パトリック・クライファート

SOCCERPEDIA / 選手・監督ページ / オランダ王国のサッカー選手 / 最終更新:2026年9月1日


概要

オランダパトリック・クライファート(Patrick Kluivert、1976年7月1日生)は、アムステルダム出身の元サッカー選手。ポジションはFW。オランダでは1994年から通算79試合40得点を記録している。クラブ・代表で通算11個のタイトルを獲得、個人賞は5回。

パトリック・ステーフェン・クライファート(、1976年7月1日 - )は、オランダ・アムステルダム出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード(センターフォワード)。元オランダ代表。

クラブ経歴

初期の経歴

1976年7月1日、パトリック・クライファートはオランダの首都アムステルダムに生まれた。スリナムのCalcutta出身の父親はプロサッカー選手であり、母親はキュラソー島出身である。ストリートサッカーで技術を習得し、Schellingwoude というクラブに1年間通った後、7歳の時にアヤックス・アムステルダムの下部組織に入団した。この頃はディフェンダーなどのポジションでもプレーしていた。技術の高さやインテリジェンス、スピードなどが持ち味であったが、調子に波がありすぎることが欠点だった。

クラブ経歴

1994年8月21日、18歳の時にトップチームのルイス・ファン・ハール監督に見出され、スーパーカップのフェイエノールト戦でデビューした。この試合でトップチーム初得点を決めると、デビューシーズンの1994-95シーズンは高い得点能力を発揮し、デニス・ベルカンプ(93年移籍)、エドガー・ダーヴィッツ、クラレンス・セードルフ、エトヴィン・ファン・デル・サールなど同じ下部組織出身の若手選手たちとともにUEFAチャンピオンズリーグで旋風を巻き起こし、ついには優勝を果たした。ウィーンで行われた決勝のACミラン戦では途中出場して85分に決勝点を決め、クラブにとって22シーズンぶりとなる欧州でのタイトルを獲得した。1995年夏にはオランダ・スーパーカップとUEFAスーパーカップというふたつのスーパーカップを制覇し、1995年冬のインターコンチネンタルカップではグレミオFBPAをPK戦の末に破って世界一の座に輝いた。1995-96シーズンにはエールディヴィジ2連覇を果たした。

1997年、ボスマン・ルールを行使してイタリア・セリエAのACミランに移籍した。ユヴェントスとの親善試合で鮮烈なデビュー弾を決めて見せたが、1997-98シーズンはわずか6得点に終わった。1997年、激しい自動車事故を起こし、同乗していた演出家のカートン・パットマンが死亡した。クライファートは起訴され、運転免許の剥奪と社会奉仕活動を課された。

1998年8月28日、移籍市場が閉まる直前にスペイン・リーガ・エスパニョーラのFCバルセロナと4年契約を結んだ。移籍金は875万ポンド。アヤックスで指導を受けたファン・ハール監督と再会し、1998-99シーズンのリーグ戦を制した。1999-2000シーズンにはリーグ戦3連覇を逃したものの、チーム内得点王となる15得点を挙げた。1998-99シーズンからはリバウド、ルイス・フィーゴと3トップを組むことが多く、2001-02シーズンにはリバウド、ハビエル・サビオラと3トップを組むことが多かった。トップ下としてプレーしたこともある。1998-99シーズンから2002-03シーズンまで5シーズン連続でリーグ戦15得点以上を挙げたが、2003年夏にフランク・ライカールト監督が就任して脱オランダ化を図り、パリ・サンジェルマンFCからロナウジーニョが加入したこともあって出場機会が減少した。2003-04シーズンはリーグ戦21試合の出場にとどまり、FCバルセロナ移籍後最少となる8得点に終わった。FCバルセロナでは6シーズンでリーグ戦182試合に出場して90得点を挙げた。2004年3月4日、FIFA100に選出された。

2004年7月21日、イングランド・プレミアリーグのニューカッスル・ユナイテッドFCに移籍し、チームの象徴であるアラン・シアラーとコンビを組んだ。ニューカッスルと契約した理由として、FCバルセロナ時代にUEFAチャンピオンズリーグの試合でニューカッスルと対戦し、その際に強い感情を受けたためだとしている。FAカップでは、2005年2月20日のチェルシーFC戦 (1-0) や3月13日のトッテナム・ホットスパーFC戦 (1-0) などで重要かつ華麗な得点を決め、ともに1-0で勝利している。2004-05シーズンには公式戦通算13得点を挙げたが、リーグ戦では14位に沈み、契約延長には至らなかった。

2005年夏、スペインのバレンシアCFに移籍した。2005-06シーズンは絶えず負傷に悩まされて202分間しか出場できず、2006年7月には移籍先を探すことを許された。

2006年夏には古巣アヤックスへ復帰する噂もあったが、移籍市場終了直前の8月31日にアヤックスのライバルであるPSVアイントホーフェンと1年契約を結んだ。アヤックスの時と同じようにフェイエノールト戦 (2-1) で途中出場してデビューすると、ライバルクラブ出身のクライファートに対してスタンディングオベーションが贈られた。2006-07シーズンは前半戦だけで2度の負傷に悩まされ、出場機会を阻まれた。フィリップス・スタディオンで行われたアヤックス戦では古巣相手に得点したが、古巣に対しての愛情からゴールセレブレーションを拒否した。2007年7月、契約満了によりPSVを離れた。

2007年7月25日、イングランドのシェフィールド・ウェンズデイFCのトライアル受験に誘われたが、これを拒否し、フランス・リーグ・アンのリールと契約を結んだ。若いチームに自身の経験を伝え、先発出場は10試合だったが4得点を挙げ、価値あるアシストを何度も決めてチームに貢献した。2008年5月、クロード・ピュエル監督に対してチームを離れる意向を示し、現役引退を発表した。

代表経歴

代表経歴

1995年にオランダA代表としてデビューし、UEFA EURO 1996出場メンバーにも選ばれたが、膝の負傷で満足にプレーできなかった。それでもグループリーグのイングランド戦ではデニス・ベルカンプのアシストから得点し、スコットランドを得点数の差で上回って決勝トーナメント進出を決めた。準々決勝のフランス戦はPK戦の末に敗れ、大会からの敗退が決まった。

1998 FIFAワールドカップにも出場したが、ベルギー戦ではロレンツォ・スターレンスに挑発され、肘打ちを見舞って退場処分を受けた。準々決勝のアルゼンチン戦では改心し、先制点を挙げて準決勝進出に貢献した。準決勝のブラジル戦でも輝きを見せ、ヘディングで同点ゴールを挙げたが、PK戦で敗れた。

UEFA EURO 2000にも出場し、準々決勝のユーゴスラビア戦 (6-1) ではハットトリックを達成して相手を粉砕した。準決勝のイタリア戦で、オランダ代表は90分の間に2度もペナルティキックを蹴る機会があったが、2本とも外し(1本はクライファート)、PK戦にもつれ込んだ。PK戦でもオランダ代表の選手はなかなかゴールネットを揺らせず、2年前のブラジル戦や4年前のフランス戦と同じくPK戦の末に敗れた。自身は大会通算5得点を挙げ、ユーゴスラビア代表のサボ・ミロシェビッチとともに大会得点王に輝いた。

UEFA EURO 2004にもやはり、背番号9番を付けて臨んだ。しかし、頑固なディック・アドフォカート監督はクライファートに出場機会を与えず、オランダ代表のフィールドプレーヤーとして唯一、試合に出場することがなかった選手であった。UEFA EURO 2004後に就任したマルコ・ファン・バステン監督からは2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選には1試合も招集されなかった。

監督経歴

指導者経歴

2008年4月29日、オランダメディアはクライファートがオランダサッカー協会 (KNVB) の指導者養成コースに参加する可能性があると報じた。2008年7月18日、Goal.comはクライファートがAZアルクマールのコーチングスタッフの一員となる可能性を報じ、2009年3月21日にはサッカーAMのインタビューにてAZアルクマールでフォワードを指導している事を認めた。2010年1月24日、オーストラリア・Aリーグのブリスベン・ロアーFCで2週間限定で指導を行うことを発表した。同年5月19日、現役復帰の可能性があり得ないことをジャーナリストに伝えた。2010年8月、NECナイメヘンのアシスタントコーチに就任し、チームのフォワードを指導した。2011年6月にはFCトゥウェンテのユースチームの監督に就任した。また2012年夏よりオランダ代表のコーチも兼任し2014年まで務めた。

2015年3月5日、母親の故郷であるキュラソー島代表の監督(当初の役職はテクニカル・アドバイザー)に就任した。

キュラソーはクライファートのもとでワールドカップ予選第1ラウンドと第2ラウンドを突破したが、第3ラウンドでエル・サルヴァドルに敗戦して敗退。しかし好成績を残したことでキュラソーのフットボール協会は2016年2月23日にクライファートを正式に代表監督として迎え入れると発表した。

2016年5月6日にアヤックス・アカデミーの監督に2年契約で就任。しかし仕事に入る前に2016年7月にその契約を解除してパリ・サンジェルマンFCのフットボールディレクターに就任することが発表された。

2025年1月8日、申台龍の後任としてインドネシア代表監督に就任。契約期間は2年で延長オプションが付帯する。また、とデニー・ランツァートのオランダ人指導者2名とインドネシア人指導者2名がアシスタントコーチとしてスタッフ入りすることも決定した。2026 FIFAワールドカップ・アジア4次予選ではサウジアラビアとイラク相手に敗れワールドカップ出場を逃した。

個人成績

数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。

代表

オランダ としての年別成績です。親善試合を含みます。

年年齢出場得点得点グラフ
19941710
19951853
19961951
19972052
199821117
19992284
2000231412
20012494
20022563
200326114
20042740
通算7940

年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

監督成績

在任別・通算

英語版 Wikipedia の Managerial statistics の値です(Wikipedia(英語版)、revid 1372336180)。勝率は勝利数÷試合数。当サイトによる補完・推計は行っていません。

在任期間年齢チーム試合勝分敗勝率
2011.07〜2013.0635オランダFCトゥウェンテ462581354.3%
2015.03〜2016.0638キュラソーキュラソー1263350.0%
2021.05〜2021.1044キュラソーキュラソー代表612316.7%
2023.07〜2023.1247トルコアダナ・デミルスポル2096545.0%
2025.01〜2025.1048インドネシアインドネシア代表831437.5%
通算9143202847.3%

所属チーム

ユース

期間年齢チーム
1983〜19846ASVデ・ダイク
1984〜19947オランダアヤックス・アムステルダム

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

クラブ

期間年齢チーム
1994〜199717オランダアヤックス
1997〜199820イタリアミラン
1998〜200421スペインバルセロナ
2004〜200527イングランドニューカッスル・ユナイテッド
2005〜200628スペインバレンシア
2006〜200729オランダPSVアイントホーフェン
2007〜200830フランスリール

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

代表

期間年齢チーム
1990〜199113オランダ U-16
1991〜199214オランダオランダ U-17
199215オランダ U-18
1992〜199415オランダオランダ U-19
1994〜200417オランダオランダ
199619オランダオランダ U-21

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

監督

在任年齢チーム役職
2011〜201234オランダヨング・FCトゥウェンテ監督
2015〜201638キュラソーキュラソー監督
2016〜201639オランダアヤックス・アカデミー監督
2016〜201739フランスパリ・サンジェルマンFC(フットボールディレクター)監督
2021〜202144キュラソーキュラソー(暫定)監督
2023〜202346トルコアダナ・デミルスポル監督
2025〜202548インドネシアインドネシア監督

移籍金・年俸・市場価値の推移

移籍履歴

掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。

時期年齢移籍元移籍先形態移籍金備考
199720オランダアヤックスイタリアミラン移籍—形態・移籍金は未確認
199821イタリアミランスペインバルセロナ移籍—形態・移籍金は未確認
200427スペインバルセロナイギリスニューカッスル・ユナイテッド移籍—形態・移籍金は未確認
200528イギリスニューカッスル・ユナイテッドスペインバレンシア移籍—形態・移籍金は未確認
200629スペインバレンシアオランダPSVアイントホーフェン移籍—形態・移籍金は未確認
200730オランダPSVアイントホーフェンフランスリール移籍—形態・移籍金は未確認

※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。

出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認

人物相関

所属履歴と出場記録から機械的に算出しています。個人の交友関係についての評価は含みません。

指導を受けた監督

本人の在籍期間と監督の在任期間の重なりから算出しています。取得元(API-Football)に在任期間の登録がある監督だけが対象で、古い年代の監督は登録が無いため出ていません。

監督クラブ・代表在任
ルイ・ファン・ハールオランダアヤックス1991年9月〜1997年6月
フース・ヒディンクオランダPSVアイントホーフェン2002年7月〜2006年6月
クラウディオ・ラニエリスペインバレンシア2004年6月〜2005年2月
キケ・サンチェス・フローレススペインバレンシア2005年7月〜2007年10月

タイトル

クラブ

アヤックス(選手)

FCバルセロナ(選手)

PSVアイントホーフェン(選手)

個人

英語の記録名しか確認できないもの(6件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。

本文の一部は、ウィキペディア日本語版「パトリック・クライファート」(版 108427485)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。

出典

  1. Wikidata、2026年10月26日 取得 https://www.wikidata.org/
  2. Wikipedia(日本語版)「パトリック・クライファート」、版 ID 108427485、2026年10月14日 取得 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%88
  3. Wikipedia(英語版)、版 ID 1372336180、2026年10月14日 取得 https://en.wikipedia.org/wiki/Patrick_Kluivert

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