概要
レフ・ヤシン(Lev Yashin、1929年10月22日 - 1990年3月20日)は、モスクワ出身の元サッカー選手。ポジションはGK。ソ連代表では1954年から通算74試合0得点を記録している。クラブでは公式戦通算358試合0得点(1950 シーズン以降)。クラブ・代表で通算13個のタイトルを獲得、個人賞は63回(UEFA欧州選手権 大会ベストイレブン 2回、FIFA選抜(FIFA XI) 2回)。
レフ・イワノヴィッチ・ヤシン(, 1929年10月22日 - 1990年3月20日)は、ソビエト連邦モスクワ出身のサッカー選手。元ソ連代表。ポジションはゴールキーパー。
クラブ経歴
生い立ち
ヤシンは、モスクワ東区の錠前屋の家庭に生まれた。ヤシン家は叔母アンナ・ミトロザノヴナの一家と同居しており、1つの大きな家族として暮らした。春夏秋は家の中庭で友人たちと暗くなるまでサッカーに熱中し、冬は庭でスケートをする日々を過ごした。
6歳で母アンナが結核のため亡くなる。11歳の時には第二次世界大戦の影響でモスクワ近郊の村にある軍用機の部品工場で父イヴァンと共に働き、同年秋にはモスクワから遠く離れたウリヤノフスクに疎開し列車の貨物を降ろす仕事にも従事した。16歳の時には貧しい食生活の影響で胃潰瘍を患い黒海沿岸にある療養施設へ入るなど、苦労の多い少年時代を過ごした。1937年、父親が再婚し、1939年には双子の弟が誕生している。
ヤシンは少年時代から身体が大きく、友人たちから「エッフェル塔」と呼ばれた。父親の勧めもあり、アイスホッケー、サッカー、バレーボール、体操、水泳、陸上競技など様々なスポーツを経験した。なかでもアイスホッケーのGKとしての資質は群を抜いたものだったという。
1944年、戦争による中断期間が解け、モスクワでサッカーの試合が再開されるとヤシンも工場のチームの入団テストを受ける。当初はストライカーになることを切望していたが、身長が高く跳躍力があったことから、チームのボスはヤシンにゴールキーパーのポジションを割り当てた。
1947年、兵役でモスクワに配属されると、軍のスポーツ部であるディナモ・スポーツ・ソサエティに入団、市議会が主催するチャンピオン・シップでデビューした。 同年7月、アイスホッケーのコーチであるアルカディ・チェルヌイシェフの目に留まり、HCディナモ・モスクワのユースへとスカウトされる。しかし優れた守備力を有するヤシンにとって、「アイスホッケーのゴールは狭すぎる (本人談)」ことと、FCディナモ・モスクワの国内外における活躍への憧れから、次第にサッカーへの思いを強めていった。
現役時代
1949年、FCディナモ・モスクワに入団。当初は「タイガー」の愛称で知られた名GKの控えであり、HCディナモ・モスクワでゴールテンダーとしても引き続きプレーしている。アイスホッケーとの二足わらじ生活は1954年まで続いた。
1951年、トップチームで初出場を果たす。デビュー戦は2失点を喫して敗れている。以降もホミッチの控えという状況は変わらず、ベンチでの日々を過ごす。
1953年3月、アイスホッケーのソビエトカップで優勝し、ゴールテンダーとしても3位に選ばれる。ホッケークラブのコーチによる強い勧めもありサッカーを断念することも考えたが、ホミッチの説得により思い止まっている。 同年、ホミッチの怪我がきっかけで正GKに定着。翌1954年にソ連代表に初招集され、9月8日のスウェーデン戦で代表デビュー。
1955年8月、当時の世界王者である西ドイツとの一戦で好プレーを連発し、3-2での勝利に貢献する。一躍世界に名を知られることとなった。
1956年メルボルンオリンピックでソ連代表として金メダルを獲得。ソ連代表が獲得した初の国際タイトルであり、ヤシンも5試合中4試合にスタメン出場し、失点2という活躍を見せた。
自身初のワールドカップとなる1958年スウェーデン大会では、「巨人の戦い」と称されたグループ4のリーグ突破 (死の組も参照) とベスト8入りに貢献した。特にグループリーグのブラジル戦では0-2で敗れたものの、ヤシンも実に12回のファインセーブを見せ、この大会を制することになるタレント軍団を大いに苦しめた。当時17歳だったペレは後年、ヤシンの度重なる美技を目の当たりにして「彼からゴールを奪うのは不可能だと思い、気が滅入ってしまった」と述懐している。
1960年に第1回欧州選手権(当時は欧州ネイションズカップと呼称)に優勝し、ベストイレブンにも選出された。この年と翌1961年、バロンドールにノミネートされ、それぞれ5位と4位にランクインを果たしている。
2度目のワールドカップとなった1962年チリ大会では、トーナメントで2度も脳震盪を起こしたが、チームを準々決勝へ導いた。しかし、10分間に3点差を追い付かれ4-4で引き分けたグループリーグのコロンビア戦や、2度も平凡なロングシュートを失点して2-1で敗れた準々決勝のチリ戦などの不安定な守備を見せたことで、国内では敗退の責任を一身に背負わされる格好となり、その非難の激しさに一時期は真剣に引退を考えたほどだった。 同年開催の「三国対抗国際サッカー大会」でディナモ・モスクワの一員として初来日。後楽園競輪場にてスウェーデン代表、日本代表と対戦した。この大会でのちのJリーグの初代チェアマンでもある川淵三郎がヤシンからゴールを奪っている。
1963年10月23日、ヤシンはイングランドのウェンブリー・スタジアムで行なわれたFA創設100周年記念試合の世界選抜メンバーに招待され、イングランド代表の度重なる猛攻を無失点に抑え、前半45分のみの出場ながらも観衆に強い印象を残す活躍を見せた。同年12月にバロンドールを受賞。
1964年にはソ連リーグで27試合に出場して6失点しか許さず、この年にディナモ・モスクワは優勝した。欧州選手権では準優勝を果たし、前回に続いてベストイレブンに選出された。
ソ連にとって、ワールドカップ最高成績の4位となった1966年大会では6試合中4試合に出場。
1967年、ソ連最高の賞とされるレーニン勲章を受賞した。同年には州中央身体文化研究所(SCOLIFK)のコーチ育成学校を卒業している。
すでに40歳になっていた1970年大会でも、メンバー入りを果たしている。この時、ヤシンは後進のバックアップに回ることを自ら志願しており、控えGK兼アシスタントコーチを務めた。同年末、現役引退を表明した。
1971年5月27日に行なわれたヤシンの引退試合のディナモ・モスクワ対世界選抜には、会場のレーニン・スタジアムに10万人のファンが集まった。世界選抜には、エウゼビオ(ポルトガル)、ボビー・チャールトン(イングランド)、ゲルト・ミュラー(西ドイツ)といった各国のスター選手たちが参加し、試合は2-2の引き分けで終了した。ヤシンは、この引退試合で得た報酬のほとんどを孤児の為に寄付している。
同年8月31日、ヤシンはイタリア代表対世界選抜チームの試合で再びフィールドに立った。世界選抜チームのゴールを守り、4-2で勝利を収めた。
引退後
ディナモ・モスクワで後進の指導に当たった後、ヤシンはディナモのサッカー部門とホッケー部門の副部長を務めた。その後、ソ連スポーツ委員会の要職を歴任、ソビエト連邦サッカー連盟の副会長やソ連第2代表チームのコーチも務めた。
1984年、ヤシンは血液のかたまりによって引き起こされる血栓性静脈炎という病により左足を切断している。後年、イスラエル訪問中に義足を取り付けた。
同年3月20日、ヤシンは胃癌によりその生涯に幕を閉じた。 。ソ連政府はヤシンの功績を称え、葬儀は国葬で行われた。ヤシンの遺体は、モスクワ市内のヴァガニコヴォ墓地に埋葬されている。
2018年FIFAワールドカップ・ロシア大会では、ソビエト連邦代表時代のヤシンのプレーを模した大会公式ポスターが製作されている。
2019年のバロンドール授賞式ではヤシン・トロフィーが新たに追加され、初受賞者はアリソン・ベッカーだった。
代表経歴
代表での出場記録とメダルから組み立てた説明です。
1954年にソ連代表での出場記録が始まり、1967年までに通算74試合0得点を記録した。
代表で獲得したメダルはUEFA欧州選手権金(1960 フランス)、UEFA欧州選手権銀(1964 スペイン)。
プレースタイル
選手としての特徴
ヤシンは非常に長い腕と足を持ち、そして黒いユニフォームと黒いグローブを付けていた風貌から「黒蜘蛛」または「黒豹」と呼ばれた。
ヤシンのプレーは革新的だった。跳躍力や反射神経、判断力に加え、元々フィールドプレーヤー志望だった彼は足元の技術も優れていた。ペナルティーエリア全体を広くカバーするだけでなく、必要とあらば積極的にペナルティーエリアの外にも飛び出すプレースタイルは、ゴール前のみを守るのが当たり前だった同時代のほかのGKには見られない特長だった。そのプレーは1950年代当時「サーカス」と称され、21世紀の現在もなお「スイーパー・キーパー」の先駆者として評されている。
黒いユニフォームと共にキャップも、ヤシンの象徴として知られている。ハイクロスの処理時にはキャップを脱いでヘディングでクリアし、またキャップを被るという光景は、毎回歓声が上がったという。後に試合のスピードが上がりタフな展開へと変化していったことで、キャップを脱いでのヘディングは止めている。ヤシン本人はこのキャップについて、「これはお守りだ」と語っている。
練習の内容も画期的だったとされている。シュートをキャッチせずに弾き出すことすら「敗北」と捉えるほどだったというが、一方でヤシンは難しいボールをキャッチするのではなくパンチングする練習を始めたGKの1人だった。また、前述のペナルティーエリア外への飛び出しのほか、反撃を開始する為の素早いスローイング、そしてディフェンダーの組織化と彼らへの指示出し (コーチング)といった内容は、当時としては斬新なものだった。余談だが、コーチングに関してはヤシンが試合中に怒鳴りすぎていると、しばしば妻から非難を受けたという。
「ボールをしっかりキャッチして味方の攻撃に繋げること」をGKの仕事と心得、「技術や身体能力は二の次。とにかく絶対にボールを止めるという強い意志こそが大事」ともヤシンは語っている。
ヤシンはディナモ・モスクワで出場した326試合中、160試合でクリーンシートを達成している。ワールドカップでは決勝トーナメントに計12試合出場し、4試合でクリーンシートを達成した。真偽は不明だが、語られるところによればヤシンは150本以上のPKを止めたという。
ソビエト連邦代表では通算78試合プレーし、70失点だった。ヤシンの全盛期だった当時は、現在と比べてディフェンス技術のレベルが高くなく、フェレンツ・プスカシュを始めとした一流のストライカー達が容易くゴールを決められる環境であったことを考えると驚異的な記録といえる。
人物像
人物
史上最高のゴールキーパーと評されている。1963年、2025年現在までにGKで唯一となるバロンドールを受賞している。1998年にはFIFAの20世紀ワールドチームのGKに選ばれた。2020年にはバロンドール・ドリームチームのGKに選ばれた。FIFAワールドカップの大会最優秀GKに与えられる賞には、1994年大会から2006年大会まで「ヤシン賞」と名付けられている。
クラブでは、デビューから引退まで20年以上をディナモ・モスクワ一筋で過ごし326試合出場、リーグ優勝5回、カップ優勝3回を経験した。ソ連代表としては通算78試合に出場し、夏季オリンピック優勝1回、欧州選手権優勝1回。FIFAワールドカップでは合計13試合に出場した。
個人成績
数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。
クラブ
| クラブ | シーズン | 年齢 | ディビジョン | リーグ | シーズン通算 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 1950 | 20 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | |
| 1951 | 21 | — | — | — | 0 | 0 | |
| 1952 | 22 | — | — | — | 0 | 0 | |
| 1953 | 23 | 0 | 0 | 5 | 18 | 0 | |
| 1954 | 24 | 0 | 0 | 1 | 25 | 0 | |
| 1955 | 25 | 0 | 0 | 4 | 26 | 0 | |
| 1956 | 26 | 0 | 0 | 0 | 19 | 0 | |
| 1957 | 27 | 0 | 0 | 0 | 12 | 0 | |
| 1958 | 28 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | |
| 1959 | 29 | 0 | 0 | 0 | 19 | 0 | |
| 1960 | 30 | 0 | 0 | 2 | 20 | 0 | |
| 1961 | 31 | 0 | 0 | 2 | 21 | 0 | |
| 1962 | 32 | 0 | 0 | 0 | 17 | 0 | |
| 1963 | 33 | 0 | 0 | 2 | 29 | 0 | |
| 1964 | 34 | 0 | 0 | 3 | 31 | 0 | |
| 1965 | 35 | 0 | 0 | 0 | 20 | 0 | |
| 1966 | 36 | 0 | 0 | 0 | 8 | 0 | |
| 1967 | 37 | 0 | 0 | 6 | 26 | 0 | |
| 1968 | 38 | 0 | 0 | 2 | 19 | 0 | |
| 1969 | 39 | 0 | 0 | 2 | 24 | 0 | |
| 1970 | 40 | 0 | 0 | 3 | 16 | 0 | |
年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。
代表
ソ連代表 としての年別成績です。親善試合を含みます。
| 年 | 年齢 | 出場 | 得点 | 得点グラフ |
|---|---|---|---|---|
| 1954 | 24 | 2 | 0 | |
| 1955 | 25 | 4 | 0 | |
| 1956 | 26 | 10 | 0 | |
| 1957 | 27 | 5 | 0 | |
| 1958 | 28 | 6 | 0 | |
| 1959 | 29 | 2 | 0 | |
| 1960 | 30 | 5 | 0 | |
| 1961 | 31 | 5 | 0 | |
| 1962 | 32 | 7 | 0 | |
| 1963 | 33 | 4 | 0 | |
| 1964 | 34 | 7 | 0 | |
| 1965 | 35 | 5 | 0 | |
| 1966 | 36 | 7 | 0 | |
| 1967 | 37 | 5 | 0 | |
| 通算 | 74 | 0 | ||
年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。
所属チーム
クラブ
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1949〜1970 | 19 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
代表
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1954〜1970 | 24 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
タイトル
クラブ
ディナモ・モスクワ
- ソビエト・トップリーグ:5回(1954, 1955, 1957, 1959, 1963)
個人
- UEFA欧州選手権 大会ベストイレブン:2回(1960, 1964)
- FIFA選抜(FIFA XI):2回(1963, 1968)
- FIFAワールドカップ 歴代ベストイレブン
- 20世紀ワールドチーム
- FIFAワールドカップ ドリームチーム
- IFFHSレジェンド
- バロンドール・ドリームチーム
- IFFHS 歴代ドリームチーム
- IFFHS 欧州歴代ドリームチーム
英語の記録名しか確認できないもの(39件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。
獲得メダル
代表チームで獲得したメダルです(金1・銀1)。当サイトの大会結果データとも照合し、食い違いがあれば掲載しません。
| UEFA欧州選手権 | 金 1960 フランス銀 1964 スペイン |
|---|
出典は英語版 Wikipedia の「メダル獲得記録(Medal record)」節(記事名・版 ID・取得日は「出典」節に記載)。W杯は当サイトの大会結果データでも一致を確認しています。
英語の記録名しか確認できないもの(1件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。
本文の一部は、ウィキペディア日本語版「レフ・ヤシン」(版 109558488)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。
出典
- Wikidata、2026年10月26日 取得 https://www.wikidata.org/
- Wikipedia(日本語版)「レフ・ヤシン」、版 ID 109558488、2026年9月17日 取得 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%82%B7%E3%83%B3
- Wikipedia(英語版)、版 ID 1379247348、2026年10月20日 取得 https://en.wikipedia.org/wiki/Lev_Yashin
※ 出典は媒体名・日付・URL を文字で記載しています(外部サイトへのリンクは行いません)。出典が確認できない数値はページに載せません。
関連項目
- ディナモ・モスクワ
- ソ連代表
- ソビエト連邦
- ソビエト・トップリーグ
- UEFA欧州選手権
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