ラウル・ゴンサレス

SOCCERPEDIA / 選手・監督ページ / スペインのサッカー選手 / 最終更新:2026年9月1日


概要

スペインラウル・ゴンサレス(Raúl、1977年6月27日生)は、スペイン・マドリード出身の元サッカー選手。ポジションはFW(フォワード)。スペインでは1996年から通算102試合44得点を記録している。クラブでは公式戦通算942試合404得点(1994-95 シーズン以降)。クラブ・代表で通算34個のタイトルを獲得、個人賞は46回(サラ賞 4回、ESM チーム・オブ・ザ・イヤー 3回)。

ラウル・ゴンサレス・ブランコ(、1977年6月27日 - )は、スペイン・マドリード州マドリード出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード。元スペイン代表。

レアル・マドリードの歴代最多出場、2015年にクリスティアーノ・ロナウドに更新されるまでクラブ最多得点 の記録保持者であり、レアル・マドリードの象徴的存在の選手。欧州カップ戦における通算得点記録保持者でもある。その他スペイン代表でも102試合に出場して44得点を挙げ、当時の歴代最多得点記録も持っていた。2002 FIFAワールドカップ後から最後の代表招集まで主将を務めた。その知名度の高さから2016年オリンピックのマドリード招聘のためにコペンハーゲンにて最終プレゼンを任された。2015年よりLFPのアンバサダー(親善大使)を務め、また、FAOの大使としての活動も行なっていた。

レアル・マドリード、シャルケ04、アル・サッド、スペイン代表とキャリアのほとんどで背番号7番を背負ってきた。マンチェスター・ユナイテッドで背番号7番を付けていたデビッド・ベッカムやクリスティアーノ・ロナウドも、レアル・マドリードではラウルが7番を付けていることから別の番号を背負ってプレーした。

クラブ経歴

生い立ち

スペインの首都マドリードに生まれる。父親ペドロはエンジニアで職場がアトレティコ・マドリードの本拠地の近所だったため、ラウルは幼少の頃から身近にサッカーがあったという。10歳でカランサスという学校のクラブチームに入る。ずば抜けたゴール感覚は当時から際立っていたという。当時アトレティコのユースを指揮していたフランシスコ・デ・パウラが入団を申し出に訪問。父親ペドロがアトレティコのファンであったことからも、すぐさま承諾し、アトレティコ下部組織の一員となる が同クラブのユース経営終了に伴い放出される。

レアル・マドリード

1992年にレアル・マドリードのユースに移籍。その2年後、当時監督をしていたバルダーノによってトップチームに昇格し、1994年10月のサラゴサ戦でクラブ最年少記録の17歳と4ヶ月でトップチーム・デビュー。しかし、その試合ではあまり活躍できず、さらにはチームも負けてしまい、ラウルとバルダーノは批判を浴びた。しかし翌週の第10節、アトレティコ・マドリード戦に先発出場し、ミチェルとサモラーノのゴールをアシスト、37分にはラウドルップのアシストからプロ入り初得点を決める活躍を見せ、チームの中心人物であったブトラゲーニョからポジションを奪い、初年度はリーグ戦では28試合で9ゴールを決め、自身初のリーグ制覇に貢献した。

1995-96シーズン、第5節のFCバルセロナ戦ではラウドルップとのワンツーでクラシコ初ゴールを決めた。10月18日、チャンピオンズリーグ、グループステージのフェレンツヴァーロシュTC戦では、同大会史上最年少ハットトリックにして、プロ入り後初のハットトリックを決めた。1996-97シーズン、ファビオ・カペッロ監督指揮下でも中心選手としてリーグ戦では21ゴールを決めて、2度目のリーグ制覇に大きく寄与した。

1997-98シーズン、チャンピオンズリーグ決勝でユヴェントスを破り、初の欧州制覇を成し遂げ、1998-99シーズン、トヨタカップ、ヴァスコ・ダ・ガマとの対戦では相手DFを軽々かわして決勝ゴールを決め、大会MVPを受賞した。第21節のレアル・バリャドリード戦でリーガでは初のハットトリックを決めるなど、リーガの得点王に輝いた。1999-2000シーズン、UEFAチャンピオンズリーグでは決勝のバレンシア戦でチームの3点目となるダメ押しゴールを決めるなど、11ゴールを挙げ大会得点王となった。

2000-01シーズン、スーパーカップのレアル・サラゴサ戦第2戦ではハットトリックを決めて優勝、リーグ戦では2度目のラ・リーガの得点王、UEFAチャンピオンズリーグでも準決勝のFCバルセロナ戦、第2戦でゴールを決め、決勝進出に貢献、決勝のバイエル・レバークーゼン戦でゴールを決めて 優勝に貢献するなど、得点王になった。2001年には、バロンドールにおいて2位、FIFA最優秀選手賞では3位にそれぞれ選ばれた。また、1999-2000シーズンから2001-02シーズンまでの3年間、UEFA年間最優秀FW賞に選ばれた。

2002-03シーズン、クラブの銀河系政策により、コンビを組むFWが最高の連携を見せていたフェルナンド・モリエンテスやグティからロナウドへシフトした。翌2003-04シーズンには、主力の守備的選手が移籍、またラウルは運動量のないロナウドのサポート的な役割が増大し、次第に自身の得点が減少していった。2003年11月には、マドリード市内に所在するレイ・フアン・カルロス大学 (Universidad Rey Juan Carlos) のスポーツ施設入り口にエスタディオ・ラウル・ゴンサレス・ブランコ (El Estadio Raúl González Blanco) が設立された。

2005-06シーズン、UEFAチャンピオンズリーグのグループステージ第2節、オリンピアコス戦で通算50ゴールを記録し歴代1位になった。また、スペイン代表の最多得点記録もかつて持っており、スペイン代表の800得点目と900得点目を決めたのも彼である。2006年8月15日のアイスランドとの親善試合(0-0)で史上2人目の代表通算100試合出場を達成した。

2006-07シーズン前、当時調子を落としていたラウルをクラブ上層部がレンタル移籍させる事で話を進めていたが、ファビオ・カペッロ監督が反対し放出を免れた。また、同年ルート・ファン・ニステルローイが加入し、出場機会が減少したロナウドが半年後に移籍した。そしてそれまで迷走中だったマドリーはシーズン終盤戦に立て直り4シーズンぶりに優勝を飾った。

2007-08シーズン、シーズンを通して本来のセカンドトップで起用されるようになるとかつてのような得点力を取り戻し、第36節のバルセロナ戦でクラシコでは最後となったゴールを決めるなど、前シーズンを大きく上回る得点を記録、リーグ優勝の原動力となった。また、このシーズンより始まったトロフェオ・アルフレッド・ディ・ステファノの最初の受賞者となった。2008-09シーズン、2月15日のスポルティング・ヒホン戦で2ゴールをあげ公式戦通算ゴール数を309とし、クラブ歴代の最多得点記録を持つアルフレッド・ディ・ステファノの307をも超えた。33節のセビージャ戦ではラ・リーガでの最後のハットトリックを決めた。

2009年2月、2010-11シーズン限りで現役引退あるいは欧州の舞台から退く可能性を示唆した。2009-10シーズン開幕前に再びフロレンティーノ・ペレスがレアル・マドリードの会長となり、大型補強を行った。その影響もあり出場機会が減少した。

2010年2月に行われたテネリフェとの試合に途中出場したラウルは、ロスタイムにファン・デル・ファールトのクロスからラ・リーガ通算227ゴール目となるゴールを決めた。これにより、ディ・ステファノと並びラ・リーガの得点記録歴代3位となり、テルモ・サラの持つ最多得点記録251まであと24と迫った。また同時に、フランシスコ・ブーヨのラ・リーガ542試合出場と並んで出場試合数においても歴代3位タイとなった。デビューしたスタジアムでもあるラ・ロマレーダで行われた第34節のサラゴサ戦では、ラウルにとってレアル・マドリードでの最後の得点となる先制点を挙げ、7月にレアル・マドリードを退団した。

シャルケ04時代

2010-11シーズンの移籍市場にて、シャルケ04と2年契約を結んだ。シャルケの監督を務めていたフェリックス・マガトは、公式サイト上で「シャルケにとって素晴らしいニュースだ。並外れた選手であり、ワールドクラスのストライカーの獲得に成功した」と紹介した。シャルケでの初試合となった8月1日のバイエルン・ミュンヘンとの非公式親善試合で初得点を記録し、チームも勝利した。公式戦デビューは7日のDFLスーパーカップで、再びバイエルン・ミュンヘンとの試合であった。しかしその試合では得点を挙げることができず、チームも敗れた。21日のハンブルガーSV戦でブンデスリーガデビューを果たした。9月25日、第6節のボルシアMG戦で移籍後公式戦初ゴール、11月20日、第13節のブレーメン戦、12月17日のケルン戦で それぞれハットトリックを決めた。チャンピオンズリーグでは10月20日、ハポエル・テルアビブ戦での2ゴールで自身の持つCL最多得点を68に更新した。2011年2月、UEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦バレンシアCF戦第1戦において、自身のCL最多得点を69に更新し、欧州カップ戦の合計でもフィリッポ・インザーギを抜いて単独最多の71得点とした。またこの試合でCL出場試合数も139となり、パオロ・マルディーニの最多記録に並んだ。

2011-2012シーズン、12月17日のヴェルダー・ブレーメン戦ではハットトリックを決め。2月19日のVfLヴォルフスブルク戦ではシャルケでの33得点目を記録し、レアル・マドリードでの323得点及びスペイン代表での44得点と合わせてキャリア通算400得点を達成した。

2012年で契約満了となるラウルに対してシャルケは1年間の契約延長を提示したが、新たな2年契約を望んでいたとされる ラウルとの間で交渉は決裂。ラウルが家族との時間を多く確保したいと希望したこともあり、2011-12シーズン終了後に退団することが公式HPで発表された。4月28日、第33節のヘルタ・ベルリン戦でシャルケでのラストゴールを決めた。シャルケのスポーツディレクターを務めるホルスト・ヘルトは、2年しかプレイしていないにも関わらずラウルの背番号7を永久欠番とする意向を発表した。

アル・サッド時代

2012年5月13日、カタールリーグのアル・サッドが公式HP上で、ラウルが1年契約で加入することを発表した。ラウルはクラブの副キャプテンを任され、8月5日のシェイク・ジャシムカップで公式戦初出場、PKから得点も挙げた。ラウルはリーグ9得点を挙げ、アル・サッドのリーグ優勝に貢献した。

2013年8月22日、トロフェオ・サンティアゴ・ベルナベウでサンティアゴ・ベルナベウに凱旋。前半はレアル・マドリード、後半はアル・サッドの選手としてプレーしたラウルは、前半にアンヘル・ディ・マリアのパスから得点を挙げた。

2013-14シーズンは、カタールリーグでは3位に終わったものの、アミールカップを獲得した。

ニューヨーク・コスモス時代

2014年夏、契約満了のためアル・サッドを退団。現役引退も報じられたが、2014年10月30日、ニューヨーク・コスモスに2015年からの加入とユースアカデミーのテクニカルアドバイザーを兼任することが発表された。ユースのテクニカルアドバイザーも務めることが明らかとなっており、現役を退いた後も同クラブの若手指導に尽力することとなる。2015年、NASLのタイトルを獲得し、現役最後の試合オタワ戦で先発出場を果たす。先制したNYコスモスは、その後も追加点を挙げるなど3-2で勝利を収めて優勝し、現役最後の試合を有終の美で飾った。

代表経歴

代表来歴

1995年にはスペイン代表としてワールドユース選手権に出場。5試合で3得点を挙げた。また、1996年に行われた自国開催のUEFA U-21欧州選手権にも出場、9試合で8得点を挙げる活躍をし、スペインの準優勝に貢献した。ラウルは各世代の代表ユースで、合計17得点を記録した。

1996年10月9日、1998 FIFAワールドカップ予選のチェコ戦で先発出場してフル代表デビューを果たし、12月14日、同予選のユーゴスラビア戦でフル代表初ゴールを決めた。本大会ではグループリーグ初戦のナイジェリア戦では試合に敗れたが、ゴールを決めた。第3戦のブルガリア戦ではモリエンテスのゴールをアシストしたが、1勝1負1引き分けで決勝トーナメントにも進出出来なかった。EURO 2000の予選では、オーストリア代表との試合で4ゴールを挙げ、さらにその4日後に行われたサンマリノ代表戦でもハットトリックを記録。本大会ではグループリーグ第2戦のスロベニア戦で1ゴールを決め、第3戦のユーゴスラビア戦ではアルフォンソのゴールをアシストして勝利し、決勝トーナメントに進出した。

2002年、ワールドカップ日韓大会ではグループリーグ初戦のスロベニア戦で1ゴール、南アフリカ戦では2ゴール、グループリーグでは3ゴール1アシストを決め、準々決勝の韓国戦では負傷で出場せず、チームはPK戦の末に破れ、準決勝に進出出来なかった。2006年のワールドカップドイツ大会ではグループリーグの3試合にいずれも途中出場、第2戦のチュニジア戦で1ゴールを挙げ、ラウンド16のフランス戦では先発し54分間プレーしたが、チームは1-3と敗れた。2006年9月6日の北アイルランド戦が代表最後の試合となった。

出場大会

102試合 / 44得点 同大会終了後、フェルナンド・イエロの代表引退に伴い、キャプテンを引き継いだ。

監督経歴

現役引退後

引退後は、引き続きニューヨークに居住し、上述のNYコスモスのテクニカルアドバイザーを務めつつ、LFPの北米大使に就任している。

2017年に故郷のマドリードに帰還し、育成部門のスタッフとして古巣レアル・マドリードに7年ぶりに復帰した。同時にUEFAのコーチングコースを履修しており、2018年に監督ライセンスを取得、1年間の育成年代での指導が義務づけられていることから、2018-19シーズンより下部組織の監督就任が内定したことが報じられ、カデーテB(U-15)の監督に就任したが、2019年3月にフベニールB(U-18)の監督を務めていたアルバロ・ベニトの解任(コメンテーター業でトップチームの選手を批判したことが原因とされる)を受け、後任にラウールが昇格。2019年6月20日、レアル・マドリード・カスティージャの監督昇格が発表。

2019-20シーズンは、カスティージャはリーグ7位で2部昇格を逃した。また2020年7月にはフベニールAの監督を務めていたダニエル・ポヤトスがパナシナイコスFCの監督に就任、ラウールが暫定監督としてフベニールAの残り試合を指揮することになり、フベニールAはUEFAユースリーグでクラブ史上初の決勝進出、さらに決勝戦のSLベンフィカU-19戦で3-2で勝利、クラブ史上初のユースリーグ優勝に導いた。2025年5月27日、カスティージャ監督からの退任が発表された。6年間の在任期間は現行のカスティージャになってからは最長記録となった。

プレースタイル

プレースタイル

素早い思考やスペース活用の上手さ、ゴールへの嗅覚を活かしたプレーが持ち味。その他にも、ヘディングも得意であり、ループシュートなどのテクニカルなシュートやペナルティエリア外からのミドルシュート、ドリブルからの得点などあらゆる形で得点することができた。タックルやディフェンスもでき、フェルナンド・モリエンテスやロナウド、ルート・ファン・ニステルローイら様々なタイプのFWとコンビを組むことができた。

パスの受け手にも送り手にもなれる器用さを持ち、得点だけでなくアシストやチャンスメイクにも優れている。セカンドストライカーとしての他にもサイドハーフとしてもプレーできるほか、1997-98シーズンなど攻撃的MFとしてプレーすることもあった。ポリバレントな役割ができるラウルは、クロード・マケレレが去った銀河系軍団において中盤を走り回り相手へのプレッシャーやボール奪取などディフェンスの役割を求められた。そのため一時は得点数が減少したが、カルロス・ケイロスは「彼の中盤での仕事のおかげで何勝したかわからない」と高評価を与えている。運動量も豊富であり、自宅に低酸素室を設置して心肺の強化に努めている。フェルナンド・イエロは、技術や上品さ、パフォーマンスからフェラーリに喩えて賞賛した。

ドン・バロン・アワードでは、最多の5度最優秀スペイン人選手に選ばれており、2004年にはFIFA 100にも選ばれている。この賞に選ばれたスペイン人は、ラウルの他にはブトラゲーニョ、ルイス・エンリケの2人のみである。フランチェスコ・トッティは「ラウルのような選手がバロンドールの受賞経験がないなんておかしな話だよ」と賞賛し、かつてのチームメイトであるロナウドも、アレッサンドロ・デル・ピエロ、トッティ、パオロ・マルディーニ、ロベルト・カルロスとともにバロンドールを受賞すべきだった選手として名前を挙げている。

人物像

ゴールパフォーマンス

ゴールを決めた際に、結婚指輪にキスするゴールパフォーマンスは有名。ワールドサッカーダイジェストのインタビューにて、試合前審判に指輪を外すよう言われたことは何度もあるが、そのたび隠して持ち込んでいたと話している。他にはゴールを決めた際に背番号を指したりアシストした選手を指差して称えるパフォーマンスがある。

1999年10月3日にカンプ・ノウで行われたFCバルセロナとのエル・クラシコにて、ラウルの得点後バルセロナに2失点を喫した後半41分にラウルが2得点目を奪って同点に持ち込んだ。2得点目を決めた後、敵地の大観衆に向かって口に人差し指を当てて疾走した。

その他

読書家であり、愛読書はアルトゥーロ・ペレス=レベルテ。また、狩りやスペイン音楽、闘牛も好む。優勝時には、レアル・マドリードのエンブレムの入ったカポーテで闘牛のパフォーマンスを行ったこともある。ラウルがレアル・マドリードから移籍した後は、このパフォーマンスはセルヒオ・ラモスに受け継がれた。

レアル・マドリードの一員として親善試合のため来日した際、フェルナンド・モリエンテスと共にフジテレビのバラエティ番組・めちゃ×2イケてるッ!のコーナー「やべっち寿司」に出演した。その際にペナルティのワッキーが披露した芝刈り機のモノマネについて、すごく面白かったと語っている。

個人成績

数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。

クラブ

クラブシーズン年齢ディビジョンリーグ国内カップ1大陸大会2その他3シーズン通算
出場得点出場得点出場得点出場得点出場得点
レアル・マドリードC1994-9517セグンダ・ディビシオンB916——————916
レアル・マドリード・カスティージャ1994-9517セグンダ・ディビシオン10——————10
スペインレアル・マドリード1994-9517ラ・リーガ2892100——3010
1995-9618ラ・リーガ40192186205226
1996-9719ラ・リーガ422151————4722
1997-9820ラ・リーガ351010112234915
1998-9921ラ・リーガ37252083214929
1999-2000—ラ・リーガ3417401510425729
2000-0123ラ・リーガ362400127215032
2001-0224ラ・リーガ351466126235529
2002-0325ラ・リーガ311620129204725
2003-0426ラ・リーガ35117692215320
2004-0527ラ・リーガ32910104——4313
2005-0628ラ・リーガ2650062——327
2006-0729ラ・リーガ3571075——4312
2007-0830ラ・リーガ37181085204823
2008-0931ラ・リーガ37181373204724
2009-1032ラ・リーガ3052072——397
通算5502283718132662211741323
ドイツシャルケ2010-1133ブンデスリーガ341341125105119
2011-1234ブンデスリーガ321532114104721
通算662873239209840
カタールアル・サッド2012-1335カタール・スターズリーグ22912300——3412
2013-1436カタール・スターズリーグ1725250——274
通算391117550——6116
アメリカニューヨーク・コスモス201537北米サッカーリーグ28820——21329
キャリア通算6932916326160752612942404

1. 国内カップ戦(コパ・デル・レイ、FAカップ、天皇杯など) 2. 大陸大会(UEFAチャンピオンズリーグ、AFCチャンピオンズリーグなど) 3. 国内スーパーカップ・国際大会・プレーオフなど(UEFAスーパーカップ、FIFAクラブワールドカップ、リーグスカップ等) 年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

代表

スペイン としての年別成績です。親善試合を含みます。

年年齢出場得点得点グラフ
19961841
19971960
199820104
199921910
200022113
20012395
20022496
200325108
200426133
200527122
20062892
通算10244

年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

監督成績

在任別・通算

英語版 Wikipedia の Managerial statistics の値です(Wikipedia(英語版)、revid 1378288856)。勝率は勝利数÷試合数。当サイトによる補完・推計は行っていません。

在任期間年齢チーム試合勝分敗勝率
2019.06〜2025.0541スペインレアル・マドリード・カスティージャ20982705739.2%
通算20982705739.2%

所属チーム

ユース

期間年齢チーム
1990〜199212スペインアトレティコ・マドリード
1992〜199414スペインレアル・マドリード

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

クラブ

期間年齢チーム出場得点
1994〜201016スペインレアル・マドリード——
199416スペインレアル・マドリードC——
199416スペインレアル・マドリードB——
2010〜201232ドイツシャルケ6628
2012〜201434カタールアル・サッド3911
2015〜201637アメリカニューヨーク・コスモス——

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は国内リーグ戦の合計で、カップ戦・大陸大会を含む内訳は「個人成績」の表にあります。

代表

期間年齢チーム
199416スペインスペイン U-18
199517スペインスペイン U-20
1995〜199617スペインスペイン U-21
199618スペインスペイン・オリンピック
1996〜200618スペインスペイン

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

監督

在任年齢チーム役職
2018〜201940スペインレアル・マドリードU-15監督
2019〜201941スペインレアル・マドリードU-18監督
2019〜202541スペインレアル・マドリードB監督
2020〜202042スペインレアル・マドリードU-19(暫定)監督

移籍金・年俸・市場価値の推移

移籍履歴

掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。

時期年齢移籍元移籍先形態移籍金備考
199416スペインレアル・マドリードスペインレアル・マドリードC期限付き移籍—期間・移籍金は未確認
199416スペインレアル・マドリードスペインレアル・マドリードB期限付き移籍—期間・移籍金は未確認
201032スペインレアル・マドリードドイツシャルケ移籍—形態・移籍金は未確認
201234ドイツシャルケカタールアル・サッド移籍—形態・移籍金は未確認
201537カタールアル・サッドアメリカニューヨーク・コスモス移籍—形態・移籍金は未確認

※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。

出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認

人物相関

所属履歴と出場記録から機械的に算出しています。個人の交友関係についての評価は含みません。

共にプレーした選手

同じクラブ・同じシーズンに両者とも出場記録がある選手を、シーズン数の多い順に並べています。取得元(API-Football)のシーズン名簿は 2010-11 シーズン以降しか無いため、それ以前に一緒にプレーしたシーズンは数に入りません。

選手クラブ期間シーズン 
アブドゥルカリーム・ハサンカタールアル・サッド2012〜20132
内田篤人ドイツシャルケ2010〜20112
クリストフ・モリッツドイツシャルケ2010〜20112
マヌエル・ノイアードイツシャルケ20101

指導を受けた監督

本人の在籍期間と監督の在任期間の重なりから算出しています。取得元(API-Football)に在任期間の登録がある監督だけが対象で、古い年代の監督は登録が無いため出ていません。

日本語名を確認できない監督 1 人は掲載していません。

タイトル

クラブ

レアル・マドリード(選手)

シャルケ04(選手)

アル・サッド(選手)

ニューヨーク・コスモス(選手)

スペイン代表 U-21(選手)

個人

英語の記録名しか確認できないもの(32件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。

獲得メダル

代表チームで獲得したメダルです(銀1)。当サイトの大会結果データとも照合し、食い違いがあれば掲載しません。

UEFA U-21欧州選手権銀 1996 スペイン

出典は英語版 Wikipedia の「メダル獲得記録(Medal record)」節(記事名・版 ID・取得日は「出典」節に記載)。W杯は当サイトの大会結果データでも一致を確認しています。

本文の一部は、ウィキペディア日本語版「ラウル・ゴンサレス」(版 109216422)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。

出典

  1. API-Football(選手・監督データ)、2026年10月25日 取得 https://www.api-football.com/
  2. Wikidata、2026年10月25日 取得 https://www.wikidata.org/
  3. Wikipedia(日本語版)「ラウル・ゴンサレス」、版 ID 109216422、2026年10月14日 取得 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%AC%E3%82%B9
  4. Wikipedia(英語版)、版 ID 1378288856、2026年10月14日 取得 https://en.wikipedia.org/wiki/Ra%C3%BAl_Gonz%C3%A1lez

※ 出典は媒体名・日付・URL を文字で記載しています(外部サイトへのリンクは行いません)。出典が確認できない数値はページに載せません。

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