小野伸二

SOCCERPEDIA / 選手ページ / 日本のサッカー選手 / 最終更新:2026年9月1日


概要

日本小野伸二(Shinji Ono、1979年9月27日生)は、沼津市出身の元サッカー選手。ポジションはMF。日本では1998年から通算56試合6得点を記録している。クラブでは公式戦通算605試合91得点(1998 シーズン以降)。クラブ・代表で通算10個のタイトルを獲得、個人賞は7回。

小野 伸二(おの しんじ、1979年9月27日 - )は、静岡県沼津市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー(MF)。元日本代表。

FIFAワールドユース準優勝、FIFAコンフェデレーションズカップ2001準優勝、日韓ワールドカップGL1位通過、UEFAカップ優勝、アジア年間最優秀選手賞を受賞。FIFA世界大会、UEFAクラブ国際大会のすべてに出場した唯一の日本人選手。

クラブ経歴

プロ入り前

小学生時代から「天才」と呼ばれ地元の沼津では名前を知られていた。10人兄弟の内で6番目の子で、貧しい母子家庭で育ち、小学生時代はサッカー少年団にも入っていなかったが、小野が一人でサッカーをしているのを見た少年団の監督から「お金(月会費等)はいらないからぜひ入ってくれ」と勧誘され、小学3年生のころに入団した。その後、12歳でナショナルトレーニングセンター(ナショナルトレセン)に参加。既にこの頃、同世代で突出したサッカーセンスを持ち、同トレセンに参加していた稲本潤一は「ごっつい(すごい)奴が居る」と小野のプレーセンスに舌を巻いていた。1992年1月(1991年度)に開催された「バーモントカップ第1回全日本少年フットサル大会」(現在のJFAバーモントカップ 全日本U-12フットサル選手権大会)では沼津FCの一員として参加、決勝で木暮賢一郎のいる読売サッカークラブジュニアユースに敗れたものの、準優勝、かつ本人も優秀選手に選ばれた。これが小野にとって初めての全国大会出場で、サッカー関係者の間では彼の才能が広く知られるようになった。

地元の公立中学校に進学した後、1993年に13歳でU-16日本代表に初選出され、以降も各年代の代表チームの中心選手として活躍した。1994年には第6回U-16アジアユース選手権で優勝し、1995年にはFIFA U-17世界選手権大会に出場している。

高校では沼津と同じ静岡県内の清水商業高校に入学し、同級生には平川忠亮、池端陽介などがいた。1年後輩には池田学がいる。チームの中心としてプレーしていたが全国高等学校サッカー選手権大会には静岡県予選で敗退し本大会出場を一度も果たせなかった。高校3年時1997年の全日本ユース選手権では準優勝、インターハイベスト16、他校の選手と合同チームを組んだ国民体育大会では静岡県選抜・少年男子の部で2年連続となる優勝をはたした。卒業に際してはJリーグの13クラブからオファーを受け、浦和レッズに加入し、背番号は28を与えられた。

浦和レッズ

1998年にはアジアユース選手権で準優勝し、自身もMVPを獲得した。韓国とのワールドカップ共催記念試合で岡田武史監督に抜擢され、18歳でフル代表初出場を果たした。その後フランスW杯の日本代表に選出され、第3戦のジャマイカ戦で途中交代から15分間出場した。この試合ではファーストタッチで相手選手を股抜きでかわすなど好プレーを連発した。18歳と272日でのワールドカップ出場は日本代表史上最年少 であり、今日まで破られていない。

浦和ではデビュー2戦目の横浜フリューゲルス戦でプロ初得点を挙げた。このシーズンは合計9得点を挙げ新人王とJリーグベストイレブンを受賞した。

1999年は浦和での背番号を8に変更した。ナイジェリアで開催されたFIFAワールドユースでは、決勝のスペイン戦は累積警告で出場停止となったものの、キャプテンとして準優勝に貢献し、ベストイレブンにも選出された。7月5日に行われたシドニーオリンピックのアジア地区一次予選、対フィリピン戦において、相手ディフェンスに後方からのタックルを受け、左膝靭帯断裂の重傷を負った。この怪我により長期離脱を余儀なくされ、リーグ戦の半分以上を欠場した。リハビリを経て復帰したが、この怪我に由来する慢性的な痛みや故障の頻発を抱えるようになり、日本代表に定着できない時期が続いた。浦和も成績が低迷し、J2に降格した。

2000年はコンディション不良が続きシドニーオリンピックの本大会メンバーには選出されなかったが、アジアカップレバノン大会の日本代表に選出された。クラブのJ2降格に伴い清水エスパルスを始め他チームから獲得オファーがあったが、チームへの残留を決断しクラブ史上最年少のキャプテンとしてチームを牽引し最終節でJ1昇格を果たした。

2001年には日本で開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2001において日本代表のレギュラーとして準優勝に貢献した。J1の1stステージ終了後にオランダリーグの強豪クラブであるフェイエノールトへの移籍が決定した。

フェイエノールト

フェイエノールトでは背番号14を与えられた(小野が以前日本ユース代表で14番を付けていたことがあるのがこの番号を選んだ理由)。2001-02シーズンに加入するとすぐにスターティングメンバーに定着し、5月にはUEFAカップ準決勝でインテル相手にアウェイで1‐0と先勝、ホームでも2‐2と勝ち上がり、決勝ではACミランを大差で破り勝ち上がってきたボルシア・ドルトムントを破り優勝、プロ入り後初となる所属クラブでのビッグタイトル獲得となった。6月には日韓ワールドカップでの日本代表に選出された。直前に虫垂炎を発症したが、手術までは行かずに復帰。全4試合に出場し、ベルギー戦では鈴木隆行にロングパスでアシストを決めた。

フェイエノールト移籍後はベルト・ファン・マルワイク監督により中盤でゲームを組み立てる役割を与えられ、主に守備的MFでプレーした。

2002-03シーズンの8月に行われた2002-03UEFAチャンピオンズリーグ予備予選で、トルコのフェネルバフチェと対戦し、ホームとアウェイそれぞれで決勝ゴールを奪い、チームを本選へ導いた。新たに日本代表監督に就任したジーコにも招集され初戦でもゴールを決めた。これらの活躍が評価され、2003年にはアジアサッカー連盟(AFC)から2002年度の年間最優秀選手賞を贈られている。

2003-04シーズンは左足首骨挫傷など負傷欠場が多く、クラブもタイトルを獲得できなかった。日本代表でもコンフェデレーションズカップや親善試合を怪我で辞退している。2003年11月のアヤックス戦では、味方であるロビン・ファン・ペルシーのシュートが腹に当たり、その場でうずくまって失神し、救急搬送される珍事の被害者となった(病院での検査結果に異常はなかった)。

2004年も前年からの怪我の影響もあったが復帰後すぐに日本代表に招集されW杯3次予選突破に貢献した。欧州遠征にも参加し、イングランド戦ではボランチとして出場し、アウェイにおけるベストメンバーのイングランドを相手にゴールを決めるなど活躍した。アテネオリンピックにはオーバーエイジとして出場し、1次リーグ3試合でPKによる2得点をあげたが、決勝トーナメント進出はならなかった。

2004-05シーズンはルート・フリットの下でフェイエノールト在籍4年目を迎えた。日本代表やアテネでの過密日程の影響もあり、負傷が多いシーズンになった。このシーズンはフェイエノールト在籍期間中で最も多い7ゴールを挙げた。

2005-06シーズンは2005年W杯最終予選バーレーン戦前の練習中に疲労骨折し、更に以前の怪我の再手術もありシーズンを棒に振った。コンフェデレーションズカップも欠場した。

フェイエノールト在籍5年で欧州サッカー連盟主催の国際大会に7回出場。これは2017年に香川真司に更新されるまで日本人最多であった。

浦和レッズ復帰

2006年1月13日に浦和への復帰が決定し、1月26日に正式契約を結んだ。背番号は18を与えられた。6月に3大会連続となるドイツW杯日本代表メンバーに選出され、初戦のオーストラリア戦で交代出場を果たしたが、交代直後に3失点し逆転負けを喫した。この大会での出場はこの試合のみに終わった。12月に天皇杯準々決勝のジュビロ磐田戦で途中出場し、一時は逆転となる2得点を決め、続く準決勝の鹿島アントラーズ戦では先発出場し先制得点を挙げ、ロブソン・ポンテとのワンツーから決勝点もアシストする活躍で天皇杯優勝に貢献した。リーグ戦では怪我の影響、守備を重視するギド・ブッフバルト監督の戦術により、レギュラーとして出場できない試合もあった。

2007年は三都主アレサンドロがオーストリアのレッドブル・ザルツブルクに移籍したため背番号を8に変更した。6月30日の磐田戦における直接フリーキックとループシュートによる2得点など天才的なプレーを見せることも多かったが、ブッフバルトに引き続き守備的戦術を採用したホルガー・オジェック監督の方針のため途中出場することもあった。

ボーフム

2008年1月に浦和からドイツブンデスリーガのVfLボーフムに移籍した。2007-08シーズンのデビュー戦となったヴェルダー・ブレーメン戦では途中出場ながら2アシストを決め勝利に貢献した。怪我の影響もあり先発機会は少なく、途中出場が多くなった。

2008-09シーズンはキリンチャレンジカップのウルグアイ戦に2年2ヶ月ぶりとなる代表復帰を果たした。ペナルティーエリア内に走り込む中村憲剛に、得意のダイレクトスルーパスを通し先制点の起点になるが試合は敗戦した。この試合後監督の岡田は一部の選手に見切りが付いたという趣旨の発言を残し、これ以降小野は代表に招集されなかった。ボーフムでは、9月に監督が交代後からスタメンでの出場が増え、ボランチやトップ下でプレーし、ハンブルガーSVに勝利するなど低迷するチームの浮上に貢献した。好調を維持していたが、シーズン中に移籍することになる。なお、その後ボーフムは2部に降格している。

清水エスパルス

高校時代から獲得の意思が強かった清水エスパルスからのオファーを受けて2010年1月に移籍を決めた。背番号は当時自身の年齢であった30番を選択した。ベテランとしてチームをまとめ、インサイドハーフのポジションを確保したが、W杯のメンバーには選ばれず、連続出場記録は3で止まった。優勝は逃したが、リーグを首位で折り返し、天皇杯も決勝に勝ち進む活躍を見せた。

2010年J1第30節の湘南戦の得点は、ゴール破損による中断のため、前半のアディショナルタイムが10分以上あり、ゴール時間が45+13分という珍記録となる。

ウェスタン・シドニー・ワンダラーズFC

2012年9月28日、オーストラリア・Aリーグのウェスタン・シドニー・ワンダラーズFCに移籍。アレッサンドロ・デル・ピエロ、エミール・ヘスキーらと共にAリーグにおいて高い注目を集められた。1年目は26試合で8ゴールを挙げ、チームリーグ参入初年度でのレギュラーシーズン優勝に貢献した。また、ファイナルシリーズ準決勝のブリスベン・ロアー戦で決めたループシュートは相手チームの監督やフェイエノールトで共にプレーしたピエール・ファン・ホーイドンクがツイッターで小野のゴールを絶賛している。また、シドニーFCとので合計2得点を挙げている。 ユニフォームの選手ロゴは「SHINJI」。

1年目の活躍で、Aリーグベストイレブンと日本総領事館の在外公館長表彰を受彰。2年目はJリーグ王者のサンフレッチェ広島を破り、ACLベスト8進出に貢献。チームからシーズンMVP、パラマタ市から名誉市民賞を受賞した。

北海道コンサドーレ札幌

2014年1月16日、J2のコンサドーレ札幌と仮契約、6月から加入予定であることが発表された。同年6月8日に北海道入りした際には、新千歳空港で200人のファンと40人の報道陣に迎えられ、翌9日にさっぽろテレビ塔下で加入会見を行った。2014年シーズンは、怪我の影響もあり7試合のみの出場でとどまった。2015年シーズンも怪我で出遅れたが、10月5日に行われた東京ヴェルディ戦で札幌移籍後初ゴールを挙げた。

2017年4月2日、第5節のヴァンフォーレ甲府戦では途中出場からJ1に1709日ぶりに出場した。

FC琉球OKINAWA

2019年8月5日、J2のFC琉球に完全移籍することが発表された。8月10日の対浦和戦まで札幌の選手として在籍し、翌11日に琉球への入団会見を行った。背番号は「7」。

2020年シーズンは足の怪我で、先発出場は1試合に留まり、12月25日に退団が発表された。

北海道コンサドーレ札幌復帰

2021年1月1日、古巣である北海道コンサドーレ札幌へ完全移籍で復帰することが発表された。背番号は、前回札幌に所属していた時と同じ「44」。

同年6月9日の天皇杯2回戦のソニー仙台で自身公式戦4年ぶりとなるゴールを直接フリーキックで決めた。この得点は天皇杯での最年長ゴール記録(41歳255日)となった。

2022年1月28日、北海道コンサドーレ札幌と生涯契約を結んだ事が発表。小野は「北海道は第2の故郷と思っている。この先、どういう形で現役を辞めるか分からないが、その後も僕の経験を伝えながらクラブにいい還元ができたらと思った」とコメントしている。また、北海道コンサドーレ札幌代表取締役GMの三上大勝は「指導者なのかフロントに入るのかは、本人に決めてもらう」と、小野の希望を優先させる意向を示した。

2023年9月27日、背番号と同じ44歳の誕生日を迎えた日に、自身のインスタグラムにて、北海道コンサドーレ札幌公式サイトより先に「皆さまに、ご報告があります。サッカーと出会い39年間もの間、僕の相棒として戦ってくれた“足”がそろそろ休ませてくれと言うので、今シーズンを最後に、プロサッカー選手としての歩みを止めることを決めました。まだシーズン残り数試合ありますが、僕も試合に少しでも関われるように変わらず良い準備をしていきます。最後まで応援よろしくお願いします。小野伸二」と述べ、2023シーズンをもって現役引退することを発表した。12月3日、第34節浦和レッズ戦に先発出場した。前半22分にスパチョークと交代。交代時には、両チームの選手が歩み寄り、場内からスタンディングオベーションが送られた。試合後のセレモニーでは「毎日楽しくサッカーをさせてもらったことは宝物。これからも日本サッカーに携わりたい」とあいさつ。場内を一周し、札幌・浦和の双方のサポーターから大きな歓声を浴びた。

引退後

2024年1月14日、北海道コンサドーレ札幌のアンバサダー、役職名「O.N.O(One Hokkaido Nexus Organizer)」に就任したことが発表された。

代表経歴

代表での出場記録とメダルから組み立てた説明です。

1998年に日本での出場記録が始まり、2008年までに通算56試合6得点を記録した。

代表で獲得したメダルはAFCアジアカップ金(2000 レバノン)、FIFAコンフェデレーションズカップ銀(2001 日韓)。

プレースタイル

プレースタイル

中盤の攻撃的な位置から攻撃を組み立てるゲームメーカー・チャンスメーカー。また、ボールコントロールの正確さから、「ボールと会話できる選手」と呼ばれる。両足ともに精度が高く繊細なボールタッチを持ち、主にダイレクトプレーでテンポよくゲームをコントロールする。受け手に優しく柔らかいパスは、海外移籍前の日本では「エンジェルパス」、移籍後のオランダでは「ベルベット・パス」と称され、多くのアシストを記録している。また、FWではないもののシュート技術にも秀でており、小学校時代以来GKとの一対一の場面やPKでシュートを外したことがないと言われている。

かつては中盤の激しいプレスを求められる現代サッカーにおいて、目立った運動量や献身的な動きが少ないことが最大のネックとされていた。そのため持久力が無いと思われがちだが、2010年から所属する清水エスパルスや過去の代表合宿でのインターバル走では常にトップ3以内にいる。実際にはオランダでのディフェンシブハーフ起用、代表でのサイド起用など、運動量や守備の負担が大きい位置での方が好成績を残している。清水エスパルス移籍後は運動量や守備にも磨きがかかり、更に攻守で貢献するようになった。

個人成績

数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。

クラブ

クラブシーズン年齢ディビジョンリーグ国内カップ1リーグカップ2大陸大会3その他4シーズン通算
出場得点出場得点出場得点出場得点出場得点出場得点
日本浦和レッズ199818Jリーグ*2792000————299
199919J1リーグ1422000————162
200020J2リーグ*24721——————268
2001212001年J1リーグ*1420043————185
通算79206143————8924
オランダフェイエノールト2001-0221エールディヴィジ30321——122——446
2002-0322エールディヴィジ29720——5032399
2003-0423エールディヴィジ24210——40——292
2004-0524エールディヴィジ25720——71——348
2005-0625エールディヴィジ4000——10——50
通算1121971——2913215123
日本浦和レッズ200626J1リーグ2854311——10349
200727J1リーグ25300218220376
通算538433282307115
ボーフム2007-0827ブンデスリーガ120————————120
2008-0928ブンデスリーガ8020——————100
2009-1029ブンデスリーガ9010——————100
通算29030——————320
日本清水エスパルス201030J1リーグ3025161————414
201131J1リーグ2662121————308
201232J1リーグ1400000————140
通算7087282————8512
ウェスタン・シドニー2012-1332Aリーグ*247——————21268
2013-1433Aリーグ*232————6120313
通算479————61415711
日本北海道コンサドーレ札幌201434J2リーグ7000——————70
201535J2リーグ17220——————192
201636J2リーグ15020——————170
201737J1リーグ1601071————241
201838J1リーグ702030————120
201939J1リーグ000020————20
通算62270121————813
FC琉球201939J2リーグ9000——————90
202040J2リーグ14000——————140
通算23000000000230
日本北海道コンサドーレ札幌202141J1リーグ402150————111
202242J1リーグ101000————20
202343J1リーグ102000————30
通算605150————161
キャリア通算4816639832843610360591

1. 国内カップ戦(コパ・デル・レイ、FAカップ、天皇杯など) 2. リーグカップ(EFLカップ、JリーグYBCルヴァンカップなど) 3. 大陸大会(UEFAチャンピオンズリーグ、AFCチャンピオンズリーグなど) 4. 国内スーパーカップ・国際大会・プレーオフなど(UEFAスーパーカップ、FIFAクラブワールドカップ、リーグスカップ等) 年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

代表

日本 としての年別成績です。親善試合を含みます。

年年齢出場得点得点グラフ
19981830
19991900
200020121
20012191
20022281
20032350
20042472
20052520
20062691
20072700
20082810
通算566

年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

所属チーム

ユース

期間年齢チーム
1986〜19916日本今沢サッカースポーツ少年団(沼津市立今沢小学校)
1992〜199412日本沼津市立今沢中学校
1995〜199715日本静岡市立清水商業高等学校

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

クラブ

期間年齢チーム
1998〜200118日本浦和レッズ
2001〜200521オランダフェイエノールト
2006〜200726日本浦和レッズ
2008〜200928ドイツボーフム
2010〜201230日本清水エスパルス
2012〜201432オーストラリアウェスタン・シドニー
2014〜201934日本北海道コンサドーレ札幌
2019〜202039日本FC琉球
2021〜202341日本北海道コンサドーレ札幌

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

代表

期間年齢チーム
199515日本日本 U-17
1998〜200818日本日本
199919日本日本 U-20
200424日本日本・オリンピック

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

移籍金・年俸・市場価値の推移

移籍履歴

掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。

時期年齢移籍元移籍先形態移籍金備考
199515沼津市立今沢中学校静岡市立清水商業高等学校移籍—下部組織への移籍
形態・移籍金は未確認
199818静岡市立清水商業高等学校日本浦和レッズ移籍—形態・移籍金は未確認
200121日本浦和レッズオランダフェイエノールト移籍—形態・移籍金は未確認
200626オランダフェイエノールト日本浦和レッズ移籍—形態・移籍金は未確認
200828日本浦和レッズボーフム移籍—形態・移籍金は未確認
201030ボーフム日本清水エスパルス移籍—形態・移籍金は未確認
201232日本清水エスパルスウェスタン・シドニー移籍—形態・移籍金は未確認
201434ウェスタン・シドニー日本北海道コンサドーレ札幌移籍—形態・移籍金は未確認
201939日本北海道コンサドーレ札幌FC琉球移籍—形態・移籍金は未確認
202141FC琉球日本北海道コンサドーレ札幌移籍—形態・移籍金は未確認

※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。

出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認

人物相関

所属履歴と出場記録から機械的に算出しています。個人の交友関係についての評価は含みません。

指導を受けた監督

本人の在籍期間と監督の在任期間の重なりから算出しています。取得元(API-Football)に在任期間の登録がある監督だけが対象で、古い年代の監督は登録が無いため出ていません。

監督クラブ・代表在任
田坂和昭日本清水エスパルス2006〜2010
木山隆之日本清水エスパルス2011年1月〜2011年1月
四方田修平日本北海道コンサドーレ札幌2015年7月〜2017年12月

日本語名を確認できない監督 1 人は掲載していません。

タイトル

クラブ

フェイエノールト

浦和レッズ

個人

英語の記録名しか確認できないもの(10件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。

獲得メダル

代表チームで獲得したメダルです(金1・銀1)。当サイトの大会結果データとも照合し、食い違いがあれば掲載しません。

AFCアジアカップ金 2000 レバノン
FIFAコンフェデレーションズカップ銀 2001 日韓

出典は英語版 Wikipedia の「メダル獲得記録(Medal record)」節(記事名・版 ID・取得日は「出典」節に記載)。W杯は当サイトの大会結果データでも一致を確認しています。

本文の一部は、ウィキペディア日本語版「小野伸二」(版 110839758)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。

出典

  1. Wikidata、2026年10月25日 取得 https://www.wikidata.org/
  2. Wikipedia(日本語版)「小野伸二」、版 ID 110839758、2026年10月14日 取得 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E4%BC%B8%E4%BA%8C
  3. Wikipedia(英語版)、版 ID 1364143128、2026年10月14日 取得 https://en.wikipedia.org/wiki/Shinji_Ono

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