 | 5 | 49 | 21 | |
| 2007-08 | 25 | ラ・リーガ | 28 | 18 | 6 | 3 | 7 | 3 | 41 | 24 | |
| 2008-09 | 26 | ラ・リーガ | 33 | 28 | 5 | 2 | 5 | 1 | 43 | 31 | |
| 2009-10 | 27 | ラ・リーガ | 32 | 21 | 2 | 0 | 11 | 7 | 45 | 28 | |
| 通算 | 166 | 108 | 19 | 5 | 40 | 17 | 225 | 130 | |||
| 2010-11 | 28 | ラ・リーガ | 34 | 18 | 6 | 1 | 12 | 4 | 52 | 23 | |
| 2011-12 | 29 | ラ・リーガ | 15 | 5 | 3 | 1 | 6 | 3 | 24 | 9 | |
| 2012-13 | 30 | ラ・リーガ | 28 | 10 | 5 | 5 | 10 | 1 | 43 | 16 | |
| 通算 | 77 | 33 | 14 | 7 | 28 | 8 | 119 | 48 | |||
| 2013-14 | 31 | ラ・リーガ | 36 | 13 | 4 | 2 | 7 | 0 | 47 | 15 | |
| 2014-15 | 32 | Aリーグ* | 4 | 2 | 0 | 0 | — | — | 4 | 2 | |
| 2015 | 33 | メジャーリーグサッカー | 30 | 18 | 0 | 0 | — | — | 30 | 18 | |
| 2016 | 34 | メジャーリーグサッカー | 33 | 24 | 2 | 0 | — | — | 35 | 24 | |
| 2017 | 35 | メジャーリーグサッカー | 31 | 24 | 3 | 0 | — | — | 34 | 24 | |
| 2018 | 36 | メジャーリーグサッカー | 23 | 14 | 4 | 1 | — | — | 27 | 15 | |
| 通算 | 117 | 77 | 9 | 3 | — | — | 126 | 80 | |||
| 2019 | 37 | J1リーグ | 28 | 13 | 1 | 0 | — | — | 29 | 13 | |
| キャリア通算 | 617 | 330 | 63 | 24 | 85 | 28 | 765 | 382 | |||
1. 国内カップ戦(コパ・デル・レイ、FAカップ、天皇杯など) 2. 大陸大会(UEFAチャンピオンズリーグ、AFCチャンピオンズリーグなど) 年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。
スペイン としての年別成績です。親善試合を含みます。
| 年 | 年齢 | 出場 | 得点 | 得点グラフ |
|---|---|---|---|---|
| 2005 | 23 | 4 | 1 | |
| 2006 | 24 | 14 | 8 | |
| 2007 | 25 | 10 | 3 | |
| 2008 | 26 | 13 | 12 | |
| 2009 | 27 | 13 | 11 | |
| 2010 | 28 | 16 | 9 | |
| 2011 | 29 | 12 | 7 | |
| 2012 | 30 | 3 | 2 | |
| 2013 | 31 | 10 | 3 | |
| 2014 | 32 | 2 | 3 | |
| 2015 | 33 | 0 | 0 | |
| 2016 | 34 | 0 | 0 | |
| 2017 | 35 | 1 | 0 | |
| 通算 | 98 | 59 | ||
年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1991〜1999 | 9 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
| 期間 | 年齢 | チーム | 出場 | 得点 |
|---|---|---|---|---|
| 1999〜2001 | 17 | — | — | |
| 2001〜2003 | 19 | — | — | |
| 2003〜2005 | 21 | — | — | |
| 2005〜2010 | 23 | — | — | |
| 2010〜2013 | 28 | 77 | 33 | |
| 2013〜2014 | 31 | 36 | 13 | |
| 2014〜2018 | 32 | — | — | |
| 2014 | 32 | 4 | 2 | |
| 2019 | 37 | — | — |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は国内リーグ戦の合計で、カップ戦・大陸大会を含む内訳は「個人成績」の表にあります。
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 2000〜2003 | 18 | |
| 2001〜2002 | 19 | |
| 2005〜2017 | 23 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。
| 時期 | 年齢 | 移籍元 | 移籍先 | 形態 | 移籍金 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1999 | 17 | スポルティング・ヒホンB | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | |
| 2003-07 | 21 | スポルティング・ヒホン | サラゴサ | 完全移籍 | 5.3億円 € 3M | |
| 2005-07 | 23 | サラゴサ | 完全移籍 | 21.3億円 € 12M | ||
| 2010-07 | 28 | 完全移籍 | 70.9億円 € 40M | |||
| 2013-07 | 31 | 完全移籍 | 9億円 € 5.1M | |||
| 2014-07 | 32 | 完全移籍 | — | 移籍金は非公表・不明 | ||
| 2014-10 | 32 | 期限付き移籍 | — | |||
| 2019-01 | 37 | フリー移籍 | — |
出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認
日本語版 Wikipedia(経歴)・API-Football(移籍データ)。移籍の有無と移籍先は日本語版 Wikipedia の情報欄、日付・形態・移籍金は API-Football の掲載値。億円換算は ECB レート(2026-10-21 時点)
所属履歴と出場記録から機械的に算出しています。個人の交友関係についての評価は含みません。
同じクラブ・同じシーズンに両者とも出場記録がある選手を、シーズン数の多い順に並べています。取得元(API-Football)のシーズン名簿は 2010-11 シーズン以降しか無いため、それ以前に一緒にプレーしたシーズンは数に入りません。
| 選手 | クラブ | 期間 | シーズン | |
|---|---|---|---|---|
| アンドレス・イニエスタ | 2010〜2019 | 4 | ||
| アドリアーノ・レイテ・リベイロ | 2010〜2012 | 3 | ||
| カルレス・プジョル | 2010〜2012 | 3 | ||
| ダニ・アウヴェス | 2010〜2012 | 3 | ||
| ホセ・マヌエル・ピント・コロラド | 2010〜2012 | 3 | ||
| リオネル・メッシ | 2010〜2012 | 3 | ||
| マルク・バルトラ | 2010〜2012 | 3 | ||
| マルティン・モントヤ | 2010〜2012 | 3 | ||
| ペドロ・ロドリゲス・レデスマ | 2010〜2012 | 3 | ||
| セルジ・ロベルト | 2010〜2012 | 3 | ||
| セルヒオ・ブスケツ | 2010〜2012 | 3 | ||
| ティアゴ・アルカンタラ | 2010〜2012 | 3 | ||
| ビクトール・バルデス | 2010〜2012 | 3 | ||
| シャビ・エルナンデス | 2010〜2012 | 3 | ||
| セスク・ファブレガス | 2011〜2012 | 2 | ||
| クリスティアン・テージョ | 2011〜2012 | 2 | ||
| ハファエウ・アルカンタラ・ド・ナシメント | 2011〜2012 | 2 | ||
| セイドゥ・ケイタ | 2010〜2011 | 2 | ||
| アレクサンドル・ソング | 2012 | 1 | ||
| クリスティアン・ロドリゲス | 2013 | 1 |
本人の在籍期間と監督の在任期間の重なりから算出しています。取得元(API-Football)に在任期間の登録がある監督だけが対象で、古い年代の監督は登録が無いため出ていません。
| 監督 | クラブ・代表 | 在任 |
|---|---|---|
| ウド・ラテック | — | |
| セサル・ルイス・メノッティ | — | |
| ルイス・アラゴネス | 2004〜2008 | |
| クラウディオ・ラニエリ | 2004年6月〜2005年2月 | |
| キケ・サンチェス・フローレス | 2005年7月〜2007年10月 | |
| ペップ・グアルディオラ | 2008年7月〜2012年6月 | |
| ウナイ・エメリ | 2008年7月〜2012年6月 | |
| ビセンテ・デル・ボスケ | 2008年7月〜2016年7月 | |
| 吉田孝行 | 2019年4月〜2019年6月 | |
| ルイス・デ・ラ・フエンテ | 2023年1月〜 |
日本語名を確認できない監督 11 人は掲載していません。
英語の記録名しか確認できないもの(32件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。
代表チームで獲得したメダルです(金2・銀1・銅1)。当サイトの大会結果データとも照合し、食い違いがあれば掲載しません。
| FIFAワールドカップ | 金 2010 南アフリカ |
|---|---|
| UEFA欧州選手権 | 金 2008 オーストリア・スイス |
| FIFAコンフェデレーションズカップ | 銀 2013 ブラジル銅 2009 南アフリカ |
出典は英語版 Wikipedia の「メダル獲得記録(Medal record)」節(記事名・版 ID・取得日は「出典」節に記載)。W杯は当サイトの大会結果データでも一致を確認しています。
本文の一部は、ウィキペディア日本語版「ダビド・ビジャ」(版 111314166)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。
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