概要
ディエゴ・マラドーナ(Diego Maradona、1960年10月30日 - 2020年11月25日)は、ラヌース出身の元サッカー選手。ポジションはMF。アルゼンチンでは1977年から通算91試合34得点を記録している。クラブでは公式戦通算589試合311得点(1976 シーズン以降)。クラブ・代表で通算11個のタイトルを獲得、個人賞は88回(エル・ムンド紙 南米年間最優秀選手 6回、アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン 得点王 5回)。
ディエゴ・アルマンド・マラドーナ(, 1960年10月30日 - 2020年11月25日)は、アルゼンチン・ブエノスアイレス州ラヌース出身のサッカー選手、サッカー指導者。元アルゼンチン代表。現役時代のポジションはミッドフィールダー、フォワード。
貧困地区出身という背景を背負いながら、「庶民階級の象徴」とも称され、SSCナポリをセリエA王者へ導き、1986 FIFAワールドカップにおいては、母国を優勝に導いた。ペレが歴史上最強クラスのスター軍団の中心として成功した一方、マラドーナは劣勢のチームを個の力で勝利へ引き上げたことで、スポーツ史上最大級の英雄性と神話性を獲得した。
1976年にアルゼンチン・リーグにおいて史上最年少でプロデビューを果たし、SSCナポリではセリエA優勝2回、UEFAカップ優勝1回に貢献した立役者となる。アルゼンチン代表においても1977年に歴代最年少(16歳)で出場、1979年にはU-20アルゼンチン代表としてFIFAワールドユース選手権を優勝、FIFAワールドカップには1982年大会から4大会連続で出場し、1986年大会ではチームを牽引して優勝に導き、大会MVPに選出された。同大会の準々決勝のイングランド戦で見せた「神の手」ゴールと「5人抜き」ドリブルは、マラドーナを象徴するプレーとして後世に語り継がれている。このような実績から史上最高のサッカー選手、あるいはスポーツ史上最も偉大な選手と評されている。
現役引退後は監督として複数のクラブを歴任、2008年にはアルゼンチン代表監督に就任。2010年大会では南米予選を突破したが、本大会では準々決勝で敗れ、同大会終了後の2010年7月に解任された。2020年11月25日、ブエノスアイレス郊外の自宅で死去した。
選手時代からたびたび違法薬物の使用が取り沙汰され、現役引退後も入退院を繰り返すなど負の面でも耳目を集めた。現在でもマラドーナの信奉者は多く、アルゼンチンでは彼のことを「神の子」と崇拝するマラドーナ教まで生まれ、ナポリでは旧市街にマラドーナを讃える祭壇が設けられているなど、高い人気を誇っている。
クラブ経歴
幼少期
マラドーナは1960年10月30日、ブエノスアイレス南部のラヌース (Lanús) に貧しい家庭の子として生まれた。住んでいた掘立小屋にはぬいぐるみやゲームもなかったが、ひとり立ちができるようになった3歳の時に叔父からサッカーボールをプレゼントされ、自宅近くにあるゴミ捨て場の近くでサッカーボールを蹴るようになった。
地元の小学校に入学してすぐに仲良くなった友人と6歳のころから毎日ボールをけって遊ぶようになったが、9歳の時にAAアルヘンティノス・ジュニアーズの少年チームであるセボリータス(Los Cebollitas、小さな玉葱)に、すでに同チームでプレーしていた友人がコーチに「自分より巧い友達」としてマラドーナの加入を推薦し、練習でのトレーニングマッチで卓越した動きを見せてコーチを驚かせ、その技術を認められて同チームに加入した。セボリータスはマラドーナの加入後大差での連勝を続け、136試合とも151試合ともいわれる連続での無敗記録を作った。
幼少時代はペルーサ(Pelusa、毛深い奴/縮れ髪)と呼ばれるおとなしい少年だったが、10歳の時にはプロリーグ戦のハーフタイムショーでリフティングを披露して拍手喝采を浴びるほどの技術を身に付けており、現地の新聞で「将来有望な名手」として紹介された。また、土曜日の人気娯楽番組への出演を依頼され、サッカーボールだけでなくオレンジや空き瓶でのリフティングを披露した。13歳時にアルゼンチン政府主催で行われた公式の大会で準決勝進出を果たした際には、マラドーナは新聞で「ペレの弟」と紹介された。
1973年、12歳の時にはCAリーベル・プレートから契約金200万ペソでのオファーがあったが、クラブや父親が時期尚早だと反対したためセボリータスにとどまった。少年時代の憧れの選手はCAインデペンディエンテのリカルド・ボチーニだった。
プロデビュー期
13歳の時に学校を辞めてサッカーに専念することとなった。1974年にAAアルヘンティノス・ジュニアーズのトップチーム昇格を果たし、15歳の誕生日にはクラブから家族全員が住めるほどの大きさのアパートが提供された。在籍時にはエル・ピベ・デ・オロ(El Pibe de Oro、ゴールデンボーイ)という愛称を授かった。
1976年10月20日、アルゼンチン・リーグ史上最年少の15歳11か月でタジェレス・デ・コルドバ戦にて初出場。この試合は0-1でタジェレスにリードを許している場面での後半に途中出場し、交代してすぐにゲーム全体の流れを変える動きを見せ、タジェレスの選手から執拗にマークを受けた。試合はこのまま終了して敗れたものの、地元の新聞からも試合での動きを高く評価された。同年11月14日のCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ戦でプロ初ゴールを決めた。
プリメーラ・ディビシオン(国内1部リーグ)のナショナルリーグにおいて翌1977年は49試合に出場して19得点、1978年は35試合に出場して26点を挙げ、1979年に26得点、1980年に43得点を挙げて得点王を獲得。1979〜1981年にアルゼンチン年間最優秀選手賞、1979年〜1980年に南米年間最優秀選手賞を受賞した。アルヘンティノス時代は166試合に出場して116ゴールを挙げた。
ボカ・ジュニアーズ
1981年2月13日、幼少時からの熱狂的なファンであったボカ・ジュニアーズへのレンタル移籍交渉がまとまった。アルヘンティノスへ400万ドルの移籍金が支払われ、さらにボカはアルヘンティノスの負債110万ドルを肩代わりすることになった。4月10日のスーペルクラシコではボカの全3得点を挙げる活躍でCAリーベル・プレートを下し、移籍してすぐにファンのアイドルになった。この年にはリーグ優勝を果たしたが、マラドーナ獲得時の莫大な移籍金などが負担となってボカの財政状況は悪化し、マラドーナも20歳にしてリーグ戦200試合以上に出場していたことから疲労がピークに達していた。1982年5月末、約700万ドルの移籍金でスペインのFCバルセロナに移籍することで合意に達した。
FCバルセロナ
1982年6月4日、マラドーナはFCバルセロナとの移籍契約に調印し、アルヘンティノスに移籍金510万ドル、ボカに移籍金220万ドルが分割払いで支払われた。 カンプ・ノウで行われたお披露目にはクラブ新記録の5万人が詰めかけた。1982-83シーズン、開幕戦となったバレンシア戦で移籍後初ゴールを決めると 、序盤のバルセロナダービーでは決勝ゴールを決め、その2日後のUEFAカップウィナーズカップ2回戦・レッドスター・ベオグラード戦では2得点を決めて華々しいスタートを切ったが、度重なる夜遊びやコカイン使用疑惑でホセ・ルイス・ヌニェス会長との関係が悪化し始めた。マラドーナもウイルス性肝炎や鬱状態などの病気に悩まされ、クラブもリーグ4位となったがコパ・デル・レイ決勝でレアル・マドリードに2対1で優勝を手にした。
1983-84シーズン、セサル・ルイス・メノッティが監督に就任すると、9月のハビエル・クレメンテ率いるビルバオ戦でゴイコエチェアからタックルを受けて左膝腱を損傷、3か月欠場の深手を負い、わずか勝ち点1差でビルバオに優勝を逃してしまう。 またコパ・デル・レイ決勝のビルバオ戦でも、度重なる激しいマークに遭い0対1で得点のチャンスを逃した。 そのマラドーナも試合直後に度重なるマークに激怒し、ジャージ姿の相手選手の顔面を膝蹴りを見舞い、気絶させて乱闘騒ぎを起こしたことが決定打となりヌニェス会長との関係が最悪な状態にまで陥り、その後スペインサッカー連盟から3か月間出場停止を言い渡された。 そこで副会長でヌニェス会長の右腕でもあるジョアン・ガスパールがクラブに留まる気があるかを尋ね、「残留するのなら、会長との仲を取り持つ」と5年の契約延長を提示したがマラドーナがそれを拒否したため、クラブは放出の断を下した。
SSCナポリ
1984年6月29日、イタリア・セリエAのSSCナポリへの移籍が実現し、サッカー史上最高額の推定移籍金1300万ドルがFCバルセロナに支払われた。7月5日にスタディオ・サン・パオロで行われたお披露目会見にはスタジアムに7万人のサポーターが駆け付け、マラドーナもヘリコプターからピッチに降り立つパフォーマンスで登場し、「僕はナポリの貧しい少年たちのアイドルになりたい。なぜって彼らは、アルゼンチン時代の僕と同じだからだ」とコメントした。マラドーナはサポーターから「ナポリの王」と呼ばれて愛され、シーズンチケットが瞬く間に売れたことから、莫大な移籍金および給料を払ってもなおクラブの財政は潤った。マラドーナとブルーノ・ジョルダーノ、カレカの攻撃トリオは頭文字からマジカ(Ma・Gi・Ca、魔法)と呼ばれ、クラブの黄金時代を築き上げた。ナポリでは公式戦通算115ゴールを挙げた。
1984-85シーズン、1984年8月22日のコッパ・イタリア、アレッツォ戦でゴールを決めるデビューを飾り、9月22日、第2節のサンプドリア戦でPKからセリエA初ゴールを決め、2月24日のラツィオ戦では移籍後初のハットトリックを達成した。リーグ戦では合計14得点を決めて得点ランキング3位に入り、1985-86シーズンは11ゴールを挙げ、チームをリーグ3位に押し上げた。1986-87シーズンはクラブ史上初のセリエA優勝を飾り、コッパ・イタリアとの2冠を達成。これまで北部の2チーム(トリノ、ユベントス)しか達成していない国内2冠を南部のナポリが達成できたことを非常に誇りにしていると自伝で語っている。代表でのワールドカップMVPの活躍と合わせて世界最優秀選手賞に選ばれた。
一方で、愛人がマラドーナの子どもを出産したシナグラ事件(後述)などもあって気分が不安定で、子どもの認知を渋ったために地元メディアから攻撃された。1987-88シーズンには15得点を決めてアルゼンチン人として初のセリエA得点王に輝き、1988-89シーズンにはUEFAカップを制覇した。(準決勝のバイエルン・ミュンヘン戦では第1戦、第2戦共に2アシストずつを決め、決勝のシュッツガルト戦では第1戦でゴールを決めると、第2戦ではフェラーラとカレカのゴールをアシストした。)1988年以降は負傷で試合を欠場する頻度が増え、監督やクラブ会長との確執も取り沙汰された。1990 FIFAワールドカップを控えた1989-90シーズン、第25節のASローマ戦での2点目のゴールでナポリでの公式戦通算100ゴールを達成すると、2度目のセリエA優勝を飾った。
1990年から1991年にかけて、マラドーナは麻薬使用やマフィアとの関連が報道されてマスコミから集中砲火を浴び、1991年3月24日、第26節のサンプドリア戦に出場しゴールを決めた後、イタリアサッカー連盟から15か月間の出場停止処分を受けた。喧嘩別れのような形になったものの、後にSSCナポリはマラドーナの功績を称えてマラドーナの背番号10を永久欠番とした。SSCナポリ時代には税金を滞納し、税務局から3700万ユーロ(約40億円)もの支払いを求められており、イタリアに入国する際にはその都度金品を没収されている。
選手生活の終盤
1991年には、Jリーグ発足に向けて補強を進めていた名古屋グランパスエイトへ年俸や契約金を併せ総額15億円という契約で加入がほぼ内定していた。交渉は順調に運び、残すは名古屋の親会社であるトヨタ自動車の決定を待つのみであったが、決まりかけた日本行きはマラドーナのコカイン使用疑惑によって立ち消えとなった。
その後、FIFAがマラドーナの移籍交渉に介入したこともあり、1992年9月にスペインのセビージャFC移籍が決定した。チケットの売り上げという点ではクラブに貢献したが、荒んだ生活や怠慢な練習態度などからカルロス・ビラルド監督と対立し、26試合に出場してわずか5得点しか挙げることができなかった。1993年6月のレアル・ブルゴスCF戦で後半開始早々に交代を指示され激怒し、アルゼンチンに帰国した。
1993年10月、マラドーナはセビージャFCとの契約の残り期間に対して400万ドルを支払う条件でアルゼンチンのニューウェルズ・オールドボーイズに移籍した。アルフィオ・バシーレ監督によってアルゼンチン代表にも復帰したが、契約問題のこじれからニューウェルズでは7試合しか出場できず、練習不参加や試合欠場などの理由により1994年2月に解雇された。1994 FIFAワールドカップのドーピング違反でFIFAから再び15か月間の出場停止処分を受け、処分期間中は国内2チームの監督を務めた。
1995年10月、14年ぶりにボカ・ジュニアーズへ復帰、チームの韓国遠征において韓国代表との親善試合に出場して復帰、FKからアシストを決めた。髪にボカのシンボルカラーである金色のメッシュを入れてプレーした。1996年にはリーグ戦で5本連続してPKを失敗し、引退騒動を起こした。スイスでの薬物依存症治療を経てボカと再契約し、1997年7月には公式戦に復帰した。同年10月25日のスーペルクラシコへの出場を最後に、自身の37歳の誕生日となる10月30日に現役引退を発表した。
引退後
現役引退後は薬物依存や不摂生による体重増加などが原因で入院・手術などを繰り返し、必ずしも健康体とは言えない状態であった。2004年4月にはボカの試合観戦中に突然倒れ、集中治療室で生死の境をさまよった。このときのマラドーナの体重は122kgにも達していたが、回復後に食を細くするための胃切除術を受け、70kg台半ばまで減量した。
2008年、伝記映画「マラドーナ」が自身主演で上映される(製作・スペイン・フランス)。これはマラドーナのこれまでのサッカー人生について取り上げると共に、マラドーナ自身のプライベートに密着取材した記録映画である。
監督経歴
1994年アメリカW杯後の出場停止期間中にプリメーラ・ディビシオンの下位2チームの監督に就任。コーチングライセンスを獲得していないため、カルリートス・フレンとのコンビで指揮を採った。最初のデポルティーボ・マンディージュ・デ・コリエンテスでは1勝6分5敗という成績で、わずか2か月で解任された。古豪ラシン・クルブでは2勝6分3敗で、クラブの会長交代に伴い辞任した。
2008年10月16日にアルゼンチン代表のアルフィオ・バシーレ監督が辞任すると、マラドーナは後任の座に自薦し10月28日に代表監督就任が発表された。11月4日に就任記者会見が行われ、ハビエル・マスチェラーノのキャプテン任命とカルロス・ビラルドのテクニカル・セクレタリー(サッカー協会とチームの架け橋役)就任が発表されたが、ヘッドコーチに人事は明かされなかった。マラドーナの監督就任に関してアルゼンチン国内の反応は冷ややかだったが、代表選手からは期待と賛同の声が上がり、初采配となったスコットランドとの親善試合に1-0で勝利したことからメディアからもまずまずの評価を得た。2009年1月にはスペイン、イングランド、イタリアなどを訪問し、欧州各国に散らばるアルゼンチン代表選手を視察した。2009年3月、テレビの深夜番組でチームの中心選手であるフアン・ロマン・リケルメのプレーに苦言を呈し、その発言に敏感に反応したリケルメが代表からの引退を表明する問題が起こった。
就任後初となる2010年W杯南アフリカ大会・南米予選の第11節・ベネズエラ戦には4-0で快勝したが、4日後のボリビア戦は高地の利を得た相手に手も足も出ず、1-6で大敗してメディアからの批判を浴びた(就任後4戦目で初黒星)。5月の親善試合には国内組のみから選手を招集して臨み、それ以後は海外組と国内組の融合を重要視するようになった。2009年9月の南米予選ではブラジルに敗れ、アルゼンチンが長年継続してきたホームでの連続無敗記録(34戦)が途切れたため、元代表選手やファンから厳しい批判を受けた。その後、アウェイでパラグアイに敗れてついに直接出場権獲得圏内(4位以内)から落ちたが、10月のペルー戦ではマルティン・パレルモのロスタイム弾で辛くも勝利し、最終節のウルグアイ戦では虎の子の1点を守り抜いて、予選4位でのFIFAワールドカップ本大会出場を決めた。
2010 FIFAワールドカップ本大会では、ピッチ内外での一挙手一投足がメディアの注目を集めた。グループリーグ初戦のナイジェリア戦では、90分間ベンチに座ることなく選手たちに指示を与え続け、勝利後の記者会見ではリンゴをかじりながら質問に答えた。2戦目の韓国戦では、1986 FIFAワールドカップでマンマークを受けた許丁茂監督と対戦することになり、試合前には相手チームを「テコンサッカー」と挑発した。韓国戦に続きギリシャ戦でも快勝し、グループリーグを3戦全勝の首位で通過した。決勝トーナメント1回戦のメキシコ戦ではカルロス・テベスの疑惑の残る先制点で試合の主導権を握り、3-1で勝利した。準々決勝のドイツ戦では試合開始早々に失点し、以後は焦りから攻撃に逸るマラドーナの心が見透かされているかのようにカウンターから立て続けに失点した。結局、ハーフタイムの指示や後半の選手交代でも流れを変えることができず0-4で惨敗して大会からの敗退が決定した。
当初はアルゼンチンサッカー協会、マラドーナとも留任の意向だったがコーチ陣の処遇を巡って対立し、2010年7月27日に解任された。初采配から24戦を指揮して18勝6敗の成績を残し、引き分けは1試合もなかった。ドイツの勝利を予言したタコのパウルが死亡した際には、Twitterに「この予言タコ野郎、おれはお前が死んでうれしいよ。W杯で負けたのはお前のせいだ!」と書き込んだ。
2011年5月16日、マラドーナはUAEリーグに所属するアル・ワスルFCの監督に就任することが発表された。契約期間は2年で、年間990万ポンド(約13億5324万円)。これはgoal.comが2012年1月18日に発表した世界の監督の給料トップ10の2位に入る高額であった。
2017年、UAE2部のアル・フジャイラSCの監督に就任した。就任後チームは無敗だったが、1部昇格を逃し辞任した。
2018年9月、メキシコ2部のドラドス・デ・シナロアの監督に就任。就任時は下位だったチームを2季連続でプレーオフ決勝に導くが、いずれも決勝戦で敗れた。翌年6月、健康上の理由により退任。
2019年9月、母国アルゼンチンのヒムナシア・ラ・プラタの監督に就任した。ヒムナシア・ラ・プラタは2020年6月3日、ディエゴ・マラドーナと2021年まで契約を延長したことを発表した。
指導者としての戦術
アルゼンチン代表監督時代にはDFラインにセンターバック4人を並べ、ボランチのハビエル・マスチェラーノと共に守備を任せた。攻撃はリオネル・メッシ、カルロス・テベス、ゴンサロ・イグアインらの個人技による局面打開を目指した。攻守分担型のスタイルは「1930年代のサッカー」とも評された。複数の戦術を使い分けるのではなく、終始一貫して攻撃的な姿勢を貫き、準々決勝・ドイツ戦では劣勢に陥った時に別策がないことを露呈した。常に選手の目線に立って物事を考えるため、選手のモチベーションを上げる人心掌握術は評価されており、選手からの信頼は厚い。ワールドカップ直前にUEFAチャンピオンズリーグを制したインテルの中心選手だったディエゴ・ミリート、ワルテル・サムエルをほとんど起用せず、同じくエステバン・カンビアッソやハビエル・サネッティは招集さえもしなかったため、その起用法には疑問の声もあった。 <!--
代表経歴
代表経歴
マラドーナは、プロデビューから間もなくアルゼンチン代表に招集され1977年2月16日、ハンガリーとの親善試合に途中出場しフル代表の最年少出場記録を樹立した。翌年に地元開催された1978 FIFAワールドカップには最終候補の25人に残りながら、セサル・ルイス・メノッティ代表監督はマラドーナを「これから世界に飛躍する逸材をプレッシャーの懸かる重要な大会で潰す訳にはいかない」として最終的に大会登録22名のメンバーから外すことになった。マラドーナはこの落選を「人生に永遠に残る、決定的な、一番大きな失望だった」と語る。1979年6月2日、スコットランドとの親善試合で代表初ゴールを決めた。
1979 FIFAワールドユース選手権
マラドーナは20歳以下代表チームのキャプテンとして、日本で開催された1979 FIFAワールドユース選手権に出場。6試合中5試合で6ゴールを決め、ワールドユース初優勝に貢献した。チームメイトのラモン・ディアスが8ゴールを挙げてゴールデンシューズ賞(得点王)となり、マラドーナはゴールデンボール賞(MVP)に選出された。圧倒的な攻撃力をみせたアルゼンチンユース代表について、マラドーナは「文句なしに、自分のキャリアの中で一番素晴らしいチームだった」、「僕らは猛獣のようにプレーしていたけど、大いに楽しんでもいたんだ。一番大事なことだけど、ファンがとても喜んでくれた。(中略)いずれにしろ、あのチームのことは決して忘れない。素晴らしいチームだった」。
1982 FIFAワールドカップ
アルゼンチン代表は1978年大会優勝メンバーにマラドーナ、ディアスらユース世代を加え、1982 FIFAワールドカップに出場した。21歳のマラドーナは10番を付けて出場し、第1ラウンド2戦目のハンガリー戦でワールドカップ初ゴールを含む2得点を挙げた。
第2ラウンド初戦イタリア戦では、「殺し屋」ことクラウディオ・ジェンティーレに徹底的にマークされた。続くブラジル戦では味方選手がファウルを受けた際、マラドーナはバチスタの下腹部を蹴り、報復行為でレッドカードを受けた。マラドーナはブラジルの「黄金の中盤」のパス回しに翻弄されており、本当はパウロ・ロベルト・ファルカンに対して怒っていたと述べている。チームは1-3で敗れ、大会を去ることになった。
1986 FIFAワールドカップ
1985年5月に約3年ぶりに代表に復帰。カルロス・ビラルド代表監督はマラドーナをキャプテンに指名し、その個人能力を活かすチーム作りを行った。しかし、マラドーナは右膝に負傷を抱え、チームの成績も芳しいものではなく当時のチームはメディアから「史上最弱」と酷評されていたが、1986 FIFAワールドカップが始まると一転して華々しい活躍を見せた。グループリーグ初戦の韓国戦では、チームの3ゴールすべてをアシストした。イタリア戦ではボレーで同点ゴールを決め、ブルガリア戦でも1アシストを記録した。
準々決勝のイングランド戦試合前には、3年前のフォークランド紛争(マルビナス戦争)の因縁もあって両国メディアの舌戦が続いたが、その試合はいわゆる「神の手」ゴールと「5人抜き」ドリブルを記録した試合として知られている。後半6分、ペナルティエリアに走りこんだマラドーナと浮き玉を処理しようとしたイングランドのGKピーター・シルトンと交錯したが、マラドーナは空中のボールを素早く左手ではたき、ボールはそのままゴールインした。シルトンをはじめイングランドの選手はマラドーナのハンドを主張したが、審判はマラドーナの得点を認めた。その4分後には、センターライン付近でパスを受けると単独で60m近くドリブルし、5人を抜いて無人のゴールにボールを蹴りこんだ。前者の得点については「本当は手で触れたのだが、神の思し召しにより許された」という趣旨の発言をしたことから「神の手」ゴールという呼称が広まった。2007年には後者の得点がイギリスのワールドサッカー誌によって史上最優秀得点に選ばれた。なお、マラドーナ没後の2022年、「神の手」ゴールと「5人抜き」を決めた時に着用していたユニホームがサザビーズでオークションにかけられ、スポーツ関連商品史上最高額の714万2500ポンドで落札された。
マラドーナは準決勝のベルギー戦でも2得点を挙げ、決勝の西ドイツ戦ではローター・マテウスのマークにあいながらも、ホルヘ・ブルチャガに絶妙なラストパスを供給し決勝点をアシストした。マラドーナは大会中チームの総シュート数のうち約半分を放ち、全14得点のうち5得点5アシストを記録。アルゼンチンを2度目のワールドカップ優勝に導いた事から大会最優秀選手に選ばれ、同大会は「マラドーナのための大会」と呼ばれ、「たった一人の力で自国を優勝に導いたのは(1962年大会の)ガリンシャ(ブラジル)と1986年大会のディエゴ・マラドーナだけだ」と評する者も存在する。
1990 FIFAワールドカップ
マラドーナは、本大会では不調といわれながらもグループリーグ全試合に出場し、ソ連戦では自陣ペナルティエリア内で手を使ってシュートを防ぐ2度目の「神の手」を見せた。決勝トーナメント1回戦のブラジル戦では、ドリブルで相手4人を引きつけながら右足でクラウディオ・カニーヒアへ絶妙のパスを送り、決勝ゴールをお膳立てした。
準決勝は、所属クラブの本拠地ナポリで開催国イタリアと対戦した。試合前にイタリアファンを煽るような発言をしたことや、PK戦で最後に蹴って勝利を決めたのがマラドーナであったことから、イタリア国民やSSCナポリファンとの関係が悪化した。決勝の西ドイツ戦ではアルゼンチンの国歌吹奏に場内から大ブーイングが浴びせられ、マラドーナはカメラに向かって「イホス・デ・プータ(英語の『サノバビッチ』に相当する侮蔑語)」と吐き捨てた。試合ではギド・ブッフバルトにほぼ完全に抑えられた。敗戦後は人目をはばからず号泣し、イングランド代表のポール・ガスコインが準決勝で流した涙とともに人々に記憶されている。
1994 FIFAワールドカップ
薬物使用によるブランクを経て、1993年2月に代表復帰。アルフィオ・バシーレ代表監督はマラドーナ抜きのチーム編成を進めていたが、南米予選コロンビア戦で完敗したため、オーストラリアとの大陸間プレーオフでレギュラー復帰が実現した。
1994 FIFAワールドカップでは再びキャプテンに就任し、カニーヒアやガブリエル・バティストゥータと強力な攻撃陣を組んだ。1次リーグ初戦のギリシャ戦では豪快なミドルシュートでワールドカップ通算8ゴール目を決め、ナイジェリア戦でも好調なプレーを見せた。だが、試合後のドーピング検査でマラドーナは尿から使用禁止薬物が検出され、大会からの即時追放と15か月の出場停止処分を受けた(#薬物と健康問題の節を参照されたい。)。このニュースは世界中に衝撃を与え、選手としての華々しい代表経歴を閉じることになった。
代表歴
マラドーナは1982 FIFAワールドカップから1994 FIFAワールドカップまでの4大会に連続出場し歴代3位タイの通算21試合に出場した。そのうち、16試合でキャプテンを務めており、これはFIFAワールドカップにおける最多記録でもある。21試合で8得点8アシストを記録している。
プレースタイル
プレースタイル
フィジカルが強靭で ボディバランスと洞察力に優れ、非常に足が速く、卓越したテクニックとパスセンスを持っていた。また足首が非常に強く、この足首を駆使して切り裂くように相手のマークを外すプレーを得意とした。
ゴムマリのようと評されたバネが生み出す緩急と自在にボールを操る左足を誇ったが、ほとんどすべてのプレーを左足一本で行い、前述の「5人抜き」ドリブルの際も左足しかボールに触れていない。マラドーナ自身も右足について自ら「使わない足」と呼んで滅多にフィニッシュに使わなかったが、ゲーリー・リネカーはマラドーナの右足でのプレーについて「大概の選手の『利き足』を上回っていた」と評している。
優れたキャプテンシーの持ち主であり、10代のころから所属したどのチームでもキャプテンを務めた。
風間八宏は当時のマラドーナについて「顔の前に1メートル四方の空間を確保できれば、マラドーナにとってフリーといえる」と語った。サッカージャーナリストの後藤健生はマラドーナのプレーについて、「空間だけでなく、試合時間の90分全体をも俯瞰しているように見えることがある。まるで試合の映像を早送りしたり、巻き戻ししたりしながら最善のプレーを選択しているとしか思えないのだ。だから、マラドーナはたった1回のボールタッチによって、すべてを変えてしまうことができるのだ」と評している。
個人成績
数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。
クラブ
| クラブ | シーズン | 年齢 | ディビジョン | リーグ | 国内カップ1 | 大陸大会2 | その他3 | シーズン通算 | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 1976 | 15 | アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン | 11 | 2 | — | — | — | — | — | — | 11 | 2 | |
| 1977 | 16 | アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン | 49 | 19 | — | — | — | — | — | — | 49 | 19 | |
| 1978 | 17 | アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン | 35 | 26 | — | — | — | — | — | — | 35 | 26 | |
| 1979 | 18 | アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン | 26 | 26 | — | — | — | — | — | — | 26 | 26 | |
| 1980 | 19 | アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン | 45 | 43 | — | — | — | — | — | — | 45 | 43 | |
| 通算 | 166 | 116 | — | — | — | — | — | — | 166 | 116 | |||
| 1981 | 20 | アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン | 40 | 28 | — | — | — | — | — | — | 40 | 28 | |
| 1982-83 | 21 | ラ・リーガ | 20 | 11 | 5 | 3 | 4 | 5 | 6 | 4 | 35 | 23 | |
| 1983-84 | 22 | ラ・リーガ | 16 | 11 | 4 | 1 | 3 | 3 | — | — | 23 | 15 | |
| 通算 | 36 | 22 | 9 | 4 | 7 | 8 | 6 | 4 | 58 | 38 | |||
| 1984-85 | 23 | セリエA | 30 | 14 | 6 | 3 | — | — | — | — | 36 | 17 | |
| 1985-86 | 24 | セリエA | 29 | 11 | 2 | 2 | — | — | — | — | 31 | 13 | |
| 1986-87 | 25 | セリエA | 29 | 10 | 10 | 7 | 2 | 0 | — | — | 41 | 17 | |
| 1987-88 | 26 | セリエA | 28 | 15 | 9 | 6 | 2 | 0 | — | — | 39 | 21 | |
| 1988-89 | 27 | セリエA | 26 | 9 | 12 | 7 | 12 | 3 | — | — | 50 | 19 | |
| 1989-90 | 28 | セリエA | 28 | 16 | 3 | 2 | 5 | 0 | — | — | 36 | 18 | |
| 1990-91 | 29 | セリエA | 18 | 6 | 3 | 2 | 4 | 2 | 1 | 0 | 26 | 10 | |
| 通算 | 188 | 81 | 45 | 29 | 25 | 5 | 1 | 0 | 259 | 115 | |||
| 1992-93 | 31 | ラ・リーガ | 26 | 5 | 4 | 2 | — | — | — | — | 30 | 7 | |
| ニューウェルズ | 1993-94 | 32 | アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン | 5 | 0 | — | — | — | — | — | — | 5 | 0 |
| 1995-96 | 34 | アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン | 24 | 5 | — | — | — | — | — | — | 24 | 5 | |
| 1996-97 | 35 | アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン | 1 | 0 | — | — | — | — | 1 | 0 | 2 | 0 | |
| 1997-98 | 36 | アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン | 5 | 2 | — | — | — | — | — | — | 5 | 2 | |
| 通算 | 70 | 35 | — | — | — | — | 1 | 0 | 71 | 35 | |||
| キャリア通算 | 491 | 259 | 58 | 35 | 32 | 13 | 8 | 4 | 589 | 311 | |||
1. 国内カップ戦(コパ・デル・レイ、FAカップ、天皇杯など) 2. 大陸大会(UEFAチャンピオンズリーグ、AFCチャンピオンズリーグなど) 3. 国内スーパーカップ・国際大会・プレーオフなど(UEFAスーパーカップ、FIFAクラブワールドカップ、リーグスカップ等) 年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。
代表
アルゼンチン としての年別成績です。親善試合を含みます。
| 年 | 年齢 | 出場 | 得点 | 得点グラフ |
|---|---|---|---|---|
| 1977 | 16 | 3 | 0 | |
| 1978 | 17 | 1 | 0 | |
| 1979 | 18 | 8 | 3 | |
| 1980 | 19 | 10 | 7 | |
| 1981 | 20 | 2 | 1 | |
| 1982 | 21 | 10 | 2 | |
| 1983 | 22 | — | — | |
| 1984 | 23 | — | — | |
| 1985 | 24 | 10 | 6 | |
| 1986 | 25 | 10 | 7 | |
| 1987 | 26 | 6 | 4 | |
| 1988 | 27 | 3 | 1 | |
| 1989 | 28 | 7 | 0 | |
| 1990 | 29 | 10 | 1 | |
| 1991 | 30 | — | — | |
| 1992 | 31 | — | — | |
| 1993 | 32 | 4 | 0 | |
| 1994 | 33 | 7 | 2 | |
| 通算 | 91 | 34 | ||
年代別代表(アルゼンチン U-20)の出場は「経歴」の表に記載しています。年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。
監督成績
在任別・通算
英語版 Wikipedia の Managerial statistics の値です(Wikipedia(英語版)、revid 1379476414)。勝率は勝利数÷試合数。当サイトによる補完・推計は行っていません。
| 在任期間 | 年齢 | チーム | 試合 | 勝 | 分 | 敗 | 勝率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| — | — | 12 | 1 | 6 | 5 | 8.3% | |
| — | — | 11 | 2 | 6 | 3 | 18.2% | |
| — | — | 24 | 18 | 0 | 6 | 75.0% | |
| — | — | 23 | 11 | 3 | 9 | 47.8% | |
| — | — | 11 | 7 | 3 | 1 | 63.6% | |
| — | — | 38 | 20 | 9 | 9 | 52.6% | |
| — | — | 21 | 8 | 4 | 9 | 38.1% | |
| 通算 | 140 | 67 | 31 | 42 | 47.9% | ||
所属チーム
ユース
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1968〜1969 | 7 | エストレージャ・ロハ |
| 1970〜1974 | 9 | ロス・セボジータス |
| 1975〜1976 | 14 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
クラブ
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1976〜1982 | 15 | |
| 1981〜1982 | 20 | |
| 1982〜1984 | 21 | |
| 1984〜1991 | 23 | |
| 1992〜1993 | 31 | |
| 1993〜1994 | 32 | |
| 1995〜1997 | 34 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
代表
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1977〜1979 | 16 | |
| 1979〜1994 | 18 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
監督
| 在任 | 年齢 | チーム | 役職 |
|---|---|---|---|
| 1994〜1994 | 33 | 監督 | |
| 1995〜1995 | 34 | 監督 | |
| 2008〜2010 | 47 | 監督 | |
| 2011〜2012 | 50 | 監督 | |
| 2017〜2018 | 56 | 監督 | |
| 2018〜2019 | 57 | 監督 | |
| 2019〜2020 | 58 | 監督 |
移籍金・年俸・市場価値の推移
移籍履歴
掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。
| 時期 | 年齢 | 移籍元 | 移籍先 | 形態 | 移籍金 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1981 | 20 | 期限付き移籍 | — | 期間・移籍金は未確認 | ||
| 1982 | 21 | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | ||
| 1984 | 23 | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | ||
| 1992 | 31 | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | ||
| 1993 | 32 | ニューウェルズ | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | |
| 1995 | 34 | ニューウェルズ | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 |
※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。
出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認
タイトル
クラブ
ボカ・ジュニアーズ
- アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン:1回(1981)
FCバルセロナ
- コパ・デル・レイ:1回(1982-83)
ナポリ
- セリエA:2回(1986-87, 1989-90)
- コッパ・イタリア:1回(1986-87)
- スーペルコッパ・イタリアーナ:1回(1990)
- UEFAカップ:1回(1988-89)
代表
アルゼンチン代表
- FIFA U-20ワールドカップ:1回(1979)
- FIFAワールドカップ:1回(1986)
個人
- アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン 得点王:5回(1978, 1979, 1979, 1980, 1980)
- FIFAワールドユース選手権 ゴールデンボール:1回(1979)
- FIFAワールドユース選手権 シルバーシュー:1回(1979)
- オリンピア賞:2回(1979, 1986)
- グエリン・スポルティーボ誌 世界年間最優秀選手:3回(1979, 1986, 1987)
- アルゼンチン・サッカー記者協会 年間最優秀選手:4回(1979, 1980, 1981, 1986)
- エル・ムンド紙 南米年間最優秀選手:6回(1979, 1980, 1986, 1989, 1990, 1992)
- エル・グラフィコ誌 アメリカ大陸最優秀選手:2回(1980, 1981)
- グエリン・スポルティーボ誌 世界オールスターチーム:5回(1980, 1981, 1982, 1983, 1985)
- エリック・バッティ ワールドイレブン:2回(1984, 1987)
- セリエA 年間ベストイレブン:4回(1985, 1986, 1987, 1988)
- オンズ・ド・オンズ:5回(1985, 1986, 1987, 1988, 1989)
- FIFAワールドカップ ゴールデンボール:1回(1986)
- FIFAワールドカップ シルバーブーツ:1回(1986)
- FIFAワールドカップ アシスト王:1回(1986)
- FIFAワールドカップ オールスターチーム:2回(1986, 1990)
- レキップ紙 チャンピオン・オブ・チャンピオンズ:1回(1986)
- ガゼッタ・デロ・スポルト紙 年間最優秀アスリート:1回(1986)
- AFP通信 年間最優秀アスリート:1回(1986)
- AP通信 年間最優秀アスリート:1回(1986)
- UPI通信 年間最優秀アスリート:1回(1986)
- コリエレ・デロ・スポルト紙 年間最優秀アスリート:1回(1986)
- オンズドール:2回(1986, 1987)
- ガゼッタ・デロ・スポルト紙 年間最優秀選手:2回(1987, 1988)
- コッパ・イタリア 得点王:1回(1987-88)
- FIFAワールドカップ ブロンズボール:1回(1990)
- エル・パイス紙 アメリカ大陸ベストイレブン:2回(1993, 1995)
- FIFAワールドカップ 歴代ベストイレブン:1回(1994)
- 20世紀ワールドチーム:1回(1998)
- ワールドサッカー誌 20世紀の偉大な選手100人:1回(1999)
- アルゼンチン・スポーツ記者協会 20世紀最優秀スポーツ選手:1回(1999)
- マルカ・レジェンダ:1回(1999)
- ナポリ 背番号10 永久欠番:1回(2000)
- FIFA 20世紀最優秀選手:1回(2000)
- FIFAワールドカップ ドリームチーム:1回(2002)
- ゴールデンフット賞:1回(2003)
- FIFA 100(偉大な選手100人):1回(2004)
- アルゼンチン上院 ドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント功労表彰:1回(2005)
- ワールドカップ史上の偉大な選手(選出):1回(2010)
- 史上最高のアスリート(選出):1回(2012)
- グローブ・サッカー・アワード 20世紀最優秀選手:1回(2012)
- ワールドサッカー誌 史上最高のベストイレブン:1回(2013)
- イタリアサッカー殿堂:1回(2014)
- アルゼンチンサッカー協会 歴代ベストイレブン:1回(2015)
- 史上最高の選手(選出):1回(2017)
- ワールドカップ史上の偉大な選手(選出):1回(2018)
- レキップ紙 史上最高の南米選手50人
- IFFHSレジェンド
- バロンドール・ドリームチーム:1回(2020)
- IFFHS 歴代ドリームチーム:1回(2021)
- IFFHS 南米歴代ベストイレブン:1回(2021)
英語の記録名しか確認できないもの(7件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。
獲得メダル
代表チームで獲得したメダルです(金3・銀2・銅1)。当サイトの大会結果データとも照合し、食い違いがあれば掲載しません。
| FIFAワールドカップ | 金 1986 メキシコ銀 1990 イタリア |
|---|---|
| コパ・アメリカ | 銅 1989 ブラジル |
| フィナリッシマ | 金 1993 アルゼンチン |
| FIFA U-20ワールドカップ | 金 1979 日本 |
| 南米U-20選手権 | 銀 1979 ウルグアイ |
出典は英語版 Wikipedia の「メダル獲得記録(Medal record)」節(記事名・版 ID・取得日は「出典」節に記載)。W杯は当サイトの大会結果データでも一致を確認しています。
本文の一部は、ウィキペディア日本語版「ディエゴ・マラドーナ」(版 110706949)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。
出典
- RSSSF、2026年9月13日 取得 https://rsssf.org/miscellaneous/onze-awards.html
- Wikidata、2026年10月25日 取得 https://www.wikidata.org/
- Wikipedia(日本語版)「ディエゴ・マラドーナ」、版 ID 110706949、2026年9月12日 取得 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%82%B4%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%8A
- Wikipedia(英語版)、版 ID 1379476414、2026年10月13日 取得 https://en.wikipedia.org/wiki/Diego_Maradona
※ 出典は媒体名・日付・URL を文字で記載しています(外部サイトへのリンクは行いません)。出典が確認できない数値はページに載せません。
関連項目
- アルヘンティノス・ジュニアーズ
- ボカ・ジュニアーズ
- バルセロナ
- ナポリ
- セビージャ
- ニューウェルズ
- マンディユー・デ・コリエンテス
- ラシン・クルブ
- アルゼンチン
- アル・ワスル
- アル・フジャイラ
- ドラドス・デ・シナロア
- ヒムナシア・ラ・プラタ
- アルゼンチン U-20
- アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン
- コパ・デル・レイ
- セリエA
- コッパ・イタリア
- スーペルコッパ・イタリアーナ
- UEFAカップ
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