中山雅史

SOCCERPEDIA / 選手・監督ページ / 日本のサッカー選手 / 最終更新:2026年9月1日


概要

日本中山雅史(Masashi Nakayama、1967年9月23日生)は、日本出身の元サッカー選手。ポジションはFW(フォワード)。日本では1990年から通算53試合21得点を記録している。クラブでは公式戦通算539試合247得点(1990-91 シーズン以降)。個人賞は11回(Jリーグ ベストイレブン 4回)。

中山 雅史(なかやま まさし、1967年9月23日 - )は、静岡県志太郡岡部町(現:藤枝市)出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード(センターフォワード)。

日本プロサッカー選手会名誉会長。愛称の「ゴン」「ゴン中山」 は元サッカー選手の鋤柄昌宏がつけた。これは大学時代、当時の先輩に「オレたちひょうきん族に登場したビートたけし扮する鬼瓦権造に顔が似ている」と言われたことから。ほかに、中山隊長、隊長の愛称がある。1996年から1998年までジュビロ磐田でキャプテンを務めた。

日本代表として1998 FIFAワールドカップ、2002 FIFAワールドカップにも出場。1998年のFIFAワールドカップ本大会で日本代表のW杯初ゴールを決めている。Jリーグ(J1)最優秀選手賞(1回)、得点王(2回)、ベストイレブン(4回)を受賞した経験を持ち、Jリーグシーズン最多得点、J1での最年長記録、W杯本大会日本代表初ゴールなどの個人記録なども持つ。さらに国際試合における最短ハットトリックのギネス世界記録保持者でもある。なお、2016年3月に佐藤寿人に抜かれるまで通算J1最多得点(157得点)記録保持者であり、同年11月にステファン・ルチヤニッチに抜かれるまでハットトリック連続世界記録保持者(4試合連続)であった。

妻は女優・タレントの生田智子で、2004年に誕生した長女がいる。実父の中山儀助は元岡部町町議会議員。

クラブ経歴

学生時代

静岡県立藤枝東高等学校ではエースストライカーとして活躍した。高校2年次の1984年は全国高校サッカー選手権静岡県予選を勝ち進み、当時台頭していた東海大学第一高等学校と決勝戦で対戦。絶対的劣勢が予想される中、カウンターから中山のゴールで先制すると3-1で勝利し、第63回全国高校サッカー選手権大会の切符を手にした。本大会では準決勝まで駒を進めたが、長崎県立島原商業高等学校との対戦でPKの末に敗れた。しかし4試合で1失点もせず、中山も4試合で2ゴールを挙げ、得点源として活躍した。

1986年、筑波大学体育専門学群に入学し蹴球部に入部。井原正巳とは同期 でセンターバックでコンビを組んでいた。二人はユース代表でもセンターバックを務めた。当初は静岡県選抜でも経験のあったディフェンダーを務めたが、後に先輩である長谷川健太らの助言で本来のセンターフォワードに戻った。

ヤマハ、1994年ジュビロ磐田とJリーグへ

1990年、ヤマハ発動機に入社し、サッカー部(後のジュビロ磐田)に入部。当時のヤマハは完全プロ化への移行は成されていなかったため、サラリーマン生活も経験した。同年の第1回ダイナスティカップ北朝鮮戦で日本代表デビュー。翌年、ヤマハ発動機サッカー部がJリーグ開幕10チームから落選することが決定すると、Jリーグ参戦が決まった新規クラブの清水エスパルスからオファーを受けるが固辞しヤマハに残留した。

1993年秋の1994 FIFAワールドカップ・アジア予選での熱いプレーや活躍、また陽気なキャラクター(ニッポン放送のサッカー番組で彼のレポートコーナーが常設されていた)が話題となり、一躍全国区の人気者となる。またこの年、ジュビロ磐田はJFL1部で2位となり、1年遅れながら悲願だったJリーグ昇格を果たした。

1994年、ジュビロ磐田のJ1昇格により中山はJリーグデビューを果たし、3月19日の第3節ヴェルディ川崎戦でJリーグ初ゴールを決めるなど 開幕当初は試合に出場したが、前年までの代表及びクラブでのフル稼働が原因で、恥骨結合炎及びスポーツヘルニア が悪化し、4月末に戦線から離脱。当時の日本のスポーツ医学の立ち遅れで、同様の故障で引退に追い込まれる選手もいたが、同様の症状に苦しんだ経験のある菊原志郎や福田正博に助言を受け、専門医のいるドイツで手術を受ける。以後リハビリが続き、8か月もの間ピッチを離れシーズンを棒に振った。

1995年に怪我から復帰し、開幕から好調なスタートを切った。前年にジュビロへ入団した元イタリア代表サルヴァトーレ・スキラッチとのコンビは、当時Jリーグ最強の2トップと言われた。

1997年は、ドゥンガや山本昌邦らとのトレーニングにより、「オフ・ザ・ボールの動きの質」に開眼。第2ステージ、9月20日のヴェルディ川崎戦では自身Jリーグにおいては自身初となるハットトリックも記録するなど、結果を出してステージ優勝に貢献。鹿島アントラーズとのチャンピオンシップでも3ゴールを挙げてMVPとなる活躍を見せ、磐田のリーグ初制覇に貢献した。

ワールドカップ出場、磐田の黄金期を築く

1998年のリーグ戦では4月15日の対セレッソ大阪戦(長居陸上競技場)での5得点 を皮切りに、4月18日の対サンフレッチェ広島戦(ジュビロ磐田スタジアム)で4得点、4月25日の対アビスパ福岡戦(熊本市水前寺競技場)で4得点、4月29日の対コンサドーレ札幌戦(ジュビロ磐田スタジアム)で3得点と4試合連続のハットトリックを記録し、ギネスブックに掲載された。この荒稼ぎで第1ステージ制覇に貢献。ワールドカップでの骨折のためナビスコカップの優勝はピッチで味わえなかったものの、後半戦も1試合1点のペースで得点しつづけ、シーズン合計では27試合出場で36得点を記録した。これは2024年現在もリーグ戦における最多得点記録となっている。この年は得点王、MVP獲得など個人タイトルを総なめにした。しかしチャンピオンシップでは前年の雪辱を期する鹿島に敗れ、リーグ優勝を逃す。

1999年にJリーグ選手協会副会長に就任。コパ・アメリカに招待された日本代表にも招集されるが、アルゼンチン合宿中に右眼窩底骨折で帰国し、手術。失明寸前の重傷で復帰まで1年近くはかかる、という医師の制止を振り切って2ヵ月で復帰した。それ以外にも手の骨折など怪我に苦しみ満身創痍ながらも、清水エスパルスとのチャンピオンシップでは2ゴールを挙げ制覇に貢献。なお第1戦のPKによるVゴールは、彼のプロ生活初のVゴールであった。

2000年前期は故障もあって思うような活躍ができず、代表からも外され不本意な時期が続く。しかし、夏以降は本来の実力を発揮しJ通算100ゴールを達成、11月23日のサンフレッチェ広島戦で自身通算7回目となるハットトリックを記録するなど、シーズン通算でも20得点を記録しJリーグ史上初の2回目の得点王を獲得する。なお、2月16日に行われたアジアカップ予選の対ブルネイ戦において、試合開始3分15秒でハットトリックを記録し、国際試合における最短ハットトリックとしてギネスブックに掲載された。

2001年に井原正巳に代わりJリーグ選手協会会長に就任。前年からの好調を続け代表にも復帰。クラブは第1ステージを圧勝し、第2ステージも2位と年間を通して強さを発揮するが、チャンピオンシップで鹿島に敗れ年間優勝を逃す。更にナビスコカップ決勝でも横浜F・マリノスにPK戦の末に敗れるなど、無冠に終わる。

2002年、W杯からのリーグ再開後にはゴールを量産し、得点王となったチームメイトの高原直泰に次ぎ、日本人としては2位となる16ゴールを上げ、磐田の両ステージ制覇によるリーグ完全優勝に貢献、ベストイレブンにも選出された。

2003年5月に10年前の恥骨結合炎が再発し、戦線離脱。半年のリハビリの末、終盤戦に復帰。復帰初戦となった東京ヴェルディ1969戦では、試合中にもかかわらず中山がユニホーム姿になると場内が騒然とした。相手DF米山篤志は「あれは異様な雰囲気だった」とコメントするほどだった。試合後、監督の柳下正明は「当初はこの試合では(中山を)起用しないつもりだった」としたうえで「エリア内では仕事をするのでそこに賭けた」とコメント。事実、投入直後のコーナーキックで磐田は同点に追いつき、その勢いのまま逆転勝利を収めている。しかしながら、最終節の横浜F・マリノス戦に敗れたことによりリーグ戦の優勝は逃す。しかし天皇杯ではスーパーサブとして、ヤマハ発動機時代以来の優勝に貢献した。

2005年5月1日の柏レイソル戦(柏の葉公園総合競技場)での前半2分、自らが倒されて得たPKを決め、Jリーグ史上初の個人150ゴールを達成する。9月24日の柏戦(ヤマハスタジアム)では、Jリーグ15人目(フォワードとしては史上初)の300試合出場を達成。久々にほぼフルシーズン稼動した。

2006年9月17日の川崎フロンターレ戦(等々力陸上競技場)の後半32分に得点を挙げ、磐田がJリーグに加盟した1994年から、J1リーグ戦における13年連続ゴールを達成した(「公式戦」での連続ゴールならば、既に同年4月25日のナビスコカップ・大宮アルディージャ戦で達成)。この記録は過去に三浦知良、澤登正朗(2005年引退)、藤田俊哉しか成し遂げていない記録である。

2007年には5月3日の清水エスパルス戦(日本平スタジアム)の前半22分にPKを決め、J1リーグ戦史上初となる14年連続ゴールを達成した。このゴール時の年齢は39歳7か月10日で、同年5月12日に当時40歳2か月16日の三浦知良がゴールを決めるまでJリーグの日本国籍選手最年長ゴール記録だった。また5月28日に、2001年から続けてきた選手協会の会長職を藤田俊哉に譲り、名誉会長に就任した。

2008年3月15日のガンバ大阪戦でロスタイムにゴールを挙げ、J1リーグ戦15年連続ゴールを達成。歴代3位となる自身のゴール時年齢記録も伸ばしている(40歳5か月22日)。なおJ1リーグ戦史上最年長ゴール記録はジーコの41歳3か月、2位はその後40歳6か月まで記録を伸ばしている三浦知良である。5月25日にはナビスコカップでの清水エスパルス戦で、後半43分にコーナーキックをヘディングで決め、40歳7か月13日の最年長ゴール記録を保持していたジーコを抜き、ナビスコカップ最年長ゴール記録を塗り替える 快挙を達成したが、試合には敗れたため、本人から喜びの言葉はなかった。また、この得点が中山が公式戦で挙げた最後の得点となった。

2009年シーズンは出場機会が激減。自身が同年42歳の高齢となったこともあり、11月9日にジュビロ磐田から戦力外通告を受け、同時にスタッフとしての残留要請を受けた。しかし現役続行に強い意欲を示す中山はこれを固辞し、新天地を探すことを選択した。また、この年は中山と同じく磐田がJリーグに加盟した1994年から在籍し、この年の時点で中山と共に2002年の完全優勝を知る選手であった鈴木秀人も戦力外通告を受けた。同年のヤマハスタジアムでの公式戦最終戦となった11月28日の広島戦の後半途中から出場し、当時ラモス瑠偉が保持していたJ1最年長出場記録(41歳9か月5日)を更新(42歳2か月5日)。試合後には中山が挨拶を行ない、サポーターへの感謝と現役続行への意欲を表明した。最終節のヴィッセル神戸戦(ホームズスタジアム神戸)での出場機会は回ってこなかったが、試合後両チームのサポーターの声援に応え、1万5000人の拍手を浴びながら磐田での最後の試合を終えた。

2010年、コンサドーレ札幌で再起

退団発表後、ロアッソ熊本、横浜FC、コンサドーレ札幌(以上J2)、FC町田ゼルビア、V・ファーレン長崎(以上JFL)、藤枝MYFC(東海リーグ)の6クラブが興味を示し、獲得の意思を表明。年俸提示は最も低かったが、「グラウンドに立つための体のケアを一番に考え」、施設や医療体制が充実している札幌への移籍を決断した。12月24日に開かれた移籍会見では、「現役生活が一番幸せ。辞めたり、諦めたりするのはいつでも出来る。無様な姿を晒すかもしれないが、それが僕のサッカー人生」と、あくまでも現役にこだわり続ける姿勢を表明した。

2010年シーズンは途中出場で主に出場するも、得点には至らなかった。また、11月に膝の手術を行った。

2011年は前年の手術した膝の影響もあり、試合にはまともに出られず、9月には両膝関節炎を発症し、この年は公式戦無出場に終わった。しかし、来季も現役続行の意志を示し、また所属する札幌のJ1昇格が決まり、中山自身にとっては3シーズン振りのJ1となることが決定した。

オフには、東日本大震災の慈善試合で仙台で行われた「日本サッカー選手会 クリスマス・チャリティーサッカー2011」に出場し、会場を盛り上げた。また、この際に複数の選手たちと共に被災地へも訪問している。

2012年、「東日本大震災復興支援Jスペシャルマッチ」のファン投票で13万票を獲得し、Jリーグ選抜に選出された。

11月24日の横浜F・マリノス戦で、後半から途中出場を果たし、45歳2ヵ月1日でのJ1出場で、自身が持つ最年長J1出場記録を更新した。またこの記録は、2020年9月23日に三浦知良に更新されるまで『J1最年長出場記録』だった。

シーズン終了後、現役続投か引退かの結論を保留していたが、12月に今季限りでの現役引退の決意を固め、4日に現役引退を発表した。記者会見では、引退の原因は両膝が思うように動かなくなったことと話し、まだ未練タラタラであり、元気になったらカムバックするつもりとも述べ、またサッカーを愛するがゆえにそういう怪我も負ってしまったが、サッカーを愛したことに後悔はしていないとも語った。引退会見ではあったが、中山は「第一線を退く」という言葉を使い、「引退」という言葉を使っていない。また自身の引退試合の開催についても現時点で否定する発言もしている。

中山の引退に対して、自身のブログにて妻である生田智子、代表など多くの場面で共にした三浦知良を始めとする、日本代表やジュビロ磐田、コンサドーレ札幌で共にプレーした経験のある選手や元選手、また個人的に中山を尊敬している選手、現日本サッカー協会会長の大仁邦弥など数多くの選手やサッカー関係者がコメントを寄せている。

日本国内だけでなくフランス紙の「レキップ」やFIFAの公式HP、中国メディアの中国新聞社などが中山の引退について取り上げた。

代表経歴

日本代表経歴

1990年、横山謙三監督に選出されダイナスティカップの北朝鮮戦でAマッチデビューを果たした。以降は代表を遠ざかっていたが、1992年にハンス・オフトが代表監督になると代表に復帰し、主に試合終盤に投入されるスーパーサブとして活躍。第2回ダイナスティカップ決勝の韓国戦で代表初ゴールとなる同点ゴールを挙げるなど、優勝に貢献した。アジアカップでも準決勝の中国戦で決勝ゴールを決め、優勝に一役買った。1993年は所属クラブがジャパンフットボールリーグ(JFL)にもかかわらず、1994 FIFAワールドカップ・アジア予選のメンバーに、ヤマハのチームメイトであった吉田光範と共に選ばれた。最終予選では、第2戦のイラン戦で途中出場から1ゴールを決めると(試合は1-2で敗戦)、累積警告で出場できなかった高木琢也に代わって先発した第3戦の北朝鮮戦でゴールを決め勝利に貢献。高木が復帰後も先発に定着した。最終戦のイラク戦では勝ち越しゴールを決めたが、ロスタイムに同点ゴールを奪われ引き分け、ワールドカップ行きの切符を逃した。 1995年のキリンカップで復帰したが、6月のアンブロ・カップ英国遠征にて故障し、翌シーズンの不調もあり一時期代表から遠ざかる。

1998 FIFAワールドカップ・アジア予選のグループリーグ最終戦のカザフスタン戦で約2年半振りに代表へ復帰しゴールを決めると、イランとのアジア第3代表決定戦でもスタメン起用の期待に応え先制点を決め、日本のワールドカップ初出場(「ジョホールバルの歓喜」)の重要な役割を果たした。 翌年、1998 FIFAワールドカップにも選出されると、全敗でグループリーグ敗退したものの、3試合すべてで先発し、最終節のジャマイカ戦では、日本代表のワールドカップ初ゴールにして今大会唯一のゴールを決める。その直後の相手選手との接触で脚を骨折しながらも試合終了までプレーし続けたことで、その闘志が称賛された。

代表監督がトルシエに変わると、定期的に招集は受けるものの、若手の台頭などもあり、当落線上を前後していた。2000年のアジアカップ予選のブルネイ戦では三浦知良とツートップを組み、ハットトリックを決めた。2002年には、世間からは「中山待望論」はあったものの、リーグ開幕からワールドカップによる中断までわずか1得点と不調で、直前の海外遠征のメンバーから外された事や、トルシエが落選をほのめかしたことから、本大会代表には選ばれないとの推測や報道が多数を占めた。しかしベテラン抜きで挑んだ直前遠征で結果が出せなかった事もあり、代表に足りない「精神的支柱」としての意味も含め秋田豊とともに2002 FIFAワールドカップ日本代表に選出された。日本のワールドカップ初勝利となったロシア戦で後半途中からピッチに立ち、「ドーハの悲劇」、1998年W杯、2002年W杯を日本代表として経験した唯一の選手となった。

2002年10月、ジーコ監督就任以降も代表に選出され4試合でプレー、2003年のキリンカップ、アルゼンチン戦で先発出場。この試合が代表最後の試合となった。

2004年、ジーコは既にアジア1次予選の突破を決めていたことから、最終戦のシンガポール戦へ三浦知良と共に招集したい意向を示していたが、日本サッカー協会が難色を示したことから招集が見送られ、代わりに新潟県中越地震復興支援チャリティーマッチ、ジーコ・ジャパン・ドリームチームのメンバーとしてプレーした。

監督経歴

引退後

引退後は、マネジメント会社ARSと契約し、バラエティ番組やスポーツ番組、ニュース番組などにゲスト出演したり、「第91回全国高校サッカー選手権大会 決勝」のゲスト解説や「第21回全日本高校女子サッカー選手権大会」のイメージキャラクターも担当している。2013年4月からはテレビのレギュラー番組や初のパーソナリティを担当するラジオ番組などに出演している。サッカー解説は主にテレビ朝日、スカパーでの試合中継時に行っている。

2013年10月に発売した『プロサッカークラブをつくろう!』のCMに出演し、同作のパッケージも担当しており、ゲーム内にも自身が登場している。

複数の企業による共同の東日本大震災被災地支援プロジェクトで、福島県相馬市に屋内型の遊び場を建設する企画の『みんなの遊び場プロジェクト』などにも参加している。

同年10月15日、2013年度のJリーグアウォーズにて、功労選手賞として表彰される事が決まり、12月10日、Jリーグアウォーズにて、功労選手賞が授与された。

アスルクラロ沼津で現役復帰

2015年9月5日、磐田時代にコーチや2004年から2006年に監督として指揮を執った山本昌邦が理事長を務めるJFL・アスルクラロ沼津の練習に参加し、9月14日には現役復帰することが発表された。10月11日には、古巣のジュビロ磐田との練習試合で実戦に復帰した。中山の影響で沼津の試合で観客が増えたり、ベンチ入りしない試合でも試合会場に駆けつけチームメイトを鼓舞するなどしていたが、2015年シーズンは試合には出場しなかった。その間もサッカー解説者の活動も並行で継続した。

J1通算157ゴール(最後の得点は2008年3月15日のG大阪戦)記録を約7年間並ばれることはなかったが、2015年11月22日にサンフレッチェ広島の佐藤寿人が通算157ゴール目を決め中山に並んだ。また、中山はスタンドで観戦しており「現時点で追いつかれただけですからね。ここから引き離していけるように頑張れればいい。素晴らしいゴールを間近で見させて頂き、勉強になりました。ああいうゴールを決めたいなと情熱をたぎらせてくれる」と中山節でコメントした。

2016年シーズンも公式戦の出場は無かったが、チームはJFL年間3位となり悲願のJリーグ入りが決定した。

アスルクラロ沼津の選手兼任育成チームコーチ時代

それ以後も選手登録は継続しているものの試合の出場機会には恵まれず、2019年シーズンからは選手兼任で沼津のU-18コーチを務めることとなった。中山は既にJFA 公認S級コーチの資格を取得するためのカリキュラムを終えていたが、取得のために必要な指導実績が足りないことからユースチームの指導を行うこととなった。

2020年3月14日に日本サッカー協会が2020年度の第3回理事会を行い、そこで中山へのS級コーチライセンスを付与することが決定した。現役Jリーガーの取得は初めてとなった。

ジュビロ磐田

2021年1月13日、沼津を退団してジュビロ磐田のコーチに就任する事が発表された。同日に放送された『報道ステーション』では、中山の特集が組まれテロップには「現役引退」 と表示されたが、本人の口からは発せられず、「(引退の)2文字に抗いたい」とコメント し、就任に際してのコメントでも「選手としてのトレーニングはひとまず休む」と強調している が、テレビ朝日関東ローカルの「Get Sports」2020年3月8日(7日深夜付け)生放送のインタビューでは「選手卒業なんですかね。留年かな。休学かな。休学してますけど。そりゃプレイヤーの方がいいでしょ。そりゃ選手が一番ですよ」 と、現役復帰を示唆するようなコメントも残している。

アスルクラロ沼津

2023シーズンは、J2昇格も狙える3位まで順位を上げた時期もあったが、最終的には15勝6分17負で13位となり監督1年目でのJ2昇格は叶わなかった。

2025シーズンは、クラブワーストを更新する7連敗を喫するなど27試合3勝9分15敗でJ3最下位と低迷。9月14日、成績不振で監督を退任した。なお、沼津はそのまま最下位に終わっている。

2025年12月25日、クラブ・リレーションズ・オフィサー(C.R.O.)に就任することが発表された。

発言集

一次情報の発言のみ収録。1回の会見につき主要な発言を最大3つ引用し、他は解説で要約しています。

2026-27シーズン(1件)
2026年10月15日本人コメント中山雅史(本人)/公式イベント
天皇杯16強抽選会でゲストドロワーを務めた中山雅史氏が、元日決勝の思い出について語った。現役時代、決勝前夜は大晦日に放映される格闘技番組の誘惑との戦いだったと振り返り、興奮で眠れなくなった経験を明かした。対談相手の井原正巳氏からは、後に指導者となった際に選手に早寝を促していたというエピソードも披露され、2人の世代による準備方法の違いが浮き彫りになった。
「早く寝なきゃいけないなとは思いますけど、大晦日だからいろんな番組がやっているわけですよ」
「テレビ番組との戦いというのはありましたね」

出典:Infoseekニュース 2026年10月15日

個人成績

数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。

クラブ

クラブシーズン年齢ディビジョンリーグ大陸大会1シーズン通算
出場得点出場得点出場得点
ヤマハ/ジュビロ磐田1990-9122—21——155
1991-9223—10——1915
199224—————1613
199325000——1918
199426000——123
1995270————4518
1996280137——4016
1997292116——4226
199830400——3040
199931211——259
200032241——3623
200133084——3920
200234273——3921
200335021——194
20043615041325
20053702010346
200638031——172
200739051——222
200840131——213
200941010——30
コンサドーレ札幌2010420————130
2011430————00
201244000——10
日本アスルクラロ沼津201547—————00
201648—————00
2017490————00
2018500————00
201951———————
202052———————
キャリア通算682751539247

1. 大陸大会(UEFAチャンピオンズリーグ、AFCチャンピオンズリーグなど) 年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

代表

日本 としての年別成績です。親善試合を含みます。

年年齢出場得点得点グラフ
19902210
19912300
19922463
19932584
19942600
19952741
19962800
19972922
199830104
19993110
20003276
20013381
20023430
20033530
通算5321

年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

監督成績

在任別・通算

英語版 Wikipedia の Managerial statistics の値です(Wikipedia(英語版)、revid 1343926981)。勝率は勝利数÷試合数。当サイトによる補完・推計は行っていません。

在任期間年齢チーム試合勝分敗勝率
2022.11〜現在55日本アスルクラロ沼津723228.6%
通算723228.6%

所属チーム

ユース

期間年齢チーム
1983〜198515日本藤枝東高校
1986〜198918日本筑波大学

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

クラブ

期間年齢チーム
1990〜200922日本ヤマハ/ジュビロ磐田
2010〜201242コンサドーレ札幌
2015〜202047日本アスルクラロ沼津

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

代表

期間年齢チーム
1990〜200322日本日本

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

監督

在任年齢チーム役職
2023〜202555日本アスルクラロ沼津監督

移籍金・年俸・市場価値の推移

移籍履歴

掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。

時期年齢移籍元移籍先形態移籍金備考
198618藤枝東高校日本筑波大学移籍—下部組織への移籍
形態・移籍金は未確認
199022日本筑波大学ヤマハ/ジュビロ磐田移籍—形態・移籍金は未確認
201042ヤマハ/ジュビロ磐田コンサドーレ札幌移籍—形態・移籍金は未確認
201547コンサドーレ札幌日本アスルクラロ沼津移籍—形態・移籍金は未確認

※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。

出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認

人物相関

所属履歴と出場記録から機械的に算出しています。個人の交友関係についての評価は含みません。

共にプレーした選手

同じクラブ・同じシーズンに両者とも出場記録がある選手を、シーズン数の多い順に並べています。取得元(API-Football)のシーズン名簿は 2010-11 シーズン以降しか無いため、それ以前に一緒にプレーしたシーズンは数に入りません。

選手クラブ期間シーズン 
大島秀夫日本北海道コンサドーレ札幌20121
古田寛幸日本北海道コンサドーレ札幌20121

指導を受けた監督

本人の在籍期間と監督の在任期間の重なりから算出しています。取得元(API-Football)に在任期間の登録がある監督だけが対象で、古い年代の監督は登録が無いため出ていません。

監督クラブ・代表在任
石﨑信弘日本北海道コンサドーレ札幌2009年2月〜2012年12月
吉田謙日本アスルクラロ沼津2018年1月〜2020年1月

タイトル

個人

英語の記録名しか確認できないもの(6件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。

獲得メダル

代表チームで獲得したメダルです(金1・銀1)。当サイトの大会結果データとも照合し、食い違いがあれば掲載しません。

AFCアジアカップ金 1992 日本
FIFAコンフェデレーションズカップ銀 2001 日韓

出典は英語版 Wikipedia の「メダル獲得記録(Medal record)」節(記事名・版 ID・取得日は「出典」節に記載)。W杯は当サイトの大会結果データでも一致を確認しています。

本文の一部は、ウィキペディア日本語版「中山雅史」(版 111136070)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。

出典

  1. API-Football(選手・監督データ)、2026年10月26日 取得 https://www.api-football.com/
  2. Infoseekニュース、2026年10月15日、2026年10月17日 取得 https://news.infoseek.co.jp/article/gekisaka_461092/
  3. Wikidata、2026年10月26日 取得 https://www.wikidata.org/
  4. Wikipedia(日本語版)「中山雅史」、版 ID 111136070、2026年10月14日 取得 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E9%9B%85%E5%8F%B2
  5. Wikipedia(英語版)、版 ID 1343926981、2026年10月14日 取得 https://en.wikipedia.org/wiki/Masashi_Nakayama

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