概要
ルート・フリット(Ruud Gullit、1962年9月1日生)は、アムステルダム出身の元サッカー選手。ポジションはMF。オランダでは1981年から通算66試合17得点を記録している。クラブでは公式戦通算575試合219得点(1979-80 シーズン以降)。クラブ・代表で通算21個のタイトルを獲得、個人賞は27回(オンズ・ド・オンズ 3回、バロンドール 2回)。
ルート・フリット(Rudi Dil "Ruud" Gullit、1962年9月1日 - )は、オランダ・アムステルダム出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード、ミッドフィールダー、ディフェンダー。1987年のバロンドール受賞者。
日本のメディアに対してフリットではなくグーリットと呼んで欲しいと本人が強く希望したため、以降は「グーリット」と記すことも増えたが、表記はフリットの方が浸透している。ACミランでプレーし「オランダトリオ」と言われたオランダ人のひとりであった。息子のマキシムもサッカー選手である。
クラブ経歴
クラブ経歴
1979年、HFCハールレムでデビューを飾り、1981-82シーズンにはチームをリーグ第4位、UEFAカップ出場権へと導くなどの活躍から、1982年にフェイエノールトへ移籍、ヨハン・クライフとともにリーグ優勝に貢献する。1985-86シーズンからPSVアイントホーフェンでプレー、8期振りのリーグ制覇に貢献するなど、主にはリベロとしてのプレーながら、2シーズンで46ゴールを決める活躍を見せた。
ユベントスも獲得を試みていたが、1987年当時、ディエゴ・マラドーナに次ぐ推定約12億円の移籍金でイタリアセリエA・ACミランへ移籍した。同年8月23日のコッパ・イタリア、バーリ戦で初出場を果たすと、その試合でゴールを決めた。1987-88シーズンは、リーグ戦デビューの9月13日のピサ戦でセリエA初ゴール、ユベントス、ナポリ、インテル・ミラノといった、優勝を争うチームとの対戦でゴールを決めるなど、久しく優勝から遠ざかっていたミランにリーグ優勝をもたらした。移籍の初年にバロンドールを受賞した。マルコ・ファン・バステンやフランク・ライカールトとともに「オランダトリオ」としてACミランの黄金期を支え、数々のタイトルをもたらした。
1988-89シーズン、チャンピオンズカップ決勝ステアウア・ブカレスト戦では2ゴールを決め、優勝に大きく貢献したが、1989-90シーズンに膝を故障、1989年のトヨタカップを欠場するなど、治療とリハビリに1年間を費やした。以降1992年までに合計5回、膝の手術を強いられ、怪我を抱えながらプレーすることとなる。
スリナム系オランダ人によるオランダ代表(通称:カラフル・イレブン)は1989年6月、スリナムに遠征した際にスリナム航空764便墜落事故に遭遇し、選手18名中15名が死亡した。このカラフル・イレブンにフリットも選出されていたが、所属クラブの意向で辞退した為に命拾いしている。
1990年12月、トヨタカップのオリンピア戦ではクロスでライカールトの先制点をアシストし、3-0での優勝に貢献。1991-92シーズンにファビオ・カペッロが監督に就任するとそれまでのFWではなく、主に右サイドハーフとして起用された。このシーズンは怪我に悩まされ、第26節から31節まで欠場したが、リーグ無敗優勝に貢献した。
1992-93シーズン、10月4日のフィオレンティーナ戦でシーズン初出場を果たすと2ゴール2アシストの活躍、4月10日のミラノダービーではゴールを決めたが、怪我や、外国人枠の問題から、ベンチ外になることもあり、チャンピオンズカップ決勝のオリンピック・マルセイユ戦でもベンチ外となった。常時出場出来ないことへの不満から、シーズン中にはベルルスコーニ会長やフロントに対する不満を公の場でも口にした。契約延長の可能性もあったが、外国籍選手のターンオーバーでの起用を批判したことも要因でミランを去ることとなった。
1993-94シーズン、インテルやJリーグへの移籍も報じられたが、FCバイエルン・ミュンヘンのフランツ・ベッケンバウアーが自ら獲得に乗り出し、メディカルチェックも受けるなど、契約寸前であったが、夫人の強い反対で移籍を取りやめた。またトリノもフランチェスコリ、アギレラとのトリオでのタイトル獲得を目指し獲得を目指していたが、UCサンプドリアにフリーで移籍、エリクソン監督はFWの一角として起用した。8月29日の開幕戦ナポリ戦でゴールを決める好調なスタートを切り、古巣との初対戦ということで大きな注目を集めた10月31日のACミラン戦において、カタネッチの先制点をアシストしただけでなく、ボレーシュートで決勝ゴールを決め3-2で勝利した。リーグ戦では15ゴールを決め、ミランとの優勝争いの末、リーグ優勝は逃したがリーグでは3位、コッパ・イタリアでは準決勝のパルマ戦、第2戦で決勝ゴールを決め、決勝のアンコーナ戦では直接FKから相手のオウンゴールを誘発、更にロンバルドの得点をアシストするなど優勝に貢献した。これらのチームの躍進に貢献し、翌シーズンにミランに返り咲きを果たした。好調であったため、1994年2月頃には既にミランから復帰の打診を受けていた。
1994-95シーズン、復帰したミランでは、カペッロからFWとして起用された。この復帰について長く在籍していたことからもミランからレンタルに出されて、復帰する様な気持ちであったと 話していた。スーペルコッパ・イタリアーナでは古巣サンプドリア戦では同点ゴールを決め、優勝に貢献した。開幕戦のジェノア戦でシモーネの決勝ゴールをアシスト、9月11日、第2節のカリアリ戦でゴール、9月18日、第3節のラツィオ戦では2ゴールを挙げたが、前線で孤立することが多く、以降ノーゴールが続くなど、この復帰は成功せず、シーズン途中にメッリとのトレードでサンプドリアに再び移籍、22試合に出場し9ゴールを決めたが、前年程の活躍は出来なかった。
1995-96シーズン、チェルシーへ移籍、ここでは当初リベロとしてプレーしたが、しばらくするとMFとしてプレーした。9月16日、リーグ第6節のサウサンプトン戦で移籍後初ゴールを決め、FAカップ準決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦ではゴールを決めたが、1-2と敗れタイトルを逃した。シーズン中にはチーム率いていたグレン・ホドル監督がイングランド代表監督に就任すると、その後任として現役のままプレーイングマネージャーに就任、このシーズンは初めてフルシーズンDFとしてプレーしたにも関わらず、PFA年間ベストイレブンに選出された。1996-97シーズン、10月26日、第11節のトッテナム戦でのゴールが、現役最後のゴールとなった。
1997-98シーズン、リーグ戦6試合カップ戦1試合の出場、最後のリーグ戦出場は1998年1月17日エヴァートン戦で16分間プレー、1月28日リーグカップ準決勝アーセナル戦のファースト・レグに出場したのが選手として最後の出場となった。
代表経歴
代表経歴
オランダ代表では、1981年9月1日のスイス戦で代表デビューを飾る。1982年9月22日のアイルランド戦で代表初ゴールを決めた。
1988年、ヨーロッパ選手権ではグループリーグのイングランド戦で2アシストで勝利に貢献、決勝のソビエト戦でゴールを決め、オランダの初のメジャータイトルをもたらした。
1990年、1990 FIFAワールドカップワールドカップには欧州王者として優勝候補の一角に挙げられていたが、チーム内は監督交代など内紛を抱え、膝の故障からようやく回復したばかりで大会への参加も危ぶまれたが、ベーンハッカー監督は存在感の大きさと影響力に期待してワールドカップ本大会メンバーに選出した。予選リーグのアイルランド戦で1ゴールを決めたものの満足なプレーをすることが出来ない中、少しずつ調子を取り戻していた決勝トーナメント1回戦で、この大会を制する西ドイツと対戦。守備の要であったライカールトの退場などもあり、1-2で敗退した。
1992年、EURO1992において準決勝デンマーク戦では1点リードを許す中ライカールトのゴールをアシストしたが、2-2からPK戦の末(6-7)で敗れた。1993年4月28日、ワールドカップ予選、イングランド戦に出場した後は、代表からの引退を表明し、代表から遠のいた。
1994年、所属チームでの好調を受け、多くの代表復帰待望論があり、アメリカW杯を戦う代表メンバーとして召集され、大会直前の1994年5月27日、スコットランド戦で代表復帰を果たしたが 、アドフォカート監督が採用しようとしていたアヤックスと同じシステム下でのプレーを望まなかったこと、フリットにディフェンス面での貢献を求めるキャプテンのロナルド・クーマンとの意見の相違からチーム内で孤立したこともあり、スコットランド戦の翌日にワールドカップのメンバー入りと以降代表でのプレーを拒否(アドフォカートは代わりにジョン・ボスマンを大会メンバーに召集した。)、以降二度と代表でプレーすることは無かった。
監督経歴
指導者経歴
1995-96シーズンからプレーイングマネージャーとなったが、正式な監督1年目となった1996-97シーズンは、ジャンルカ・ヴィアリ、ジャンフランコ・ゾラ、ロベルト・ディ・マッテオなどのトップ選手を加入させ、リーグは6位ながらも27年ぶりにFAカップをチームにもたらした。また、外国人としては史上初のFAカップ優勝監督ともなった。翌1997-98シーズン、チームは好調であったが監督を解任された。
1998-99シーズン開幕直後にニューカッスル・ユナイテッドの監督に就任するが、13位に低迷し、1年で辞任する。
しばらく解説者をした後、2004-05シーズン、フェイエノールトの監督に就任。当時所属していたディルク・カイト、小野伸二らを指導したが、リーグ4位に低迷し、シーズン終了後に辞任した。
2007年11月8日、メジャーリーグサッカーのロサンゼルス・ギャラクシーの監督に就任した。しかし、9ヵ月後の2008年8月に個人的理由により辞任した。
2011年1月、ロシア・プレミアリーグのテレク・グロズヌイの監督に契約期間1年半で就任した。しかし、リーグ戦13試合で3勝しかできず、6月に解任された。
2016年8月、ディック・アドフォカートがオランダ代表の第2アシスタントを突然、退任すると急遽、フリットが後任候補に挙がった。ところがKNVBとの交渉中に契約書に「選手内に変動があった場合に再交渉できる権利」と「良いオファーを受けたら退任できる権利」を盛り込むよう要求したのに、KNVBの ハンス・ファン・ブロイケレン(テクニカル・ディレクター)がアドフォカートの突然の退任の二の舞を避けたがり受け入れなかった上に、さらにFIFAからアプローチを受けた第1アシスタントのマルコ・ファン・バステンがすでに退任を決意していたが、その情報をファン・ブロイケレンは明かさなかった。フリットは直接、ファン・バステン本人からその件を聞いて激怒し、交渉は決裂した。
プレースタイル
選手としての特徴
抜群の身体能力とボール扱いに長けたテクニックを持ち、ストライカーから、右サイドや中央の攻撃的ミッドフィルダー、守備的ミッドフィルダー、そしてディフェンダーまであらゆるポジションを高いレベルでプレーした。
人物像
エピソード
南アフリカの黒人指導者、ネルソン・マンデラと親交があり、1987年のバロンドール受賞時にはトロフィーをマンデラに贈った。フランク・ライカールトとは、少年期にストリートサッカーで競い合った頃からの知り合いであった。
サッカーシューズはイタリアのスポーツメーカーロット社製を使用した。1990年には日本航空の国際線CMに出演した。
個人成績
数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。
クラブ
| クラブ | シーズン | 年齢 | ディビジョン | リーグ | 国内カップ1 | リーグカップ2 | 大陸大会3 | その他4 | シーズン通算 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| ハールレム | 1979-80 | 16 | エールディヴィジ | 24 | 4 | 0 | 0 | — | — | — | — | — | — | 24 | 4 |
| 1980-81 | 17 | エールステ・ディヴィジ | 36 | 14 | 5 | 2 | — | — | — | — | — | — | 41 | 16 | |
| 1981-82 | 18 | エールディヴィジ | 31 | 14 | 4 | 2 | — | — | — | — | — | — | 35 | 16 | |
| 通算 | 91 | 32 | 9 | 4 | — | — | — | — | — | — | 100 | 36 | |||
| 1982-83 | 19 | エールディヴィジ | 33 | 8 | 2 | 1 | — | — | — | — | — | — | 35 | 9 | |
| 1983-84 | 20 | エールディヴィジ | 33 | 15 | 8 | 9 | — | — | 4 | 1 | — | — | 45 | 25 | |
| 1984-85 | 21 | エールディヴィジ | 19 | 7 | 2 | 0 | — | — | 2 | 0 | — | — | 23 | 7 | |
| 通算 | 85 | 30 | 12 | 10 | — | — | 6 | 1 | — | — | 103 | 41 | |||
| 1985-86 | 22 | エールディヴィジ | 34 | 24 | 2 | 3 | — | — | 2 | 0 | — | — | 38 | 27 | |
| 1986-87 | 23 | エールディヴィジ | 34 | 22 | 3 | 4 | — | — | 0 | 0 | — | — | 37 | 26 | |
| 通算 | 68 | 46 | 5 | 7 | — | — | 2 | 0 | — | — | 75 | 53 | |||
| 1987-88 | 24 | セリエA | 29 | 9 | 6 | 3 | — | — | 4 | 1 | — | — | 39 | 13 | |
| 1988-89 | 25 | セリエA | 19 | 5 | 1 | 2 | — | — | 8 | 4 | 0 | 0 | 28 | 11 | |
| 1989-90 | 26 | セリエA | 2 | 0 | 0 | 0 | — | — | 1 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | |
| 1990-91 | 27 | セリエA | 26 | 7 | 1 | 0 | — | — | 4 | 1 | 3 | 1 | 34 | 9 | |
| 1991-92 | 28 | セリエA | 26 | 7 | 1 | 1 | — | — | — | — | — | — | 27 | 8 | |
| 1992-93 | 29 | セリエA | 15 | 7 | 6 | 4 | — | — | 4 | 0 | 1 | 0 | 26 | 11 | |
| 1994-95 | 31 | セリエA | 8 | 3 | 2 | 0 | — | — | 3 | 0 | 1 | 1 | 14 | 4 | |
| 通算 | 125 | 39 | 17 | 10 | — | — | 24 | 6 | 5 | 2 | 171 | 56 | |||
| サンプドリア | 1993-94 | 30 | セリエA | 31 | 15 | 10 | 2 | — | — | — | — | — | — | 41 | 17 |
| 1994-95 | 31 | セリエA | 22 | 9 | — | — | — | — | — | — | — | — | 22 | 9 | |
| 通算 | 53 | 24 | 10 | 2 | — | — | — | — | — | — | 63 | 26 | |||
| 1995-96 | 32 | プレミアリーグ | 31 | 3 | 7 | 3 | 2 | 0 | — | — | — | — | 40 | 6 | |
| 1996-97 | 33 | プレミアリーグ | 11 | 1 | 1 | 0 | 1 | 0 | — | — | — | — | 13 | 1 | |
| 1997-98 | 34 | プレミアリーグ | 6 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10 | 0 | |
| 通算 | 48 | 4 | 8 | 3 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 63 | 7 | |||
| キャリア通算 | 470 | 175 | 61 | 36 | 7 | 0 | 32 | 7 | 5 | 2 | 575 | 219 | |||
1. 国内カップ戦(コパ・デル・レイ、FAカップ、天皇杯など) 2. リーグカップ(EFLカップ、JリーグYBCルヴァンカップなど) 3. 大陸大会(UEFAチャンピオンズリーグ、AFCチャンピオンズリーグなど) 4. 国内スーパーカップ・国際大会・プレーオフなど(UEFAスーパーカップ、FIFAクラブワールドカップ、リーグスカップ等) 年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。
代表
オランダ としての年別成績です。親善試合を含みます。
| 年 | 年齢 | 出場 | 得点 | 得点グラフ |
|---|---|---|---|---|
| 1981 | 18 | 1 | 0 | |
| 1982 | 19 | 5 | 1 | |
| 1983 | 20 | 6 | 4 | |
| 1984 | 21 | 4 | 0 | |
| 1985 | 22 | 4 | 0 | |
| 1986 | 23 | 6 | 1 | |
| 1987 | 24 | 6 | 5 | |
| 1988 | 25 | 8 | 2 | |
| 1989 | 26 | 2 | 0 | |
| 1990 | 27 | 9 | 1 | |
| 1991 | 28 | 4 | 1 | |
| 1992 | 29 | 8 | 2 | |
| 1993 | 30 | 2 | 0 | |
| 1994 | 31 | 1 | 0 | |
| 通算 | 66 | 17 | ||
年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。
監督成績
在任別・通算
英語版 Wikipedia の Managerial statistics の値です(Wikipedia(英語版)、revid 1381117654)。勝率は勝利数÷試合数。当サイトによる補完・推計は行っていません。
| 在任期間 | 年齢 | チーム | 試合 | 勝 | 分 | 敗 | 勝率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| — | — | 83 | 41 | 18 | 24 | 49.4% | |
| — | — | 52 | 18 | 14 | 20 | 34.6% | |
| — | — | 45 | 25 | 7 | 13 | 55.6% | |
| — | — | 19 | 6 | 5 | 8 | 31.6% | |
| — | — | 13 | 3 | 3 | 7 | 23.1% | |
| 通算 | 212 | 93 | 47 | 72 | 43.9% | ||
所属チーム
ユース
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1967〜1975 | 4 | メールボーイズ |
| 1975〜1979 | 12 | AFCドース・ウィルスクラフト・ステルク |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
クラブ
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1979〜1982 | 16 | |
| 1982〜1985 | 19 | |
| 1985〜1987 | 22 | |
| 1987〜1994 | 24 | |
| 1993〜1994 | 30 | |
| 1995 | 32 | |
| 1995〜1998 | 32 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
代表
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1979 | 16 | |
| 1981〜1994 | 18 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
監督
| 在任 | 年齢 | チーム | 役職 |
|---|---|---|---|
| 1996〜1998 | 33 | 監督 | |
| 1998〜1999 | 35 | 監督 | |
| 2004〜2005 | 41 | 監督 | |
| 2007〜2008 | 44 | 監督 | |
| 2011〜2011 | 48 | 監督 |
移籍金・年俸・市場価値の推移
移籍履歴
掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。
| 時期 | 年齢 | 移籍元 | 移籍先 | 形態 | 移籍金 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1979 | 16 | ハールレム | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | |
| 1982 | 19 | ハールレム | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | |
| 1985 | 22 | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | ||
| 1987 | 24 | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | ||
| 1993 | 30 | サンプドリア | 期限付き移籍 | — | 期間・移籍金は未確認 | |
| 1995 | 32 | サンプドリア | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | |
| 1995 | 32 | サンプドリア | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 |
※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。
出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認
人物相関
所属履歴と出場記録から機械的に算出しています。個人の交友関係についての評価は含みません。
指導を受けた監督
本人の在籍期間と監督の在任期間の重なりから算出しています。取得元(API-Football)に在任期間の登録がある監督だけが対象で、古い年代の監督は登録が無いため出ていません。
| 監督 | クラブ・代表 | 在任 |
|---|---|---|
| フース・ヒディンク | 1987年3月〜1990年6月 |
タイトル
クラブ
HFCハーレム(選手)
- エールステ・ディヴィジ:1回(1980-81)
フェイエノールト(選手)
- エールディヴィジ:1回(1983-84)
- KNVBカップ:1回(1983-84)
PSVアイントホーフェン(選手)
- エールディヴィジ:2回(1985-86, 1986-87)
ACミラン(選手)
- セリエA:3回(1987-88, 1991-92, 1992-93)
- スーペルコッパ・イタリアーナ:2回(1992, 1994)
- 欧州チャンピオンズカップ:2回(1988-89, 1989-90)
- UEFAスーパーカップ:2回(1989, 1990)
- インターコンチネンタルカップ:2回(1989, 1990)
UCサンプドリア(選手)
- コッパ・イタリア:1回(1993-94)
チェルシー(選手)
- FAカップ:1回(1996-97)
オランダ代表(選手)
- UEFA欧州選手権:1回(1988)
チェルシー(監督)
- FAカップ:1回(1996-97)
ニューカッスル(監督)
- FAカップ準優勝:1回(1998-99)
個人
- バロンドール:2回(1987, 1988)
- オンズ・ド・オンズ:3回(1987, 1988, 1989)
- オンズ・ダルジャン:2回(1988, 1989)
- UEFA欧州選手権 大会ベストイレブン:2回(1988, 1992)
- FIFA 100(偉大な選手100人)
- ゴールデンフット賞:1回(2011)
- IFFHSレジェンド
- イタリアサッカー殿堂:1回(2017)
英語の記録名しか確認できないもの(12件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。
獲得メダル
代表チームで獲得したメダルです(金1・銅1)。当サイトの大会結果データとも照合し、食い違いがあれば掲載しません。
| UEFA欧州選手権 | 金 1988 ドイツ銅 1992 スウェーデン |
|---|
出典は英語版 Wikipedia の「メダル獲得記録(Medal record)」節(記事名・版 ID・取得日は「出典」節に記載)。W杯は当サイトの大会結果データでも一致を確認しています。
本文の一部は、ウィキペディア日本語版「ルート・フリット」(版 110592785)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。
出典
- RSSSF、2026年9月13日 取得 https://rsssf.org/miscellaneous/onze-awards.html
- Wikidata、2026年10月25日 取得 https://www.wikidata.org/
- Wikipedia(日本語版)「ルート・フリット」、版 ID 110592785、2026年10月14日 取得 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88
- Wikipedia(英語版)、版 ID 1381117654、2026年10月21日 取得 https://en.wikipedia.org/wiki/Ruud_Gullit
※ 出典は媒体名・日付・URL を文字で記載しています(外部サイトへのリンクは行いません)。出典が確認できない数値はページに載せません。
関連項目
- ハールレム
- フェイエノールト
- PSVアイントホーフェン
- ミラン
- サンプドリア
- チェルシー
- チェルシー(選手兼任)
- ニューカッスル
- ロサンゼルス・ギャラクシー
- テレク・グロズヌイ
- オランダ
- オランダ U-21
- エールステ・ディヴィジ
- エールディヴィジ
- KNVBカップ
- セリエA
- スーペルコッパ・イタリアーナ
- 欧州チャンピオンズカップ
- UEFAスーパーカップ
- インターコンチネンタルカップ
掲載写真は Wikidata API および Wikimedia Commons API を通じて、ライセンス(CC BY-SA / パブリックドメイン等)と作者表示の要件を確認したうえで掲載します。