ガリンシャ

SOCCERPEDIA / 選手ページ / ブラジルのサッカー選手 / 最終更新:2026年9月1日


概要

ブラジルガリンシャ(Garrincha、1933年10月28日 - 1983年1月20日)は、マジェー出身の元サッカー選手。ポジションはFW。ブラジルでは1955年から通算50試合12得点を記録している。クラブでは公式戦通算345試合102得点(1953 シーズン以降)。

ガリンシャこと、マノエウ・フランシスコ・ドス・サントス(、1933年10月28日 - 1983年1月20日)は、ブラジルの元サッカー選手。現役時代のポジションはフォワード(右ウイング)。

サッカーブラジル代表の2度のワールドカップ制覇に貢献した20世紀最高の右ウイングの一人である。愛称の「ガリンシャ」とはポルトガル語で山岳に生息する小鳥、ミソサザイを意味する。この他にマノエウの短縮形の「マネ(Mané)」、「マネ・ガリンシャ(Mané Garrincha) 」、または身体的な特徴から「脚の曲がった天使(、)」と呼ばれていた。

選手時代はトリッキーなドリブルの技術で注目を集め、ペレと並び称された存在だったが、晩年はアルコール依存症を患い、肝硬変により49歳で亡くなった。

クラブ経歴

生い立ち

リオデジャネイロ近郊のパウ・グランデで生まれる。父はインディオ、母はアフリカ系ブラジル人という出自の混血児だった。6歳の時にポリオ、俗に言う小児麻痺にみまわれた。ガリンシャの家は貧しく医者にかかる金などはなかったため一人の無名の若い医者が無料で手術を施した。

その結果、彼の背骨はSの字状に歪曲し両足が同じ方向にねじ曲がった。以後も軽度の知的障害が残り、小児麻痺の影響で左右の足の長さが異なる(右足が左足より6cm長かった)ハンデを背負うことになった。

「ガリンシャ」の呼び名は姉が「ミソサザイのように小さい」と評したことに由来しているとも、ゴムのスリングショットでミソサザイを撃つ遊びが得意だったからとも言われている。

生まれ育ったパウ・グランデは山や森、川などの自然に恵まれ、ガリンシャはそういった環境で伸び伸びと育ち狩りや釣りに才能を発揮していたが、同時にサッカーでも特異な才能を示し始めた。ハンデを背負ったはずの歪曲した足が予測のつかない動きを生み出し、いつしか街で一番のドリブルの名手となっていった。勉強が嫌いだったガリンシャは入学した小学校を2年で中退し、14歳の時にパウグランデの製織工場で働き始めたが、職務怠慢を理由に一旦解雇。後に社長が工場のサッカークラブ「エスポルチ・クルビ・パウ・グランデ」でプレーをさせるために復職させたこともあった。

一方で自身はサッカーに然程は固執しておらず、地元開催の1950 FIFAワールドカップで国中が盛り上がりを見せていた際にもその姿勢は変わらなかった。決勝リーグ最終戦のウルグアイ戦でブラジルが敗れ優勝を逃した時(マラカナンの悲劇)も世間の喧騒を他所に釣りへ出かけており、この試合を観ていなかったという。また、ガリンシャのプレーを観た者がその実力を認め、自らのクラブでプレーするように勧誘したり、リオデジャネイロを本拠地とするビッグクラブの入団テストを受けるように勧めていたが、本人は乗り気ではなく、ある時はスパイクを忘れたためにテストを追い返されたり、「帰りの列車に間に合わなくなるから」と途中で帰宅してしまうこともあった。

ボタフォゴ

1953年6月10日、19歳の時、ボタフォゴFRに所属するDFアラチ・ペドロ・ヴィアナの説得が実り、ボタフォゴの入団テストを兼ねた練習に参加。既に19歳という年齢に達していたため下部組織の練習ではなく、トップチームへの参加となった。この際に当時のブラジル代表DFのニウトン・サントスが練習相手となったが、これをトリッキーなドリブル(股抜き)で何度も翻弄した。ニウトン・サントスは「彼と直ぐに契約してくれ。彼のマークにつくのは真っ平御免だ」とボタフォゴの役員に直談判、クラブ幹部もガリンシャの才能を恐れ、この日のうちに契約に至った。

ボタフォゴではデビュー戦は同年7月19日のリオデジャネイロ州選手権のボンスセッソFC戦。この試合で右ウイングとして先発出場したガリンシャは1-2の劣勢からハットトリックを決めて6-3の逆転勝利に貢献すると、レギュラーに定着していった。1957年のリオデジャネイロ州選手権では優勝のかかったフルミネンセFCとの一戦で4アシストの活躍。6-2のスコアでフルミネンセを下し優勝に貢献するとクラブに9年ぶりのタイトル獲得に導いた。

ガリンシャはプロデビュー前と同様に右サイドに位置しドリブルで相手を翻弄するプレースタイルを貫き、相手を巧みなドリブルで嘲笑うことを楽しんだ。左へ行くと見せかけて右へ抜けるという単純なフェイントに、DFは翻弄された。ボールにまったく触れず、体を動かすだけで相手は体勢を狂わされた。対戦相手は2重、3重のマークでガリンシャのドリブルを阻止しようと試みたが、全盛期のガリンシャを止めることは困難を極めた。ガリンシャがこのフェイントを始めるとファンは喜び、「オレー!」と喝采を送った。

1961年、1962年にはリオデジャネイロ州選手権の連覇に貢献、ブラジル代表においてもワールドカップ連覇に貢献(後述)するなど絶頂期にあったが、この頃から膝に問題を抱えるようになった。彼の特徴だった歪曲した脚は膝に負担を掛け、膝の軟骨は激しいプレーの度に磨り減っていたが、ガリンシャは「膝を手術することは選手として終わることと同じだ」として手術を頑なに拒否していた。

1963年には膝の状態が更に悪化し毎試合出場が困難になったが、それでも手術を拒み先送りする事を望んだ。クラブ側も安定した入場料収入を確保するために人気者のガリンシャを必要としていた。1964年に手術を行う事になったが、復帰後もかつてのプレーを取り戻すことは出来なかった。

その後

1966年にボタフォゴから放出されコリンチャンスやポルトゥゲーザ・ダ・イーリャを渡り歩き、1968年にコロンビアのアトレティコ・ジュニオールに短期間所属した後に帰国しフラメンゴへ移籍した。しかし、この頃にはかつてマークすることが不可能とも言われたドリブルは影を潜め、プレーの遅い太った選手に成り下がっていた。1969年にフラメンゴを退団後は無所属だったが、1972年にオラリアACで1シーズンの間、プレーをし引退した。

代表経歴

代表経歴

1955年にブラジル代表に選出され、同年9月18日のチリ戦でデビュー(試合は1-1の引分け)。1957年にはペルーで開催された南米選手権1957の代表メンバーに招集され、2試合に出場した。

1958 FIFAワールドカップ

1958年のワールドカップスウェーデン大会で代表に招集された。しかし過去2大会での経験を踏まえて招聘した心理学者により行われた心理テストにおいて攻撃性の欠如、知能テストから「13歳の知能しか有していない」という低い結果報告がされたことで、監督のヴィセンテ・フェオラはガリンシャの起用を躊躇するようになった。

大会開幕当初は控えに回っていたが、ニウトン・サントスらの進言もあって監督が譲歩し、3戦目のソビエト連邦戦で起用されることになった。ガリンシャは同じくこの試合で起用されたペレとのコンビで試合開始早々からソ連陣内に猛攻を仕掛け 、GKのレフ・ヤシンを擁する堅固な守備陣を押し込み、3分にヴァヴァの先制点を生み出した。その後もソ連DF陣を翻弄し2-0の勝利に貢献。この試合以降、ブラジル代表のスタメンに定着した。

決勝のスウェーデン戦では開始早々に先制点を奪われたものの、これを機にブラジルは徹底的にボールをガリンシャに集め、9分と32分に右サイドのドリブル突破からゴール前にクロスを上げヴァヴァの2得点をアシストする活躍でブラジルの初優勝に貢献した。タイム誌はこの試合でのガリンシャのプレーを「誰も止めることはできない…ただ、それだけのことだ」と評した。この大会後、ガリンシャは崇拝の対象となり芸術家や作曲家に例えられた。一方でヴァヴァやペレと比べて、この大会でのガリンシャの評価は不当に低かったとの指摘もある。

1962 FIFAワールドカップ

1962年のワールドカップチリ大会でも引き続き代表へ招集された。ペレはこの頃すでに世界最高峰の選手としての地位を確立していたが、グループリーグ第2戦のチェコスロバキア戦で負傷し欠場を余儀なくされたため、ペレや古参の選手に代わってエースとしてチームを牽引した。グループリーグ第3戦のスペイン戦では終了間際の86分にアマリウドの決勝点をアシスト。準々決勝のイングランド戦では31分にコーナーキックから長身の相手DFに競り勝ってヘディングシュートを決めて先制すると、53分にはドライブ回転のかかったフリーキックからヴァヴァの得点をアシスト。59分には強烈なロングシュートをゴール右隅に決め3-1でサッカーの母国を退けた。

準決勝のチリ戦でも9分に左足のミドルシュートで先制すると、32分にマリオ・ザガロのコーナーキックをヘディングで決め追加点。47分にはコーナーキックからババの得点をアシストする2得点1アシストの活躍でブラジルを2大会連続の決勝進出に導いた。なお、この試合の終了間際に執拗なマークに苛立ち相手DFの尻に膝蹴りをした行為で退場処分を受けたが、ブラジル関係者が出場停止処分を覆すために奔走した。後に当時のチリの大統領を介入させて審判に圧力をかけて出場停止処分を撤回させるに至るほど、ガリンシャの存在は大きくなっていた。

決勝のチェコスロバキア戦は39度の高熱をおしての出場となったが3-1でこれを下してブラジル代表を大会2連覇に導くと共に、大会通算で4得点を挙げヴァヴァ、レオネル・サンチェス、ドラジャン・イェルコヴィッチ、アルベルト・フローリアーン、ワレンチン・イワノフと並び得点王となった。この大会のガリンシャの活躍について、チリの『エル・メルクリオ』紙は、 と評した。また「たった一人の力で自国を優勝に導いたのはガリンシャと1986年大会のディエゴ・マラドーナだけだ」と評する者もいる。

1966 FIFAワールドカップ

1966年のワールドカップイングランド大会でも招集を受けた。この大会のブラジルは世代交代が進まず選手が高齢化していたという懸念があったものの依然として優勝候補と目されていた。しかしガリンシャ自身は膝の手術後の状態が芳しくなく、医師から1958年大会や1962大会で見せたプレーは出来ないと診断されていた。それにも関わらずブラジル代表の選考委員たちはガリンシャを招集する決断を下していた。

グループリーグ初戦のブルガリア戦ではフリーキックを直接決め1得点を記録したが、続くハンガリー戦では1-3で敗れた。ハンガリー戦での敗戦を受けてガリンシャを含め先発メンバー7人が入れ変えたため最終戦のポルトガル戦での出場は成らず。ブラジルはポルトガルに敗れてグループリーグで敗退し、ガリンシャはこの大会を最後に代表から退いた。ブラジル代表での通算成績は国際Aマッチ50試合出場12得点。

人物像

エピソード

ガリンシャは頭が弱かったと言われているが、天真爛漫な性格から、大衆には愛された。ガリンシャには様々なエピソードが存在するが、その多くは友人でジャーナリストのサンドロ・モレイラにより脚色されたものだとの指摘がある。

個人成績

数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。

クラブ

クラブシーズン年齢ディビジョンリーグ大陸大会1その他2シーズン通算
出場得点出場得点出場得点出場得点
ブラジルボタフォゴ195319カンピオナート・カリオカ*2620——002620
195420カンピオナート・カリオカ*271——98369
195521カンピオナート・カリオカ*193——92285
195622カンピオナート・カリオカ*205——00205
195723カンピオナート・カリオカ*216——92308
195824カンピオナート・カリオカ*269——913510
195925カンピオナート・カリオカ*249——532912
196026カンピオナート・カリオカ*219——913010
196127カンピオナート・カリオカ*216——112328
196228カンピオナート・カリオカ/タッサ・ブラジル*20580——723210
196329カンピオナート・カリオカ*31201071
196430カンピオナート・カリオカ*40——73113
196531カンピオナート・カリオカ*10——7080
通算23884208317323101
ブラジルコリンチャンス196632カンピオナート・パウリスタ*40——61101
コロンビアアトレティコ・ジュニオール196834カテゴリア・プリメーラA*10————10
ブラジルフラメンゴ196834トルネイオ・ロベルト・ゴメス・ペドローザ*10————10
196935カンピオナート・カリオカ*40————40
通算50————50
ブラジルオラリア197238カンピオナート・カリオカ*60————60
キャリア通算25484208918345102

1. 大陸大会(UEFAチャンピオンズリーグ、AFCチャンピオンズリーグなど) 2. 国内スーパーカップ・国際大会・プレーオフなど(UEFAスーパーカップ、FIFAクラブワールドカップ、リーグスカップ等) 年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

代表

ブラジル としての年別成績です。親善試合を含みます。

年年齢出場得点得点グラフ
19552110
19562200
19572360
19582450
19592540
19602652
19612741
196228126
19632900
19643000
19653160
19663273
通算5012

年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

所属チーム

ユース

期間年齢チーム
1948〜195214パウ・グランデ

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

クラブ

期間年齢チーム
1953〜196519ブラジルボタフォゴ
196632ブラジルコリンチャンス
196733ブラジルポルトゥゲーザ
196834コロンビアアトレティコ・ジュニオール
1968〜196934ブラジルフラメンゴ
197238ブラジルオラリア

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

代表

期間年齢チーム
1955〜196621ブラジルブラジル

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

移籍金・年俸・市場価値の推移

移籍履歴

掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。

時期年齢移籍元移籍先形態移籍金備考
195319パウ・グランデブラジルボタフォゴ移籍—形態・移籍金は未確認
196632ブラジルボタフォゴブラジルコリンチャンス移籍—形態・移籍金は未確認
196733ブラジルコリンチャンスポルトゥゲーザ移籍—形態・移籍金は未確認
196834ポルトゥゲーザコロンビアアトレティコ・ジュニオール移籍—形態・移籍金は未確認
196834コロンビアアトレティコ・ジュニオールブラジルフラメンゴ移籍—形態・移籍金は未確認
197238ブラジルフラメンゴブラジルオラリア移籍—形態・移籍金は未確認

※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。

出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認

獲得メダル

代表チームで獲得したメダルです(金2)。当サイトの大会結果データとも照合し、食い違いがあれば掲載しません。

FIFAワールドカップ金 1958 スウェーデン金 1962 チリ

出典は英語版 Wikipedia の「メダル獲得記録(Medal record)」節(記事名・版 ID・取得日は「出典」節に記載)。W杯は当サイトの大会結果データでも一致を確認しています。

英語の記録名しか確認できないもの(2件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。

本文の一部は、ウィキペディア日本語版「ガリンシャ」(版 109852562)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。

出典

  1. Wikidata、2026年10月26日 取得 https://www.wikidata.org/
  2. Wikipedia(日本語版)「ガリンシャ」、版 ID 109852562、2026年10月14日 取得 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A3
  3. Wikipedia(英語版)、版 ID 1379901624、2026年10月14日 取得 https://en.wikipedia.org/wiki/Garrincha

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