ディエゴ・フォルラン

SOCCERPEDIA / 選手・監督ページ / ウルグアイのサッカー選手 / 最終更新:2026年9月1日


概要

ウルグアイディエゴ・フォルラン(Diego Forlán、1979年5月19日生)は、ウルグアイ出身の元サッカー選手。ポジションはFW(フォワード)、所属はウルグアイU-20代表。ウルグアイでは2002年から通算112試合36得点を記録している。クラブでは公式戦通算700試合274得点(1998-99 シーズン以降)。クラブ・代表で通算11個のタイトルを獲得、個人賞は13回(ピチーチ賞 2回、欧州ゴールデンシュー 2回)。

ディエゴ・フォルラン・コラソ(Diego Forlán Corazo () , 1979年5月19日 - )は、ウルグアイ、モンテビデオ出身の元サッカー選手、指導者。元ウルグアイ代表。ポジションはフォワード、ミッドフィールダー。バスク系ウルグアイ人。プロテニス選手。

ピチーチ賞とヨーロッパ・ゴールデンシューを2度受賞している。2010年ワールドカップでは、ウルグアイ代表として5ゴールを挙げて得点王に輝き、大会最優秀選手としてゴールデンボールを受賞するなど、個人としても大きな成功を収めた。

クラブ経歴

キャリア初期

祖母はヨーロッパにあるバスク地方のギプスコア県オンダリビア出身のバスク人であり、まずアルゼンチンに、その後ウルグアイに渡った。母方の祖父であるは1962年の1962 FIFAワールドカップのウルグアイ代表監督で、父親のパブロ・フォルランも元サッカー選手で1974 FIFAワールドカップへの出場経験を有する。少年時代はテニスの腕も一流だった。学生時代は学業も疎かにせず、成績も優秀であり、高校はモンテビデオ市内有数の名門校に通っていた。語学は、母国語のスペイン語に加え、フランス語、ポルトガル語、イタリア語、英語で会話することができる。

12歳の時に姉が交通事故により恋人と下半身の自由を失う。姉の治療費は高額で、この事を知ったディエゴ・マラドーナが募金を呼びかけたものの、家計は圧迫された。15歳のフォルランは、姉のために1年間の期限という約束で父親の所属していたCAペニャロールと契約し、結果を出した。2000年にアルゼンチンのCAインデペンディエンテに移籍し、2001年にカップ戦を含めて23ゴールをあげた。

マンチェスター・ユナイテッド

2002年1月、プレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッドに移籍金690万ユーロで移籍した。1月29日のボルトン戦でデビューしたが、2001-02シーズンは無得点に終わった。9月18日、UEFAチャンピオンズリーグのマッカビ・ハイファFC戦でPKを決めて移籍後初ゴールを挙げ、10月26日のアストン・ヴィラ戦でリーグ戦初ゴールを決めた。2002-03シーズンはチェルシー戦でロスタイムに決勝点となるボレーシュートを決め、アンフィールドでのリヴァプール戦で2得点するなど、通算6ゴール(内4ゴールは決勝点)を記録し、クラブのリーグ制覇に貢献した。2002年12月のサウサンプトン戦では試合終了間際にゴールを決めた。2003-04シーズンは通算4ゴールと不振に喘いだ。マンチェスター・Uでは2シーズン半で95試合に出場して17得点を決めたが、2004年8月にFWウェイン・ルーニーが加入したことにより、ポジション争いが激しさを増すことが予想された。

ビジャレアルCF

2004年には所属選手をバスク人に限定するチーム哲学で知られるアスレティック・ビルバオへの移籍に興味を示したが、移籍金などの問題もあって実現しなかった。2004年8月21日、フォルランはリーガ・エスパニョーラのビジャレアルCFに新天地を求めた。移籍初年度の2004-05シーズンはリーグ戦38試合で25ゴールをあげ、アルゼンチン代表フアン・ロマン・リケルメらと共にクラブをUEFAチャンピオンズリーグ出場権を得る3位に導いた。また、FCバルセロナのサミュエル・エトーらを抑えて得点王(ピチーチ賞)のタイトルを獲得し、アーセナルFCのFWティエリ・アンリと並んでヨーロッパ・ゴールデンシューを受賞した。得点の内訳は右足で14得点、左足で10得点、頭で1得点であり、両足を同等に扱えることを証明した。

翌2005-06シーズンは調子を落とし、10ゴールに終わったが、3シーズン目の2006-07シーズンは19ゴールを決めてUEFAカップ出場権獲得に貢献した。ビジャレアル在籍時はフォワードの選手ながら守備的な選手が付けることが多い背番号5を付けていた。これは空いていた背番号をもらったとのことであるが、現役を引退した兄と同じ番号でもある。

アトレティコ・マドリード

2007年6月30日、エースストライカーのフェルナンド・トーレスを手放していたアトレティコ・マドリードへ移籍金2100万ユーロ(約35億円)で移籍した。2007-08シーズンはFWセルヒオ・アグエロと2トップを組み、16ゴールを決める活躍を見せた。

2008-09シーズンはリーグ戦33試合に出場して32ゴールをあげ、またしてもFCバルセロナのエトーを抑えて自身2度目の得点王を獲得し、2度目となるヨーロッパ・ゴールデンシューを受賞した。リーガ・エスパニョーラで30ゴール以上をあげたのは1996-97シーズンのロナウド以来の記録である。

2010年4月22日、UEFAヨーロッパリーグ準決勝リヴァプール戦第1戦で試合唯一となる得点を決め、第2戦でも得点して決勝進出に貢献した。フラムと対戦した決勝では2ゴールを挙げて2-1で勝利。アトレティコにUEFAヨーロッパリーグ優勝をもたらした。

2010-11シーズンは8得点に終わり、監督のキケ・フローレスの確執が度々報じられる など、キャリア最低のシーズンとなった。夏の移籍市場ではインテルへの移籍の可能性が報じられる。8月29日に本人が退団会見を開き、アトレティコのファンに別れを告げた。

インテル、インテルナシオナル

2011年8月31日、インテルナツィオナーレ・ミラノ(インテル)と2年契約を結んだことが発表された。しかし、怪我やディエゴ・ミリートの好調もあり、リーグ戦18試合出場で2ゴールにとどまった。

セレッソ大阪 ― 世界的プロアスリートの加入

2014年1月、セレッソ大阪と2014年12月までの完全移籍で合意。練習試合で約35メートルのロングシュートを突き刺し、前評判に違わぬ実力を見せつけると、4月の大阪ダービーでは、直接FKを含む2得点。3月18日に行われたAFCチャンピオンズリーグ・ブリーラム・ユナイテッドFC戦で移籍後初ゴールを挙げ、3月23日に行われた鹿島アントラーズ戦でJリーグでの初ゴールを決めた。ACLの山東魯能戦でチームの16強入りを決める決勝点を決めた。ヴィッセル神戸戦でも2得点を挙げる活躍で、リーグ戦では中断期間までの13試合で6ゴールを決めた。

キックの精度やシュート力だけでなく、シュートを打つためのスペースと時間を作る動きなどストライカーとしての魅力は見せたが、加入前のレヴィー・クルピ監督退任から続いていた経営陣の迷走により、南野拓実ら他の選手と同様にその能力を全て発揮出来なかった。また、当時のチーム状況について柿谷曜一朗は「それまでは香川真司、乾貴士、清武弘嗣が中心としているうえで外国籍選手がいた。でも、世界的選手のフォルランがやってきて誰がフォルランに合わせるかというチームになった。セレッソはそういう事をしないチームだと思っていた」と話している。

ランコ・ポポヴィッチがクラブから解任され、後任のマルコ・ペッツァイオリの元では途中交代となった際、ベンチの側にあったボトルを蹴り上げ厳重注意を受けた。チーム状況も悪化していく中ではあったが、8月の川崎フロンターレ戦では後ろからきたボールをダイレクトボレーシュートで決めるなど鮮烈なゴールを決めた。ペッツァイオリ解任後就任した大熊裕司はフォルランをベンチに置くことが多く、22節神戸戦を最後にスタメンに名を連ねることはなく、J1残留の懸かった最終盤でもベンチに入ることはなかった。 90分間フル出場したのは、わずかに9試合であった。チームは開幕前は優勝候補の一角に挙げられるなど大いに期待されていたが、まさかのJ2降格という最悪の結果となった。南米などで移籍先を探ったが、好オファーがなく断念。自身に主導権があったC大阪との契約延長オプションを行使し、半年契約で残留が決まった。

セレッソ大阪 ― J2時代

4月29日に行われた京都サンガF.C.戦で来日初ハットトリックを達成。5月17日のV・ファーレン長崎でのゴールは セレッソでの最後のゴールとなった。

2015年6月1日の16節終了時点で10得点2アシストの大活躍で、J2得点ランキング1位にランクイン していたが、セレッソは高額な年俸などを理由に7月末で切れる契約を延長しない事が発表された。また、フォルランも8日に自身のツイッターに「1年半の契約を終え、セレッソ大阪との契約を更新しないことにしました。クラブに感謝します。ありがとうございました!」とチームを退団する事を報告している。7月31日まで契約だったが、クラブと本人が合意し、6月22日付での契約満了へとなった。6月21日に行われた徳島ヴォルティス戦の試合終了後に退団セレモニーが行われ、「今日は寂しい思いをしている。こんなに大好きなチームを去ることは残念だが、心の底から昇格を願っている。またいつの日か日本に帰ってきて、みなさんと会える日を楽しみにしています!」と話した。高額な年俸の割に結果が残せなかったことに批判もあったが、フォルランはクラブに残せたものについて「自分の姿勢や人間的な部分を見てもらえているとしたら、それは伝わっているのではないか」とコメントしており、チームメイトだった山口蛍も「プロとして模範となる姿勢はしっかり見せてくれたと思う」と話している。

またフォルランは様々な心境を明かしている。20年にわたってずっと海外でのプレーを続けられた秘訣やJリーグでプレーする外国籍選手については「その国の環境に順応することを常に心がけている。とりわけ重要なのは言葉だね。スペインやイングランドはまったく問題なかったし、ブラジルでプレーすることになったときもポルトガル語はマスターした。ただし、日本語は難しいよ。それでも日常生活でほとんど戸惑うことはなかったし、日本食も昔から大好きだった。」「もっと外国人選手が来れば、日本のリーグの向上に貢献するだろう。多すぎるのはよくないけどね。ただし、言葉の壁は高いと思うよ」と話した。また、様々な質問に回答しており、2014年末フォルランが母国ウルグアイのテレビ局のインタビューで語った内容が、日本国内で「セレッソ大阪を批判した」と大きく報道され、騒動になったことについて、フォルラン氏自身が後に「真意ではない。ニュアンスが間違って伝わってしまった」と説明している。「(2014年終了後にセレッソのサポーターからメッセージが綴られたアルバムを8冊渡された)うれしいサプライズだった。英語やスペイン語で書かれたファンからの2000ものメッセージが綴じられた8冊の美しいアルバムをくれたよ。あれは私の宝物なので、今もウルグアイの実家に置いてある。いずれ子どもができたら見せたいくらいだ。私は家に持ち帰れないほどのたくさんの花束ももらった。サポーターに伝えてほしい。私はずっと日本という国が大好きだったし、その気持ちは今も変わらない。セレッソ大阪というクラブについても同様だ。私がこの国を離れるのは好き嫌いの話でなく、単に契約の話でしかないんだよ」「セレッソ大阪のスタジアムは、多くの若い女性が来られる安全な環境だった」「私が去るとき、クラブのスタッフや選手たちは私に歌を歌ってくれた。空港では1000人のファンに見送ってもらった。彼らもまた歌を歌ってくれた。こんな経験は今までしたことがなかった」「大阪・日本の人たちからは温かさを感じたよ。言葉の壁は常にあったし、通訳を通すと、会話も途切れてしまう。だが彼らは、私たちに英語で話そうともしてくれた」。

ペニャロール

2015年7月に父親であるパブロ・フォルランが長年にわたってプレーし、自身も下部組織として所属していたウルグアイのCAペニャロールへ移籍。24年ぶりの古巣復帰となった。復帰戦となったモンテビデオ・ワンダラーズとの親善試合で2ゴールを挙げる活躍をした。

2015-16シーズン31試合8得点を記録し、クラブの3シーズンぶり50度目のリーグ優勝に貢献した。しかし、2016年6月15日に退団を発表した。

ムンバイ・シティFC

2016年8月にインド・スーパーリーグのムンバイ・シティFCと3ヶ月の短期契約を結んだ。

傑志

ムンバイ退団後は無所属が続いていたが、2018年1月に香港プレミアリーグの傑志に加入した。同年5月、契約満了となり退団。2019年8月7日、現役引退を発表した。

オールド・ボーイズ&オールド・ガールズ・クラブ

2022年2月に現役復帰し、ウルグアイのオールド・ボーイズ&オールド・ガールズ・クラブのシニアチーム(40歳以上の選手で構成)に入団。ウルグアイ大学スポーツリーグ(Liga Universitaria de Deportes)でリーグ戦を戦うこととなった。2月23日、再デビューを果たし、左コーナーキックのキッカーを任されたフォルランは、これを直接ゴールに沈めた。

代表経歴

代表経歴

2002年にウルグアイ代表に初招集され、3月27日に行われたサウジアラビア代表との国際親善試合でデビュー。同年に開催された2002 FIFAワールドカップに出場し、グループリーグのセネガル代表戦でボレーシュートを決めたが、チームはグループリーグで敗退した。

2007年頃に代表レギュラーの座を獲得し、コパ・アメリカ2007準決勝ではブラジル代表相手に得点したが、PK戦でシュートをミスし、チームは5-4で敗れた。2008年6月17日、2010 FIFAワールドカップ・南米予選のペルー代表戦ではハットトリックを達成した。

2010 FIFAワールドカップでは第2キャプテンを任され、グループリーグ第2戦の南アフリカ代表戦ではミドルシュートとPKで2得点を挙げ、大会選定のマンオブザマッチに選出された。他にもグループリーグ初戦のフランス代表戦、準々決勝のガーナ代表戦でもマンオブザマッチに選出され、7試合でチーム最多の5得点を挙げて得点王タイとなり、ウルグアイの40年ぶりの4位進出に貢献。この活躍により、大会MVPにあたるFIFAゴールデンボール賞を獲得した。

コパ・アメリカ2011では決勝のパラグアイ代表戦で2得点を挙げ、ウルグアイの6大会ぶり15度目の優勝に貢献。祖父から続く3代続けてのコパ・アメリカ制覇を達成 すると共に、エクトル・スカローネと並びウルグアイ代表通算最多得点となった。2010年10月11日、2014 FIFAワールドカップ・南米予選のパラグアイ代表戦で得点し、ウルグアイ代表単独最多得点となった。

2013年6月20日のFIFAコンフェデレーションズカップ2013、ナイジェリア代表戦で、ウルグアイ代表史上初となる通算100試合出場を達成。また、この試合では決勝点を挙げた。

2014年、ブラジルで開催された2014 FIFAワールドカップでも代表入りを果たし、同年6月28日に行われたコロンビア代表戦が最後の代表出場となった。

発言集

一次情報の発言のみ収録。1回の会見につき主要な発言を最大3つ引用し、他は解説で要約しています。

2026-27シーズン(2件)
2026年9月24日本人コメントディエゴ・フォルラン(本人)/試合後会見
W杯後にウルグアイ代表の監督に就任したフォルランが、9月24日の日本代表戦で初陣を迎えた。試合は3-1で敗戦。フォルランは試合内容には満足しつつ、終盤の連続失点で敗れたことを悔やんだ。また日本代表の連携力を高く評価し、ロドリゴ・ベンタンクールのロングボール攻撃が試合での狙いだったと説明。移動の疲労がパフォーマンスに影響したとも指摘している。
「非常に難しい試合になるということは始まる前からわかっていた。森保監督とは広島(を指揮していた)時代にご一緒したこともあるが、非常に選手間の連携を重視したプレーで、日本代表で長い期間過ごされているので、その年月もそのチームに浸透して反映されていると思う」
「アディショナルタイムに失点をしたということは非常に残念だった。試合の終盤に失点したということは非常に残念だ」
「ほぼ80分間にわたって、ウルグアイは非常にいい試合運びをしていたと思うし、前後半通じて多くのゴールのチャンスも作り出すことができた。今日、一生懸命戦ってくれた選手たちには感謝している」

出典:マイナビニュース 2026年9月24日

2026年9月19日本人コメントディエゴ・フォルラン(本人)/公式インタビュー
ウルグアイ代表監督に就任したフォルラン監督が、9月24日の日本戦を含むアジア遠征に向けたコメント。対戦相手の評価では日本と韓国を「最高レベル」と位置付けた。メンバー選考ではパフォーマンスと貢献の可能性を基準にしたと説明。注目を集めていたスアレス不招集については、選手本人の希望でクラブ活動に専念したいという意向を尊重したと述べ、将来の復帰の可能性を示唆している。
「最高レベルの相手」
「代表チームにできるだけ良い形で貢献できる可能性が最も高いと考えた選手たちを招集しようとした」
「彼自身の決断という部分が大きい」

出典:Yahoo!ニュース 2026年9月19日

個人成績

数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。

クラブ

クラブシーズン年齢ディビジョンリーグ国内カップ1大陸大会2その他3シーズン通算
出場得点出場得点出場得点出場得点出場得点
アルゼンチンインデペンディエンテ1998-9919アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン20——00——20
1999-2000—アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン247——00——247
2000-0121アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン3618——62——4220
2001-0222アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン1812——51——2313
通算8037——113——9140
イギリスマンチェスター・ユナイテッド2001-0222プレミアリーグ130005000180
2002-0323プレミアリーグ2562013152459
2003-0424プレミアリーグ244214221328
2004-0525プレミアリーグ1000101030
通算631041233839817
スペインビジャレアル2004-0525ラ・リーガ38251000——3925
2005-0626ラ・リーガ321020133——4713
2006-0727ラ・リーガ36194121——4221
通算1065471154——12859
スペインアトレティコ・マドリード2007-0828ラ・リーガ361661116——5323
2008-0929ラ・リーガ33323192——4535
2009-1030ラ・リーガ331863177——5628
2010-1131ラ・リーガ3283161104210
2011-1232ラ・リーガ0000200020
通算1347418645161019896
イタリアインテル2011-1232セリエA1820020——202
ブラジルインテルナシオナル201232カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA19500————195
201333カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA15583——1393617
通算341083——1395522
日本セレッソ大阪201434J1リーグ2672062——349
201535J2リーグ161000————1610
通算42172062——5019
ペニャロール2015-1636ウルグアイ・プリメーラ・ディビシオン*308003010348
インドムンバイ・シティ201636インディアン・スーパーリーグ*115————10125
傑志2017-1838香港プレミアリーグ*75215000146
キャリア通算5252224112110282412700274

1. 国内カップ戦(コパ・デル・レイ、FAカップ、天皇杯など) 2. 大陸大会(UEFAチャンピオンズリーグ、AFCチャンピオンズリーグなど) 3. 国内スーパーカップ・国際大会・プレーオフなど(UEFAスーパーカップ、FIFAクラブワールドカップ、リーグスカップ等) 年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

代表

ウルグアイ としての年別成績です。親善試合を含みます。

年年齢出場得点得点グラフ
20022252
20032375
200424112
20052592
20062630
20072795
20082873
20092993
201030117
201131133
20123291
201333143
20143450
通算11236

年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

監督成績

在任別・通算

英語版 Wikipedia の Managerial statistics の値です(Wikipedia(英語版)、revid 1378886681)。勝率は勝利数÷試合数。当サイトによる補完・推計は行っていません。

在任期間年齢チーム試合勝分敗勝率
2019.12〜2020.0840ウルグアイCAペニャロール1143436.4%
2021.03〜2021.0941ウルグアイCAアテナス1245333.3%
2026.08〜現在47ウルグアイウルグアイ代表320166.7%
2026.08〜現在47ウルグアイウルグアイ代表20020.0%
通算281081035.7%

所属チーム

ユース

期間年齢チーム
1990〜199110ウルグアイCAペニャロール
1991〜199411ウルグアイダヌービオFC
1994〜199714アルゼンチンCAインデペンディエンテ

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

クラブ

期間年齢チーム出場得点
1997〜200117アルゼンチンインデペンディエンテ——
2001〜200421イングランドマンチェスター・ユナイテッド——
2004〜200724スペインビジャレアル——
2007〜201127スペインアトレティコ・マドリード328
2011〜201231イタリアインテル・ミラノ182
2012〜201332ブラジルインテルナシオナル3410
2014〜201534日本セレッソ大阪4217
2015〜201635ペニャロール318
201636インドムンバイ・シティ——
201838傑志——

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は国内リーグ戦の合計で、カップ戦・大陸大会を含む内訳は「個人成績」の表にあります。

代表

期間年齢チーム
1999〜200019ウルグアイウルグアイ U-20
2002〜201422ウルグアイウルグアイ

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

監督

在任年齢チーム役職
2020〜202040ウルグアイCAペニャロール監督
2021〜202141ウルグアイCAアテナス監督
2026〜46ウルグアイウルグアイ監督
2026〜46ウルグアイウルグアイ U-20監督

移籍金・年俸・市場価値の推移

移籍履歴

掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。

時期年齢移籍元移籍先形態移籍金備考
2002-0122アルゼンチンインデペンディエンテイギリスマンチェスター・ユナイテッド完全移籍—
2004-0825イギリスマンチェスター・ユナイテッドスペインビジャレアル完全移籍—
2007-0728スペインビジャレアルスペインアトレティコ・マドリード完全移籍—
2011-0832スペインアトレティコ・マドリードインテル・ミラノ完全移籍8.9億円
€5,000,000
移籍金は英語版 Wikipedia のシーズン記事による
2012-0733インテル・ミラノブラジルインテルナシオナルフリー移籍—
2014-0134ブラジルインテルナシオナル日本セレッソ大阪完全移籍—フリー移籍
2015-0736日本セレッソ大阪ペニャロールフリー移籍—
2016-0737ペニャロールインドムンバイ・シティ完全移籍—移籍金は非公表・不明
201838インドムンバイ・シティ傑志移籍—形態・移籍金は未確認

出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)・API-Football(移籍データ)。移籍の有無と移籍先は日本語版 Wikipedia の情報欄、日付・形態・移籍金は API-Football の掲載値。億円換算は ECB レート(2026-10-21 時点)
日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認

人物相関

所属履歴と出場記録から機械的に算出しています。個人の交友関係についての評価は含みません。

共にプレーした選手

同じクラブ・同じシーズンに両者とも出場記録がある選手を、シーズン数の多い順に並べています。取得元(API-Football)のシーズン名簿は 2010-11 シーズン以降しか無いため、それ以前に一緒にプレーしたシーズンは数に入りません。

選手クラブ期間シーズン 
アントニオ・ロペススペインアトレティコ・M2010〜20112
アウグスト・セザル・ドス・サントス・モレイラブラジルインテルナシオナル2012〜20132
カカウ日本セレッソ大阪2014〜20152
フィリペ・ルイススペインアトレティコ・M2010〜20112
フレデリコ・シャヴェス・ゲデスブラジルインテルナシオナル2012〜20132
ジョエル・ロブレススペインアトレティコ・M2010〜20112
ホルヘ・プリードスペインアトレティコ・M2010〜20112
フアン・フランシスコ・モレノスペインアトレティコ・M2010〜20112
金鎮鉉日本セレッソ大阪2014〜20152
ホルヘ・レスレクシオンスペインアトレティコ・M2010〜20112
オタヴィオ・エジミウソン・ダ・シウヴァ・モンテイロブラジルインテルナシオナル2012〜20132
ラウール・ガルシアスペインアトレティコ・M2010〜20112
アリソン・ラムセス・ベッカーブラジルインテルナシオナル20131
アンジェロ・パロンボイタリアインテル20111

指導を受けた監督

本人の在籍期間と監督の在任期間の重なりから算出しています。取得元(API-Football)に在任期間の登録がある監督だけが対象で、古い年代の監督は登録が無いため出ていません。

監督クラブ・代表在任
マヌエル・ペジェグリーニスペインビジャレアル2004年6月〜2009年6月
キケ・サンチェス・フローレススペインアトレティコ・M2009年10月〜2011年5月
クラウディオ・ラニエリイタリアインテル2011年9月〜2012年3月
ランコ・ポポヴィッチ日本セレッソ大阪2014年1月〜2014年6月
大熊裕司日本セレッソ大阪2014年9月〜2014年12月
マルセロ・ビエルサウルグアイウルグアイ代表2023年5月〜

日本語名を確認できない監督 4 人は掲載していません。

タイトル

クラブ

マンチェスター・ユナイテッド

アトレティコ・M

CAペニャロール

ウルグアイ代表

個人

英語の記録名しか確認できないもの(12件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。

獲得メダル

代表チームで獲得したメダルです(金1・銅1)。当サイトの大会結果データとも照合し、食い違いがあれば掲載しません。

コパ・アメリカ金 2011 アルゼンチン銅 2004 ペルー

出典は英語版 Wikipedia の「メダル獲得記録(Medal record)」節(記事名・版 ID・取得日は「出典」節に記載)。W杯は当サイトの大会結果データでも一致を確認しています。

本文の一部は、ウィキペディア日本語版「ディエゴ・フォルラン」(版 111217575)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。

出典

  1. API-Football(移籍データ)、2026年10月22日 取得 https://www.api-football.com/
  2. API-Football(選手・監督データ)、2026年10月25日 取得 https://www.api-football.com/
  3. Wikidata、2026年10月25日 取得 https://www.wikidata.org/
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  6. Yahoo!ニュース、2026年9月19日、2026年10月19日 取得 https://news.yahoo.co.jp/articles/49119e53d8b6f3caacf8713700a9cfeca24669f1
  7. マイナビニュース、2026年9月24日、2026年10月14日 取得 https://news.mynavi.jp/article/20260924-5021833/

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