「オリーセは今、あらゆる扉が開かれている年齢です。もし契約を延長しなければ、1、2年後にはバイエルンでプレーしていないでしょう。」
「あのような選手は絶対に売りません。できるだけ長く手元に置こうとするはずです。」
「どうしてもこの選手を残したいなら、年俸を引き上げなければなりません。ムシアラやケインと同じ水準にです。」
出典:Goal.com 2026年10月22日
SOCCERPEDIA / 選手・監督ページ / ドイツのサッカー選手 / 最終更新:2026年9月1日
ローター・マテウス(Lothar Matthäus、1961年3月21日生)は、エアランゲン出身の元サッカー選手。ポジションはMF。ドイツでは1980年から通算150試合23得点を記録している。クラブでは公式戦通算782試合204得点(1979-80 シーズン以降)。クラブ・代表で通算25個のタイトルを獲得、個人賞は37回(キッカー誌 ブンデスリーガ シーズンベストイレブン 5回、オンズ・ド・オンズ 4回)。
ローター・ヘルベルト・マテウス(Lothar Herbert Matthäus, 1961年3月21日 - )は、西ドイツ・エアランゲン出身の元同国代表サッカー選手でありサッカー指導者、スポーツ解説者。西ドイツ代表として1990 FIFAワールドカップを優勝した後、1991年にバロンドールとFIFA最優秀選手賞を受賞した。
マテウスは通算5回のFIFAワールドカップ(1982、1986、1990、1994、1998)に出場しているが、これはフィールドプレーヤーではマテウスと元メキシコ代表DFラファエル・マルケス、ポルトガル代表FWのクリスティアーノ・ロナウド、アルゼンチン代表FWのリオネル・メッシ、日本代表DFの長友佑都の5人のみ記録している。また、ワールドカップ出場25試合もリオネル・メッシに更新されるまで史上最多であった。マテウスはイタリアで開催された1990 FIFAワールドカップを制した西ドイツ代表のキャプテンであり、アメリカ開催の1994 FIFAワールドカップでも同じくキャプテンを務めた。1980年にはUEFA欧州選手権1980優勝を果たし、UEFA欧州選手権1984、UEFA欧州選手権1988そしてUEFA EURO 2000にも参加している。1999年、38歳にしてドイツ人年間最優秀サッカー選手賞を受賞し、1990年の受賞と合わせて2度目の選出となった。
マテウスは20年間でドイツ代表に150試合(83試合は西ドイツ代表のもの)出場し、23得点を挙げている。これはドイツ代表歴代最多出場記録である。2004年にはペレが選ぶ『偉大なサッカー選手100人』(FIFA100)にも選ばれている。ディエゴ・マラドーナはマテウスについて「彼は私が対峙した選手の中で最高の選手だ。」と自身が著したYo soy el Diego(俺はディエゴ)の中で述べた。
優れた戦術眼を持ち、強烈なシュート力があり、相手選手のマークやカバーリングにも優れ、ピッチ内で指揮官の役割も果たした。キャリア初期は守備的MFであったが、20代中盤頃からは、攻撃的MFも担当、選手キャリアの後半にはリベロとしてプレーした。
マテウスは1961年3月21日にエアランゲンで生まれた。父親、兄もサッカーをしていて、兄は3部リーグの選手という一家に育った。地元のFCヘルツォーゲンアウラハでサッカーを学ぶ一方で、ギムナジウムで教育を受け、インテリアデコレーターの見習いを務めていた。
1979年、18歳の時にブンデスリーガ1部のボルシアMGと契約、プロデビューを果たし、ブラウンシュヴァイク戦で初得点を記録した。プロ1シーズン目ながら、41試合で6得点を挙げた。若い頃は気性の激しい性格からチームメイトや審判とトラブルを起こすことも多く、素行に問題のある選手と考えられていたという。ボルシアMG時代はタイトルとは縁がなく、1983-84シーズンのDFBポカールでは準優勝に貢献したが、決勝のバイエルン・ミュンヘン戦でPKを失敗しタイトル獲得を逃している。
1984年にバイエルン・ミュンヘンへ120万ドルの金額で移籍。バイエルンでは、オールラウンダーとしての能力を向上させるなど、より完成されたMFに成長した。ブレーメやアウゲンターラーらと共にブンデスリーガ優勝3回(1985年、1986年、1987年)、DFBポカール優勝1回、UEFAチャンピオンズカップ準優勝1回に貢献した。1987-88シーズン、4月19日のシャルケ戦でキャリア唯一のハットトリック(PKで2ゴール)を達成した。このシーズン、17得点を決めた。この間、1986年のワールドカップ終了後、ナポリが獲得に動き、秘密裏にバイエルンの給料の約3倍の現金を持参したナポリのスタッフと面会したこともあったが、残留した。
1988年にブレーメと共にイタリアのインテル・ミラノへ440万ドルの金額で移籍。この金額はカール=ハインツ・ルンメニゲ、フェラーに次ぐ西ドイツ選手の高額での移籍であった。インテルではトラパットーニ監督の下でセンターハーフとしての才能に開花。守備だけでなくパスセンスや得点能力にも磨きをかけ(1989-90、90-91シーズンにリーグで11得点、16得点)、1988年8月21日のコッパ・イタリアのグループリーグ、バーリ戦で移籍後初ゴール、10月16日のピサ戦でセリエA初ゴール。ナポリ戦で直接FKを決め、クラブを8年ぶりのスクデット獲得に導いた。1990-91シーズンにはUEFAカップ決勝ASローマ戦の第1戦でゴールを決めるなど、優勝の原動力になった。
1992-93シーズンから古巣のバイエルン・ミュンヘンへ復帰。シーズン序盤は怪我の治療のため出遅れたが、11月21日、第13節のバイエル・レバークーゼン戦においてペナルティエリア外からコーナーキックのボールをダイレクトボレーでゴールを決めた。1993-94シーズン、カイザースラウテルンと激しく優勝を争う中、第34節のシャルケ04戦では決勝点となった直接FKを決めて勝利に貢献、この結果チームはカイザースラウテルンに勝ち点1差で優勝を果たした。1995年1月にアキレス腱断裂に見舞われ長期離脱するなど怪我に苦しんだ時期もあったが、バイエルンの顔として、ブンデスリーガ優勝3回(1994年、1997年、1999年)、UEFAカップ優勝1回などに貢献した。1996-97シーズン、4月26日、リーグ第29節のデュッセルドルフ戦では相手3選手を抜き去り、強烈なシュートでゴールを決めた。1999年11月20日のフライブルク戦でゴールを決め、バイエルンでの通算100ゴールを達成した。ブンデスリーガでは464試合121ゴール、ポカールでは59試合19ゴールの成績を残した。
現役時代は数々のタイトルを手にしてきたが、UEFAチャンピオンズリーグのタイトルだけには縁が無く、1986-87シーズンにはFCポルト、1998-99シーズンにはマンチェスター・ユナイテッドの前に決勝で涙を飲んだ。
2000年からはアメリカ合衆国のニューヨーク・ニュージャージー・メトロスターズへ移籍し、翌2001年に現役を引退した。
2018年には、キャリアをスタートさせたクラブで引退するという自身の願いを叶えるため、ユース時代に所属したFCヘルツォーゲンアウラハの試合に出場。既にリーグ優勝を決めていた後の試合で先発出場し後半5分までプレーした。
2001年9月にオーストリア・ブンデスリーガのラピード・ウィーンで監督としてのキャリアをスタート。アンドレアス・イヴァンシッツを始めとした多くの若手選手を起用したがクラブの歴史上最も酷い8位という成績に終わり2002年5月に解任された。
2002年、パルチザン・ベオグラードの監督に就任。2002-03シーズンの国内リーグ戦を制し、UEFAチャンピオンズリーグ 2003-04では予選を突破しグループリーグ進出に導いたが、グループリーグでは最下位に終わり敗退。国内リーグ戦では首位と勝ち点3差の2位につけていたものの、個人的な理由により2003年12月に監督を辞任した。
2004年、ハンガリー代表監督に就任。ワールドカップ・ドイツ大会出場を目指したが、スウェーデン、クロアチア、ブルガリアなどの強国がひしめくグループを突破することは叶わず予選敗退。マテウスは契約更新を望んだが、ハンガリーサッカー協会(MLSZ)との交渉は決裂し2005年末で監督を退任した。
2006年1月11日、 ブラジルのアトレチコ・パラナエンセと1年間の契約を結んだが、生活環境の不一致を理由に同年3月に帰国。監督就任から7試合で指揮(通算5勝2分)を執っただけでの退団となった。
2006年6月よりオーストリア・ブンデスリーガのレッドブル・ザルツブルクのヘッドコーチに就任。インテル時代の恩師のトラパットーニ監督との二人三脚で指揮を執り、2006-07シーズンのリーグ優勝に導いたがクラブ側と意見が対立し、2007年6月12日に解任された。
2008年7月よりイスラエル・プレミアリーグのマッカビ・ネタニヤの監督に就任したが、翌2009年4月29日、成績不振によりクラブとの契約を更新しないことを発表した。
2010年9月21日よりブルガリア代表の監督に就任した。ブルガリアサッカー連合 (BFU)の発表によると2年間の契約延長オプションが付いた1年契約。2011年9月19日、成績不振により解任された。
ドイツ代表としては、1980年4月26日のオランダ戦で代表デビューを飾ると同年6月のUEFA欧州選手権1980、1982年の1982 FIFAワールドカップ代表に選出された。デビュー当初は交代出場が多くスタメン出場は成らなかったが、スペイン大会後の1984年に開催されたUEFA欧州選手権1984ではレギュラーの座を掴み、これ以降は代表の中心選手として定着した。
1986年のワールドカップ・メキシコ大会では、決勝トーナメント1回戦のモロッコ戦にて延長戦終了間際に与えられたフリーキックから弾道の低いロングシュートを決め、1-0の勝利に導く活躍などで2大会連続の決勝進出に貢献。決勝のアルゼンチン戦では、相手エースのディエゴ・マラドーナのマンマークを担当、この試合においてマラドーナを封じる事には成功したが、試合そのものには敗れ去り、2大会連続準優勝に終わった。
ワールドカップ終了後にルンメニゲやフェリックス・マガトといったベテラン選手が代表から退くなど世代交代の時期を迎えると、ベッケンバウアー監督の下で主将としてエースとして代表チームを牽引するようになった。1988年のUEFA欧州選手権1988では、地元開催ということもあって準決勝進出を果たすが、この大会を制するオランダ戦で得点を挙げたが、1-2で敗退。なお、それまでマテウスは背番号8を付けることが多かったが、この大会後に所属クラブのインテルと同様に背番号10を付けるようになった。
1990年のワールドカップ・イタリア大会では、1次リーグ初戦のユーゴスラビア戦で強烈なミドルシュートで2得点を挙げ、守備面においても相手エースのストイコヴィッチを封じ込め、4-1と大勝。UAE戦でもミドルシュートで得点を奪い、決勝トーナメント1回戦では優勝候補の一角のオランダを2-1で退け、準々決勝のソビエト戦でも決勝点を決め、合計4得点をあげる活躍で決勝進出に貢献。決勝戦のアルゼンチン戦では負傷していた影響でPKをブレーメに譲り、ブレーメがこれを成功させ1-0で勝利し前回大会の雪辱を果たし、1974年大会以来となる3度目の優勝を果たした。マテウスは当時を振り返り次のように語っている。
ドイツ代表での活躍もあり、1990年には欧州年間最優秀選手とドイツ年間最優秀選手賞、ワールドサッカー誌選定世界最優秀選手賞を受賞、1991年にはFIFA最優秀選手賞を受賞するなど絶頂期にあったが、1992年4月に前十字靭帯を負傷しUEFA欧州選手権1992は不参加となった。
1994年のワールドカップ・アメリカ大会に出場。前回の優勝メンバーに東ドイツ出身の選手やシュテファン・エッフェンベルクらが加わり戦力は整ってはいたが、直前の親善試合の結果は芳しくなかった。
マテウス自身は1992年に負傷した膝の状態が思わしくなく、動きに精彩を欠いていた。ラウンド16のベルギー戦ではフェラーの先制ゴールをアシストして勝利に貢献、準々決勝でダークホースのブルガリアに1-2で敗れた(この試合でマテウスはPKで得点を挙げた)。ドイツ代表の主将として長きに渡って代表を支えていたマテウスであったが、アメリカ大会後はユルゲン・クリンスマンとの確執(後述)などもあってベルティ・フォクツ監督の構想外となり代表への招集は見送られ、1996年のUEFA欧州選手権1996は不参加となった。
1998年のワールドカップ・フランス大会ではリベロのマティアス・ザマーが負傷したこともあり、大会直前、5月27日のフィンランド戦で代表に復帰を果たし、本大会ではグループリーグ第2戦のユーゴ戦で途中出場を果たすと、以降先発の座を奪い、合計4試合に出場、ベスト8まで進出した。2000年のUEFA欧州選手権2000でもプレーをするなど、ドイツ代表としては歴代最多となる国際Aマッチ150試合出場、5度のワールドカップ出場、ワールドカップ最多出場記録(25試合)を達成する金字塔を打ち立てた。
一次情報の発言のみ収録。1回の会見につき主要な発言を最大3つ引用し、他は解説で要約しています。
「オリーセは今、あらゆる扉が開かれている年齢です。もし契約を延長しなければ、1、2年後にはバイエルンでプレーしていないでしょう。」
「あのような選手は絶対に売りません。できるだけ長く手元に置こうとするはずです。」
「どうしてもこの選手を残したいなら、年俸を引き上げなければなりません。ムシアラやケインと同じ水準にです。」
出典:Goal.com 2026年10月22日
「オリーセは世界的な選手だが、若さゆえのミスを犯した。あってはならないことだった。」
「ケインの契約も、オリーセの契約も延長しなければならない。この2人はゲームのルールを変えられる選手で、クラブの顔でもあり、アンバサダーでもある。」
「ピッチで魔法を見せてくれると嬉しいし、次の瞬間に何をするのかと思わせてくれる。これが私にとってのサッカーの本質で、大好きだ。」
出典:Goal.com 2026年10月20日
「バイエルンでリーダーである者は、代表でもリーダーになれる。そして彼はそれほど重要な存在だ。」
「彼は決定的な仕事をする。エネルギー、人間性、存在感でね。」
「この議論が少しずつ終わってほしい。彼はバイエルンだけでなく代表でもこの役割を担うために必要なものをすべて備えている。」
出典:Goal.com 2026年10月19日
「ロビン・コッホについての厳しい発言には驚いた。主将を交代させたことを『救い』と表現したのは適切ではなかった。」
「全員を交代させるべきだった」
出典:Goal.com 日本語版 2026年10月14日
「ここまでピッチの内外で、バイエルンでも代表でも素晴らしい。彼のプレーの仕方、ボールを楽々とインターセプトする様子は、どこかマヌエル・ノイアーを思わせる。」
「落ち着いてボールをさばきプレーに組み込む点では、テア・シュテーゲンよりも優れている。足元では、ウルビヒのほうがはるかに正確で、判断も明確で落ち着いている。」
「彼はまだマヌエル・ノイアーから学んでいる最中で、いつかは後を継ぐだろう。それが今季中になるのか、遅くとも今季終了後になるのかは分からない。」
出典:Goal.com 2026年10月12日
「キミッヒは経験、そして何よりパフォーマンスでキャプテンとして先頭に立って引っ張っている。なぜキミッヒが議論の対象になっているのか、私にはさっぱり分からない。」
「キミッヒは横や後ろにパスを出すだけではない。チップパスで前線にも危険を生み出している。」
「パフォーマンスの原則は全員に当てはまる。もしキミッヒがクロップの思い描くスタイルに合うプレーをしなければ、バイエルン出身のアレクサンダル・パブロビッチという有力な対抗馬がいる。」
出典:Goal.com 2026年10月6日
数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。
| クラブ | シーズン | 年齢 | ディビジョン | リーグ | 国内カップ1 | リーグカップ2 | 大陸大会3 | シーズン通算 | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 1979-80 | 18 | ブンデスリーガ | 28 | 4 | 2 | 0 | — | — | 11 | 2 | 41 | 6 | |
| 1980-81 | 19 | ブンデスリーガ | 33 | 10 | 5 | 2 | — | — | — | — | 38 | 12 | |
| 1981-82 | 20 | ブンデスリーガ | 33 | 3 | 5 | 4 | — | — | 4 | 1 | 42 | 8 | |
| 1982-83 | 21 | ブンデスリーガ | 34 | 8 | 5 | 2 | — | — | — | — | 39 | 10 | |
| 1983-84 | 22 | ブンデスリーガ | 34 | 11 | 6 | 4 | — | — | — | — | 40 | 15 | |
| 通算 | 162 | 36 | 23 | 12 | — | — | 15 | 3 | 200 | 51 | |||
| 1984-85 | 23 | ブンデスリーガ | 33 | 16 | 6 | 0 | — | — | 5 | 1 | 44 | 17 | |
| 1985-86 | 24 | ブンデスリーガ | 23 | 10 | 5 | 2 | — | — | 3 | 0 | 31 | 12 | |
| 1986-87 | 25 | ブンデスリーガ | 31 | 14 | 3 | 1 | — | — | 7 | 4 | 41 | 19 | |
| 1987-88 | 26 | ブンデスリーガ | 26 | 17 | 4 | 3 | — | — | 4 | 1 | 34 | 21 | |
| 通算 | 113 | 57 | 18 | 6 | — | — | 19 | 6 | 150 | 69 | |||
| インテル・ミラノ | 1988-89 | 27 | セリエA | 32 | 9 | 7 | 3 | — | — | 5 | 0 | 44 | 12 |
| 1989-90 | 28 | セリエA | 25 | 11 | 2 | 2 | 0 | 0 | 2 | 0 | 29 | 13 | |
| 1990-91 | 29 | セリエA | 31 | 16 | 3 | 1 | — | — | 12 | 6 | 46 | 23 | |
| 1991-92 | 30 | セリエA | 27 | 4 | 5 | 1 | — | — | 2 | 0 | 34 | 5 | |
| 通算 | 115 | 40 | 17 | 7 | 0 | 0 | 21 | 6 | 153 | 53 | |||
| 1992-93 | 31 | ブンデスリーガ | 28 | 8 | 0 | 0 | — | — | — | — | 28 | 8 | |
| 1993-94 | 32 | ブンデスリーガ | 33 | 8 | 3 | 1 | — | — | 4 | 1 | 40 | 10 | |
| 1994-95 | 33 | ブンデスリーガ | 16 | 5 | 2 | 0 | — | — | 6 | 0 | 24 | 5 | |
| 1995-96 | 34 | ブンデスリーガ | 19 | 1 | 0 | 0 | — | — | 7 | 0 | 26 | 1 | |
| 1996-97 | 35 | ブンデスリーガ | 28 | 1 | 3 | 0 | — | — | 2 | 0 | 33 | 1 | |
| 1997-98 | 36 | ブンデスリーガ | 25 | 3 | 3 | 0 | 2 | 0 | 5 | 0 | 35 | 3 | |
| 1998-99 | 37 | ブンデスリーガ | 25 | 1 | 5 | 0 | 2 | 0 | 12 | 1 | 44 | 2 | |
| 1999-2000 | — | ブンデスリーガ | 15 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 9 | 0 | 26 | 1 | |
| 通算 | 189 | 28 | 18 | 1 | 4 | 0 | 45 | 2 | 256 | 31 | |||
| 2000 | 38 | メジャーリーグサッカー | 16 | 0 | 2 | 0 | 5 | 0 | — | — | 23 | 0 | |
| キャリア通算 | 595 | 161 | 78 | 26 | 9 | 0 | 100 | 17 | 782 | 204 | |||
1. 国内カップ戦(コパ・デル・レイ、FAカップ、天皇杯など) 2. リーグカップ(EFLカップ、JリーグYBCルヴァンカップなど) 3. 大陸大会(UEFAチャンピオンズリーグ、AFCチャンピオンズリーグなど) 年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。
ドイツ としての年別成績です。親善試合を含みます。
| 年 | 年齢 | 出場 | 得点 | 得点グラフ |
|---|---|---|---|---|
| 1980 | 18 | 1 | 0 | |
| 1981 | 19 | 1 | 0 | |
| 1982 | 20 | 10 | 0 | |
| 1983 | 21 | 7 | 0 | |
| 1984 | 22 | 10 | 0 | |
| 1985 | 23 | 7 | 1 | |
| 1986 | 24 | 15 | 2 | |
| 1987 | 25 | 6 | 1 | |
| 1988 | 26 | 10 | 4 | |
| 1989 | 27 | 3 | 1 | |
| 1990 | 28 | 15 | 7 | |
| 1991 | 29 | 7 | 3 | |
| 1992 | 30 | 4 | 0 | |
| 1993 | 31 | 11 | 0 | |
| 1994 | 32 | 15 | 3 | |
| 1995 | 33 | 0 | 0 | |
| 1996 | 34 | 0 | 0 | |
| 1997 | 35 | 0 | 0 | |
| 1998 | 36 | 8 | 0 | |
| 1999 | 37 | 13 | 1 | |
| 2000 | 38 | 7 | 0 | |
| 通算 | 150 | 23 | ||
年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。
英語版 Wikipedia の Managerial statistics の値です(Wikipedia(英語版)、revid 1380497361)。勝率は勝利数÷試合数。当サイトによる補完・推計は行っていません。
| 在任期間 | 年齢 | チーム | 試合 | 勝 | 分 | 敗 | 勝率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2001.09〜2002.05 | 40 | 32 | 9 | 9 | 14 | 28.1% | |
| 2002.12〜2003.12 | 41 | 44 | 29 | 6 | 9 | 65.9% | |
| 2003.12〜2006.01 | 42 | 28 | 11 | 3 | 14 | 39.3% | |
| 2006.01〜2006.03 | 44 | 8 | 6 | 2 | 0 | 75.0% | |
| 2008.06〜2009.04 | 47 | 32 | 14 | 12 | 6 | 43.8% | |
| 2010.09〜2011.09 | 49 | 10 | 3 | 3 | 4 | 30.0% | |
| 通算 | 154 | 72 | 35 | 47 | 46.8% | ||
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1971〜1979 | 9 | ヘルツォーゲンアウラハ |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1979〜1984 | 17 | |
| 1984〜1988 | 22 | |
| 1988〜1992 | 26 | |
| 1992〜2000 | 30 | |
| 2000 | 38 | |
| 2018 | 56 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1979〜1983 | 17 | |
| 1979〜1981 | 17 | |
| 1980〜2000 | 18 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
| 在任 | 年齢 | チーム | 役職 |
|---|---|---|---|
| 2001〜2002 | 39 | 監督 | |
| 2002〜2003 | 40 | 監督 | |
| 2004〜2006 | 42 | 監督 | |
| 2006〜2006 | 44 | 監督 | |
| 2006〜2007 | 44 | 監督 | |
| 2008〜2009 | 46 | 監督 | |
| 2010〜2011 | 48 | 監督 |
掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。
| 時期 | 年齢 | 移籍元 | 移籍先 | 形態 | 移籍金 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1979 | 17 | ヘルツォーゲンアウラハ | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | |
| 1984 | 22 | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | ||
| 1988 | 26 | インテル・ミラノ | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | |
| 1992 | 30 | インテル・ミラノ | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | |
| 2000 | 38 | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | ||
| 2018 | 56 | ヘルツォーゲンアウラハ | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 |
※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。
出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認
英語の記録名しか確認できないもの(19件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。
代表チームで獲得したメダルです(金2・銀2・銅1)。当サイトの大会結果データとも照合し、食い違いがあれば掲載しません。
| FIFAワールドカップ | 金 1990 イタリア銀 1982 スペイン銀 1986 メキシコ |
|---|---|
| UEFA欧州選手権 | 金 1980 イタリア銅 1988 ドイツ |
出典は英語版 Wikipedia の「メダル獲得記録(Medal record)」節(記事名・版 ID・取得日は「出典」節に記載)。W杯は当サイトの大会結果データでも一致を確認しています。
本文の一部は、ウィキペディア日本語版「ローター・マテウス」(版 110394930)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。
※ 出典は媒体名・日付・URL を文字で記載しています(外部サイトへのリンクは行いません)。出典が確認できない数値はページに載せません。
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