川淵三郎

SOCCERPEDIA / 選手・監督ページ / 日本のサッカー選手 / 最終更新:2026年9月1日


概要

日本川淵三郎(Saburo Kawabuchi、1936年12月3日生)は、高石市出身の元サッカー選手。ポジションはFW。Wikidata に登録されている受賞は2種・2件。登録漏れがあるため実際の受賞回数より少ない場合がある。

川淵 三郎(かわぶち さぶろう、1936年12月3日 - )は、日本の元サッカー選手、元日本代表監督。大阪府泉北郡高石町(現在の高石市)出身。Jリーグ初代チェアマンを経て、第10代日本サッカー協会 (JFA) 会長を務めた。

会長退任後は日本サッカー協会の名誉職を歴任しており、名誉会長を経て、2012年6月より最高顧問、2020年6月15日時点では相談役である。日本トップリーグ連携機構代表理事会長。2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会評議員会議長。2020年東京オリンピック選手村村長。日本バスケットボール協会エグゼクティブアドバイザー。ジャパンサイクルリーグ名誉顧問。一般社団法人Mリーグ機構最高顧問。元公立大学法人首都大学東京理事長。実業界では、古河グループの古河産業の取締役を務めた。

公式な愛称は「キャプテン」、渾名は「サブ」。家族は妻と2女の4人家族。早稲田大学第二商学部商学科卒業。

クラブ経歴

合併・吸収

川淵のチェアマン在籍時における最大の汚点として、横浜フリューゲルス(以下、横浜F)と横浜マリノスの合併(事実上の消滅)が挙げられる。バブルの残滓も無くなりJリーグの人気も下降、未曽有の不景気の中、赤字を出し続けるスポーツクラブは母体会社にとってコスト面において重荷となり、整理対象となる可能性は高かった。その中横浜Fの問題は水面下では既に決まっていた事案で、表面化した時には手遅れの状態だった。横浜Fサポーターには正に寝耳に水で、やり場の無い憤りを抱えたサポーターたちは、川淵チェアマンと直談判という異例の行動に出る。

通常ならば経営破綻や累積赤字を続けるクラブにはトップリーグから下部リーグに降格させる罰則を科され、運営体制を再編成した資料を協会に提出するのが常道である。突然トップリーグのクラブチームが消滅するというのは殆ど例が無い。この騒動は横浜マリノスにフリューゲルスのFを入れた「横浜F・マリノス」と名称変更し、全日空から年間数億円の資金をマリノスに拠出する事で事態は収拾する。実際のところ、横浜マリノスの親会社である日産自動車も当時経営難に陥っており、この合併には「運営資金を1チームに集約することで共倒れを防ぐ」側面もあった。

川淵にとってもこの合併劇は「チェアマン在籍時、最大の危機だった」と回想しており、チェアマン権限を無理に行使して存続させると日産・全日空両社の社長の顔を潰すことになり、また人気低迷当時、横浜Fを発端にしたクラブの連鎖消滅という最悪のシナリオの可能性もあった。川淵は「どうして存続できなかったのか」「両社の社長に会っていればもしかしたら」と訊ねられると未だに落ち込むという。

バランスシート

川淵はJリーグチェアマン在任中に「クラブごとの収支を公表する」と各クラブの社長と約束していた。ただ約束を取り付けるまではクラブチームは出資企業からの援助額が世間に晒される上「自由に商売させない上に、懐具合まで探るのか」と猛反発を喰らうが、上述の横浜Fの合併が発端で諮問委員会が作られ「5年後には全ての数字をオープンにする」と全実行委員に了承させることになる。最終的に2005年からJリーグのチーム別経営情報の公開が行われている。

解任デモ

FIFAワールドカップ・ドイツ大会の本大会後から主にインターネット上で川淵会長の解任を求める声が活発になり、2006年8月9日に国立競技場で開催された国際親善試合トリニダード・トバゴ戦の試合前後にはとうとう400-500人前後の人々が川淵会長の解任を求めるデモ行進にまで発展した。

ジーコ監督

2002年にフィリップ・トルシエが退任した後のサッカー日本代表監督選考でブルーノ・メツ、アーセン・ベンゲルなどの候補が挙げられていた(ただし、両監督ともクラブとの契約があり、実現性は低かった)が、候補の中にジーコの名前は無かった。川淵は2002年W杯におけるジーコの論旨に刮目していて「ジーコはどうだろう? 一度連絡してみよう」と提案しアポイントしたところジーコ本人も乗り気でそのまま代表監督に就任する。ただ、この鶴の一言により理事達が阿諛追従したのか、川淵がごり押ししたのかは不明ではあるものの、2006年W杯での逆転負けGL敗退の結果も含め、批判の俎上に挙げられる。尚、単一の監督でサッカー日本代表を4年間に渡って指揮し、アジア予選を自力突破したのは日本サッカー史においてジーコが初となっている。

代表経歴

得点数

このほか、国際Cマッチの対ロコモティフ・モスクワ戦(1960年12月11日、国立霞ヶ丘競技場陸上競技場)で挙げた得点が、日本代表の同競技場初ゴールとなっている。

人物像

人物

高石小学校時代に指導を受けた吉岡たすくの影響で小・中学生時代は演劇に打ち込み、放課後はNHK大阪放送局に通い放送劇に出演していた。その傍ら、元々運動神経が良かったため誘われる形で野球部にも所属し、高石小の初代生徒会長も務めた。

三国丘高校サッカー部は川淵の入学前年の1951年高校選手権で準優勝した強豪だったが、部員不足に悩まされていて、同級生からサッカー部に誘われた川淵は「汚れるし痛い」として継続する気は無く、退部を申し出るが部員に引き止められたことに加え「サッカーなら、試合遠征で色んな場所に行ける」と口説かれて残留。大阪や明石の空襲で焼け跡が放置され闇市が勢力を伸ばす終戦直後の混乱期に四国などへサッカー遠征、漫遊し羽を伸ばす。

早稲田大学ア式蹴球部に所属し、日本代表として東南アジア方面に同行。当時イギリス領だった香港のクリケットのカントリークラブにある緑の芝生に驚き、さらにドイツ・デュースブルクスポーツシューレの環境を目の当たりにし彼我の差に愕然となる。日本サッカー協会が西ドイツサッカー協会にコーチの派遣を要請、デットマール・クラマーがコーチに就き、基本からの単調な反復練習に不満を感じるものの指導通りに出来ないことを自覚し焦る。

1970年代半ば、古河電気工業サッカー部の監督を退任した川淵は社業に専念する。伸銅事業部の販売課長に就任。伸銅品の納入先はトヨタ自動車や松下電器等の大企業。しかし間に指定問屋が介在する世界で、問屋の社長や番頭は手練手管に長けた叩き上げタイプの商売人が多く、伸銅品の販売は古河電工の営業畑で最も泥臭く人間臭い分野だった。その一筋縄ではいかない問屋を相手に、銅の国際相場を睨みながら、かつライバル企業に競り負けぬように受注製造量や納期を交渉しなければならない。川淵は課長でありながら即断即決で契約をまとめた。担当役員や部長には叱責されたが、「社に持ち帰って相談していたら、注文を他社に奪われてしまう」と真っ向から反論。一方、海千山千の問屋の社長たちにも、一歩も退かない体当たり、自己決定・実行型の交渉で、次第に信頼を得た。どんな相手にもおもねず、臆せずに懐に飛び込み直言する言動。のちにチェアマンとして世間に認識された川淵の姿は、当時と少しも変わらないと言えそうだ。

1988年、森健兒から日本サッカーリーグ (JSL) 総務主事の後任を頼まれ引き受けるが、森は「川淵さんはおそらく古河電工の役員として東京に戻れると思っていたんでしょう。ところが東京に戻ることになったものの、本体の古河電工ではなく系列の古河産業に出向だったんです。もしこれが本体の役員だったら彼はそっちに行ってサッカーに関わっていなかったと思いますよ。権力志向の強い人だから。これからどうなるかわからないサッカーより彼はそっちを選んだでしょう」と話している。『「ダイヤモンド・サッカー」の時代』のインタビューでも、川淵はほぼ同内容の話をしている。「サラリーマンとして先が見えた以上、このままでは生きていく上で夢がない。では自分の目指すことのできる夢って何だろうと考えたときに、それはサッカーしかないと思ったんです。それで総務主事の話を引き受けることにした」。

JSL総務主事になった川淵は、水面下ではプロ化の動きがあったもののサッカーに対して投げやりで、当時の場末感漂うJSLを見て幻滅しており、内心プロ化には消極的な立場であった。何をやろうにも予算が無く、自らサンドイッチマンとなり広報活動したり、関東圏にあるサッカースクールやクラブ、学校の指導者宛に手紙による招待作戦や、サッカー好きでお笑いタレントの明石家さんまに頼み込んで集客ポスター を作ったりしていた。

1993年のJリーグ開幕セレモニーでは「スポーツを愛する多くの皆様に支えられまして、Jリーグは今日、ここに大きな夢の実現に向かってその第一歩を踏み出します。1993年5月15日、Jリーグの開会を宣言します。Jリーグチェアマン 川淵三郎」と纏め、国立競技場に集まった大観衆の中で宣言した。宣言の映像が後世に資料として紹介される際、長すぎてカットされることがないよう、30秒以内に収まる程度に内容を短くした。

JFA会長は、それまで無給だったが、川淵の代から有給となった(推定3000万円)。

カザフスタンとドローに終わった加茂周監督の解任を発端とする一連の騒動の最中に、ジェフユナイテッド市原の親会社であるJR東日本のトップが「何かあったら、Jリーグやめちゃう」と発言、「やめてみろ」とやり返すも、ジェフのスタッフが「川淵さんのあの発言はよろしくない」と諌められ、内部からこのような動きが出たことについて協会会長の長沼健と共に心身を疲弊させていた。この騒動の中、川淵の自宅には嫌がらせや中傷の電話が続き、妻が精神的に参っていた上に、自身も予選の重圧と胆嚢摘出手術で体は悲鳴をあげ、マレーシアに同行出来なかった川淵は自宅でTV観戦。岡野雅行のVゴールでサッカー日本代表W杯初出場、家族4人抱き合って喜んだ。

Jリーグのシーズンオフに放送されたテレビの特別番組において、俗に「珍プレー」と呼ばれるような選手や審判のミス等を集め、珍奇に編集し視聴者の笑いを誘う企画内容があり、この放送を見た川淵は「一生懸命プレーする選手達を笑いものにするとはけしからん!」と激怒して、この件以後そのようなコンセプトの番組へは映像使用を許可しない方針を取った。

本人によれば、1998年のフランスW杯の直後に長沼から一度協会会長に就任する打診を受けている。しかし当時はまだJリーグの問題が山積しており後に引き継げる状態ではなかったため、この時は打診を断らざるを得なかったという。

1998年に横浜フリューゲルスが横浜マリノスに吸収(事実上の消滅)された際それを阻止できなかったことを悔やみ、一層の「身の丈経営」や「地域密着」を強化するしていく。その矢先の2000年にヴァンフォーレ甲府経営危機問題が発生すると、川淵は直接山梨県へ出向き主要株主を精力的に回り支援を求めた。

2004年に起こったプロ野球再編問題の際に、Jリーグ会長の立場として当時プロ野球・コミッショナーの立場にいた根來泰周を批判した。特に野村克也とは週刊誌などの公の舞台でも幾度に渡り対談し、私的にも両者のパーティー、懇親会等に出席し合うなど親交があることが知られている。

ワンマンとも取れるその言動で「独裁者」と渾名される。韓国とワールドカップの共催が決まった会見では「私の顔を見ていただければわかる」と憮然な態度だった。2006年ドイツワールドカップ、対ブラジル戦での惨敗に動揺、落胆し、直後の記者会見で迂闊に次期代表監督の名を述べた。また高円宮憲仁親王急逝、当時日本代表監督であったイビチャ・オシムが急病で倒れた時は目を赤くしていた。なでしこJAPANの名称の生みの親としても有名であり、アテネオリンピックの際の女子サッカーの宣伝には若手アイドルタレントを多数広告塔に起用するなど話題を集めていた。

大阪府堺市の名誉大使である。2012年9月26日に委嘱を受けた。また、2013年9月29日投開票の堺市長選挙では、大阪府立三国丘高等学校の同窓生である現職(当時)の竹山修身候補の応援演説を行った。

プロ野球では大の阪神ファンであり、吉田義男と親しくなってからは、吉田から1990年代前半当時のフランスサッカー連盟の重鎮を紹介されたことで、フランスとのパイプ作りに成功した。

発言集

一次情報の発言のみ収録。1回の会見につき主要な発言を最大3つ引用し、他は解説で要約しています。

2026-27シーズン(1件)
2026年9月17日本人コメント川淵三郎(本人)/本人SNS
川淵三郎氏が2026年9月17日、自身のX(旧Twitter)に投稿した内容。森喜朗元首相の容態が重いと聞いてから一年以上ぶりに面会が実現したこと、そして森元首相から引き継いだトップリーグ連携機構会長を退任することについて、森元首相から了承を得たことを報告している。日本サッカーと日本ラグビーの発展に貢献してきた両者の関係を示す投稿として注目を集めた。
「かなり重体とお聞きしてから」
「お元気でよかった」

出典:デイリースポーツ 2026年9月17日

所属チーム

ユース

期間年齢チーム
1952〜195415日本三国丘高校
1957〜196020日本早稲田大学

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

クラブ

期間年齢チーム
1961〜197024日本古河電工

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

代表

期間年齢チーム
1958〜196521日本日本

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

監督

在任年齢チーム役職
1970〜197133古河電工(アシスタントコーチ)監督
1972〜197535日本古河電工監督
1980〜198143日本日本代表監督

移籍金・年俸・市場価値の推移

移籍履歴

掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。

時期年齢移籍元移籍先形態移籍金備考
195720三国丘高校早稲田大学移籍—下部組織への移籍
形態・移籍金は未確認
196124早稲田大学古河電工移籍—形態・移籍金は未確認

※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。

出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認

タイトル

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本文の一部は、ウィキペディア日本語版「川淵三郎」(版 111167362)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。

出典

  1. Wikidata、2026年10月26日 取得 https://www.wikidata.org/
  2. Wikipedia(日本語版)「川淵三郎」、版 ID 111167362、2026年10月14日 取得 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%B7%B5%E4%B8%89%E9%83%8E
  3. デイリースポーツ、2026年9月17日、2026年10月15日 取得 https://www.daily.co.jp/general/2026/09/17/0020831408.shtml

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