ガブリエル・バティストゥータ

SOCCERPEDIA / 選手ページ / アルゼンチンのサッカー選手 / 最終更新:2026年9月1日


概要

アルゼンチンガブリエル・バティストゥータ(Gabriel Batistuta、1969年2月1日生)は、アルゼンチン・レコンキスタ出身の元サッカー選手。ポジションはFW。アルゼンチンでは1991年から通算78試合56得点を記録している。クラブでは公式戦通算551試合299得点(1988-89 シーズン以降)。クラブ・代表で通算11個のタイトルを獲得、個人賞は23回(バロンドール 3回、コパ・アメリカ 得点王 2回)。

ガブリエル・オマール・バティストゥータ(, 1969年2月1日 - )は、アルゼンチン・サンタフェ出身の元プロサッカー選手。ポジションはフォワード。

1990年代を代表するフォワードの一人で、長くイタリア・セリエAで活躍し、セリエAの外国人最多通算得点記録を保持している。またアルゼンチン代表にも選抜され、同国代表としての得点数は歴代2位である。2005年に引退した。ニックネームは獅子王、バティ、バティゴル(バティゴール)。家族は妻と4男。サッカー界から引退後は、アドルフォ・カンビアッソのもとでポロを学んでおり、プロ選手として試合にも出場している。

クラブ経歴

幼少期〜アルゼンチン時代

1969年2月1日、アルゼンチンのサンタフェに生まれる。子供の頃はサッカーよりバスケットボールに興味があったが、地元開催のW杯アルゼンチン大会で、当時のアルゼンチン代表のエース・マリオ・ケンペスのプレイを見たことでサッカーへの興味を膨らませた。子供たちで草サッカーに興じ、大会に出るため皆でチーム「グルッポ・アッレグリーア」を結成。ただ、父親が学業や家業の手伝いをおろそかにしないことを求めたため、16歳までは地元の大会に出場する程度にとどまった。16歳で地元チームのプラテンセのジュニアチームに所属。1986年17歳にしてようやくバスケットボールからサッカー選手へと本格的に転向。強いフィジカルでゴールを奪うプレーぶりを、当時マルセロ・ビエルサが下部組織の指導者をしていたニューウェルズ・オールドボーイズが目を付け、1987年に移籍した。

1987-88シーズン、ニューウェルズ・オールドボーイズでリベルタドーレス杯準優勝。1989年にリーベル・プレートに移籍。1989-90シーズン、リーベル・プレートでアルゼンチンリーグ優勝。しかしパサレラに評価されず、シーズン終了後、同じブエノスアイレスを本拠地とするリーベル最大のライバル、ボカ・ジュニアーズに移籍。ストライカーとして頭角を現した。1990-91シーズン、ボカ・ジュニアーズで19試合で11得点を叩き出した。

フィオレンティーナ

1991年にセリエAのフィオレンティーナへ移籍。2節のジェノア戦でセリエA初ゴール、20節フォツジア戦でセリエAでは初のハットトリックを達成。ラザロニ監督の辞任に伴い、就任したラディーチェ監督に見出され、レギュラーの座を手にした。1991-92シーズン、セリエAでの1シーズン目を、27試合出場13ゴールという好成績で終了。

1992-93シーズン、フィオレンティーナは低迷、9試合連続ノーゴールに終わるなど、セリエB降格となった。それに伴い、バティストゥータも移籍が取りざたされたが、チームに残留。

1994-95シーズン、1節のカリアリ戦から11月27日、サンプドリア戦まで、開幕11試合連続ゴールのセリエA新記録を達成(それまでの記録はエンツォ・パスクッティの開幕10試合連続ゴール)。ルイ・コスタとのコンビが冴え渡り、26得点を挙げセリエA得点王となった(アルゼンチン人としてはディエゴ・マラドーナ以来2人目)。

1995-96シーズン、チーム・個人共に好調を維持、一時は2位と優勝争いをした。リーグを4位で終えた。また、コッパ・イタリア優勝を達成した。

1998-99シーズン、3節ACミラン戦、17節カリアリ戦でそれぞれハットトリックを達成、前半戦、17試合で17ゴールの活躍。後半、チームの好調とともに得点王レースの首位を走っていたが、リーグ終盤に左足の怪我を負い、約1か月の離脱を強いられ、チームは離脱中に失速し、最終的に3位に終わった。一方の得点王争いでも、最終節に得点を挙げたウディネーゼのアモローゾに追い抜かれ、2度目の得点王を逃した。

1999-00シーズン、チャンピオンズリーグではグループリーグのマンチェスター・ユナイテッド戦ではホーム、アウェイで共にゴールを奪い、10月27日アーセナル戦で豪快にゴールを決め、アーセナルを破るなど存在感を示した。セリエAの3節のエラス・ヴェローナ戦、最終節のヴィチェンツァ・カルチョ戦でハットトリックを達成、リーグ戦では23得点を挙げたが、1点差でシェフチェンコに得点王のタイトルを奪われた。

ASローマ

2000年5月、スクデット獲得への思いと、破格の移籍金(当時としてはサッカー史上2番目の3,490万ユーロ)で同じセリエAのASローマへ移籍。2000-01シーズン、セリエA2節レッチェ戦で移籍後初ゴールと2点目のゴールを決め、5節ブレシア戦ではハットトリックを達成、移籍1年目で20ゴールを記録して、ローマの1983年以来18年ぶりのセリエA優勝に貢献。自身としては初のリーグ優勝だった。

インテルへの移籍から引退まで

2003年1月、セリエA・インテルへ移籍した。この移籍はそれまでインテルのエースストライカーであったクレスポの怪我に伴うものであった。セリエAでのラストゴールは2003年3月16日のコモ戦となった。

2002-03シーズン終了後、12年間すごしたイタリアを去り、カタールリーグのアル・アラビへ移籍。2005年に現役引退を表明。

代表経歴

代表経歴

1991年6月27日、ブラジル・クリチバで行われた対ブラジル戦でアルゼンチン代表デビューを飾る。コパ・アメリカ・チリ大会では6ゴールを挙げ、アルゼンチン代表を優勝へ導いた。また、個人タイトルとして得点王も獲得した。

1993年コパ・アメリカ・エクアドル大会では決勝戦での2ゴールなどで、アルゼンチンの大会2連覇に貢献。

1994年W杯アメリカ大会、ギリシャ戦でハットトリックを達成、ベスト16ルーマニア戦ではゴールを決めたが敗退した。

1995年コパ・アメリカ・ウルグアイ大会ではチームは優勝を逃したが、自身は得点王となった。

1996年-1997年W杯フランス大会・南米予選で当初バティストゥータはダニエル・パサレラ監督に出場機会をあまり与えられていなかったが、最終的にはレギュラーとして代表に復帰した。

1998年W杯フランス大会。初戦はW杯初出場である日本戦。ここで1点を決め、勝利に貢献した。また、ジャマイカ戦ではW杯記録となる(1994年大会と続いての)2大会連続のハットトリックを決めた。大会を通じて5ゴールでシルバーブーツ賞、チームはベスト8まで進出した。

2002年W杯日韓大会。アルゼンチン代表のエースとして参加するが、ナイジェリア戦で1得点をあげるのみに終わり、チームはグループリーグで敗退した。バティストゥータはアルゼンチン代表からの引退を宣言した。アルゼンチン代表としては、二大会連続でハットトリックを達成するなど、78試合56得点の成績を残した。

人物像

人物

もともとは裕福なバティストゥータ家だったが、父が事業に失敗して困窮し、養鶏場の経営を開始。その鶏肉と卵ばかりを食べて育ったガブリエルは肥満児となり、下記のようにエル・ゴルド (El Gordo, でぶ)がニックネームとなった。ニューウェルズに移籍する頃も太り気味ではあったが、ビエルサにひときわ厳しいトレーニングを課せられた結果、体重が落ちた。現役時代も食事には気を遣っていた。

愛称

よく使われる愛称はバティ (Bati) 。バティゴル (Batigol)。また、後述のフィオレンティーナでの活躍からフィレンツェの英雄と称される。その他にも荒ぶるその容姿からレ・レオーネ (Il re leone, 獅子王) とも言われる。少年期には太り気味だったことからエル・ゴルド (El Gordo, でぶ) と言われたこともある。。

フィレンツェの英雄

1992-93シーズンにフィオレンティーナは思うような成績を上げられずセリエBに降格したが、バティストゥータはフィオレンティーナに留まり、翌年の再昇格へ大きな役割を果たした。その後1994-95シーズンにはセリエA得点王、1995-96シーズンにはチームのコッパ・イタリア優勝に貢献した。最終的に合計9シーズン、フィオレンティーナに在籍し通算269試合出場、167ゴールという結果を残した。(セリエA通算は318試合184ゴール、彼はフィレンツェの英雄と称えられ、フィオレンティーナのファンは本拠地アルテミオ・フランキの前に銅像を建てた。

個人成績

数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。

クラブ

クラブシーズン年齢ディビジョンリーグ国内カップ1大陸大会2その他3シーズン通算
出場得点出場得点出場得点出場得点出場得点
アルゼンチンニューウェルズ・オールドボーイズ1988-8919—247——41——288
アルゼンチンリーベル・プレート1989-9020—214——20——234
アルゼンチンボカ・ジュニアーズ1990-9121—3413——126——4619
イタリアフィオレンティーナ1991-9222—271331————3014
1992-9323—321633————3519
1993-9424—261633————2919
1994-9525—322652————3728
1995-9626—311988————3927
1996-9727—32131074124119
1997-9828—312153————3624
1998-9929—28219441——4126
1999-2000——302320116——4329
通算2691683924221012331204
ローマ2000-0131—28200041——3221
2001-0232—2360011010356
2002-0333—1242161——206
通算633021212108733
インテル・ミラノ*2002-0333—122——————122
カタールアル・アラビ2003-0434—182521————2026
2004-0535—3011————41
通算212532————2429
キャリア通算4442484427612022551299

1. 国内カップ戦(コパ・デル・レイ、FAカップ、天皇杯など) 2. 大陸大会(UEFAチャンピオンズリーグ、AFCチャンピオンズリーグなど) 3. 国内スーパーカップ・国際大会・プレーオフなど(UEFAスーパーカップ、FIFAクラブワールドカップ、リーグスカップ等) 年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

代表

アルゼンチン としての年別成績です。親善試合を含みます。

年年齢出場得点得点グラフ
19912176
19922256
199323156
199424106
199525119
19962653
19972720
1998281212
19992922
20003054
20013111
20023231
通算7856

年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

所属チーム

ユース

期間年齢チーム
1987〜198817アルゼンチンニューウェルズ・オールドボーイズ

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

クラブ

期間年齢チーム
1988〜198918アルゼンチンニューウェルズ・オールドボーイズ
1989〜199019アルゼンチンリーベル・プレート
1990〜199120アルゼンチンボカ・ジュニアーズ
1991〜200021イタリアフィオレンティーナ
2000〜200330イタリアローマ
200333イタリアインテル・ミラノ
2003〜200533カタールアル・アラビ

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

代表

期間年齢チーム
1991〜200221アルゼンチンアルゼンチン

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

移籍金・年俸・市場価値の推移

移籍履歴

掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。

時期年齢移籍元移籍先形態移籍金備考
198920アルゼンチンニューウェルズ・オールドボーイズアルゼンチンリーベル・プレート移籍—形態・移籍金は未確認
199021アルゼンチンリーベル・プレートアルゼンチンボカ・ジュニアーズ移籍—形態・移籍金は未確認
199122アルゼンチンボカ・ジュニアーズイタリアフィオレンティーナ移籍—形態・移籍金は未確認
200031イタリアフィオレンティーナローマ移籍—形態・移籍金は未確認
200334カタールアル・アラビインテル・ミラノ期限付き移籍—期間・移籍金は未確認
200334ローマカタールアル・アラビ移籍—形態・移籍金は未確認

※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。

出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認

タイトル

クラブ

リーベル・プレート

フィオレンティーナ

ASローマ

代表

アルゼンチン代表

個人

英語の記録名しか確認できないもの(15件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。

獲得メダル

代表チームで獲得したメダルです(金4・銀1)。当サイトの大会結果データとも照合し、食い違いがあれば掲載しません。

コパ・アメリカ金 1991 チリ金 1993 エクアドル
フィナリッシマ金 1993 アルゼンチン
FIFAコンフェデレーションズカップ金 1992 サウジアラビア銀 1995 サウジアラビア

出典は英語版 Wikipedia の「メダル獲得記録(Medal record)」節(記事名・版 ID・取得日は「出典」節に記載)。W杯は当サイトの大会結果データでも一致を確認しています。

本文の一部は、ウィキペディア日本語版「ガブリエル・バティストゥータ」(版 111085438)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。

出典

  1. Wikidata、2026年10月25日 取得 https://www.wikidata.org/
  2. Wikipedia(日本語版)「ガブリエル・バティストゥータ」、版 ID 111085438、2026年10月14日 取得 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%82%BF
  3. Wikipedia(英語版)、版 ID 1379267214、2026年10月14日 取得 https://en.wikipedia.org/wiki/Gabriel_Batistuta

※ 出典は媒体名・日付・URL を文字で記載しています(外部サイトへのリンクは行いません)。出典が確認できない数値はページに載せません。

掲載写真は Wikidata API および Wikimedia Commons API を通じて、ライセンス(CC BY-SA / パブリックドメイン等)と作者表示の要件を確認したうえで掲載します。