福田正博

SOCCERPEDIA / 選手ページ / 日本のサッカー選手 / 最終更新:2026年9月1日


概要

日本福田正博(Masahiro Fukuda、1966年12月27日生)は、緑区出身の元サッカー選手。ポジションはFW。

福田 正博(ふくだ まさひろ、1966年12月27日 - )は、神奈川県横浜市緑区出身の元プロサッカー選手、サッカー解説者。現役時代のポジションはフォワード、ミッドフィールダー。元日本代表。

Jリーグ開幕前の1989年から引退する2002年まで浦和レッズ(三菱自動車サッカー部)の象徴的存在として活躍し、サポーターには「ミスター・レッズ」「大将」と呼ばれた。

クラブ経歴

学生時代

神奈川県横浜市緑区で生まれる。子供の頃は野球少年だったが小学5年の時に横浜市から茅ケ崎市に転居し、転校先の小学校でサッカーと出会う。小学校の担任の義兄が読売サッカークラブのコーチを務めていた橋本章也という人物で、福田は橋本からサッカー技術を学んでいった。

中学進学の際には橋本から読売クラブのJrユースチームへの勧誘を受けたが、これを固辞し地元の大庭中学校へ進学。2年次の1981年には関東予選を突破して全国中学校サッカー大会に出場した。神奈川県下では名の知れた選手となっていた福田は、高校進学の際には当初は地元の神奈川県立藤沢西高等学校を志望していたが、確実に全国大会へ出場できる高校を志望し、相模工業大学附属高校へ進学することになった。

相工大付属高校では1年次の春からレギュラーへ抜擢され、2年次には関東大会でベスト4進出を果たし優秀選手にも選ばれた。しかしながら県予選を突破して全国大会へ出場することは叶わず、2年次の全国高等学校サッカー選手権大会決勝では神奈川県立鎌倉高等学校に、3年次の決勝では藤沢西高等学校に敗れ去った。

高校生活で最も脚光を浴びたのが、3年次の国民体育大会であった。神奈川県選抜のセンターフォワードとして6得点を挙げる活躍で決勝進出に導き、決勝では静岡県選抜を下し初優勝に貢献した。

1985年に中央大学経済学部へ進学しサッカー部へ入部。1年次からレギュラーとなり秋の関東大学サッカーリーグ戦ではリーグ戦4位に新人王を獲得する活躍を見せた。この活躍により、それまで各年代の代表チームへ招集される機会のなかった福田は翌1986年に日本B代表に選ばれ、南米遠征に参加した。1987年にはユニバーシアード代表候補に選ばれるも最終選考で落選、1988年には日本B代表としてアジアカップの代表メンバーに選出されたが、試合での出場機会は与えられなかった。

また、所属する中央大学では3年次のリーグ戦でアシスト王を受賞、4年次には主将を務めたものの、当時のサッカー部や選手を取り巻く環境は劣悪で、サッカーだけに専念できる状況で無く不本意なものだったという。福田は当時を振り返って「1人の人間としては有意義だったが、サッカー選手としてはマイナスの時期だった」と語っている。

卒業後の進路については日本サッカーリーグに所属する6チームから勧誘を受け、古河電気工業サッカー部と三菱重工業サッカー部に絞った。1980年代後半の日本サッカー界ではプロ契約を結べるようになっており、大学サッカー界の有力選手はプロ志向の強いチームへ入団する傾向にあったが、福田は大学時代の成績から「サッカーで生活する」ことは考えられず終身雇用を希望し、アマチュア志向の強い三菱重工へ入社することになった。また、三菱は前年まで連続で3位になっており、1部残留を確実と考えた事と、ドイツへの1ヶ月の留学をさせてくれる条件があった事が決め手となった。

現役時代

1989年、日本サッカーリーグ2部の三菱重工業サッカー部(後に三菱自動車工業へ移管)に加入。ところが1部残留を前提に三菱重工を選択したにも関わらず、三菱はこのシーズンから2部へ降格しており、予定されていたブンデスリーガのクラブへの留学も取りやめとなっていた。エースの原博実が肝炎により戦線を離脱すると斉藤和夫監督により開幕からレギュラーに抜擢。ルーキーながら36得点という圧倒的な力を見せ得点王に輝き、三菱重工を1年で1部に復帰させる原動力となった。

1990年、日本代表に初選出。同年7月27日のダイナスティカップの韓国戦で代表デビューを飾るとレギュラーへ定着し(後述)、同年9月のアジア競技大会にも出場した。しかし、代表では右ウイングバックという本来とは違うポジションを与えられ得点よりも守備に忙殺されていた。このため福田自身はウイングバックへの起用に不満を抱き代表辞退も考えていた。

1991年、関係者の慰留もあって代表辞退を撤回。同年5月のキリンカップでは最終戦のトッテナム・ホットスパー戦にて、北澤豪の決勝点をアシストする活躍などで初優勝に貢献した。また同年には所属する三菱のプロリーグ参加が決定したこともあってプロ契約を結んでいる。

1992年、ハンス・オフトが監督に就任。5月のキリンカップでは代表に選出されたが、2試合連続で控え選手にも選ばれず不満が募り、オフトに猛抗議をおこなった。この一件で代表から外されることも覚悟していた福田だったが、6月のオランダ遠征でも引き続き招集を受け攻撃的MFのポジションを獲得。この遠征でオフトの信頼を受けると8月のダイナスティカップや11月のAFCアジアカップ優勝に貢献し、オフト率いる代表チームにおいて欠くことのできない選手の一人となっていった。

同年には所属する三菱がプロリーグ設立に伴い浦和レッドダイヤモンズと改称。森孝慈監督の下で攻撃的サッカーへの転換を図ったチームの中でもエースとして牽引。エスクデロ、柱谷幸一、福田で構成される3トップでナビスコカップ5位、天皇杯ベスト4進出に貢献した。

1993年、Jリーグ開幕。サッカー専門誌では前年の好成績もあって浦和の評価は高かったが、成績は低迷しサントリーシリーズ、NICOSシリーズ共に最下位に終わった。福田自身も代表チームへの招集やプロとしての重圧に苦しみ精彩を欠くことが多かった。代表では1994 FIFAワールドカップ1次予選ではレギュラーとして活躍したものの、最終予選では調子を落とし第2戦のイラン戦後はスタメンから外れ、最終戦のイラク戦(いわゆるドーハの悲劇)は途中交代での出場であった。

1994年、浦和では前年同様に成績が低迷。福田はサントリーシリーズ(1stステージ)のベルマーレ平塚戦で1試合4得点の活躍があったものの、スポーツヘルニアに苦しみ長期離脱。ミヒャエル・ルンメニゲの紹介で菊原志郎と共にドイツに渡って治療を受けた。代表ではオフトに代わってブラジルのパウロ・ロベルト・ファルカンが監督に就任したが怪我の影響もあって招集されることはなかった。シーズンオフには福田の去就が報じられ、自身も移籍を直訴したが最終的に残留を決断した。

1995年、ホルガー・オジェックが監督に就任すると福田はそれまでの鬱憤を晴らすかのように実力を発揮。MFのウーベ・バインとのコンビネーションで得点を重ねるなど、日本人選手初のJリーグ得点王となり、チームもサントリーシリーズでは優勝争いに絡むなど3位と成績を向上させる原動力となった。シーズン終了後にはJリーグベストイレブンにも選ばれた。日本代表へも復帰を果たし、2月のダイナスティカップや6月にイングランドで開催されたアンブロ・カップに出場。8月に行われたブラジルとの親善試合では前年のワールドカップ優勝国を相手に得点を記録している。また、同年12月8日にはアジアサッカー連盟の月間最優秀選手に選出されている。

1996年、この時期から福田のサッカー人生は怪我との戦いとなった。1996年シーズン開幕直前に負傷すると8月には練習中に左足首を骨折しリーグ戦4試合の出場に終わった。1997年は左足首手術の際に埋め込まれたプレートの影響による痛みに終始苦しめられたものの、29試合で21得点を記録した。1996年にはオジェック監督とバイン、1997年10月にはギド・ブッフバルトといった功労者がチームを去っていったが、エースとしてチームを牽引した。1998年には痛みの原因となっていた左足首のプレートを除去したが、左足付け根の肉離れが再発しリハビリと復帰を繰り返した。

1999年、シーズン途中に原博実監督が成績不振により解任されると、後任のア・デモス監督との確執もあって、メンバー外や、控えに回ることが多くなった。チーム内の最多得点者であったが、残留をかけて90分以内での勝利が絶対に必要であった、リーグ最終節のサンフレッチェ広島戦でもベンチスタートとなるなど(この試合で後半36分から出場し、延長戦に入ってVゴールを決めた)、チームも2部へと降格した。2000年に入っても福田のコンディションは上がらず、ポーランドからアンジェイ・クビツァが加入した事もあって12試合の出場に留まった。2001年、チームも外国人選手、スタッフも従来のヨーロッパ路線からブラジル路線へと転換を図っていたが福田は出場機会を与えられることは少なく14試合出場に留まった。

2002年、日本代表時代に指導を受けたハンス・オフトが監督に就任。「最後のシーズンのつもりで戦う」決意で挑んだシーズンはオフトの下で様々なポジションで適性を試され、拘り続けたストライカーではなく中盤に下がり右サイドハーフを務めるようになり、2ndステージに入ると守備的MFへとポジションを移した。2ndステージでは開幕から9試合負けなし(8勝1分)を成し遂げ首位に立つなど優勝争いに加わり、同年のナビスコカップでは準優勝に貢献した。

2002年シーズンを最後に、クラブから戦力外通告を受け、レッズ以外でプレーするのは想像できないとして、日本代表時代の同僚であった井原正巳と共に現役を引退した。翌2003年6月15日には埼玉スタジアム2002で、Jリーグ史上最多となる5万人以上の観衆を集めて引退試合が行われた。2020年現在もこの記録は破られていない。福田引退関連グッズだけで、1億円以上の売上を記録したといわれる。

引退後

引退後は、サッカーの普及活動に協力する日本サッカー協会のJFAアンバサダーに就任した(2003年 - 2008年)。サッカー解説者としても、TBS、ニッポン放送のスポーツ番組などにたびたび出演している。また、2004年4月にはじまったニュースショー『報道ステーション』(テレビ朝日)と、TBS『スーパーサッカー』(準レギュラー)では、サッカーコメンテーターを務めた。

2008年シーズンから浦和へコーチとして復帰 。2009年から監督に就任したフォルカー・フィンケの下でもコーチを務めていたが、契約満了に伴い2010年シーズン限りで浦和を退団する事になった。

プレースタイル

プレースタイル

柔らかいボールタッチとスピードに乗ったドリブル突破からのチャンスメイク。瞬間的なスピードを生かしてディフェンスラインの裏に飛び込み自ら得点を決めることができる。20代後半の福田のプレーは鹿島時代のジーコをして「日本最高のプレーヤー」と言わしめ、「ドーハの悲劇」世代の日本代表選手の中では、三浦知良(カズ)に勝る能力の持ち主ともいわれた。

前述のようにスピードに乗ったドリブル突破を生かし、左右両サイドのウイング(もしくはサイドハーフ)としてプレーができることから「日本最高のウイングプレーヤー」との評価もあった が、福田自身はサイドよりも中央で持ち味が生きるという自負があり、起用法を巡って監督や指導者と対立することも辞さなかったという。

。リーグ戦通算PK得点「26得点」は遠藤保仁に次ぐJ1歴代2位である。1995年のJリーグ初の日本人得点王となった年も、総得点32得点のうちの14得点をPKで決めている。ペナルティーエリア内で切返しやドリブルを仕掛ける事も多かったため、自分がファウルされて得たPKも多かった。

発言集

一次情報の発言のみ収録。1回の会見につき主要な発言を最大3つ引用し、他は解説で要約しています。

2026-27シーズン(1件)
2026年10月9日本人コメント福田正博(解説者)/公式インタビュー
2026年9月下旬から10月上旬の日本代表4連戦での瀬古歩夢の活躍について、元日本代表の福田正博が評価したもの。DF陣の故障者が相次ぐ中でスタメンに定着した瀬古について、4試合すべてで集中力が途切れない安定感のある守備を見せたこと、センターバックやボランチなど複数のポジションに対応できるユーティリティー性があることを高く評価している。
「ファーストチョイスになっても不思議ではない」

出典:集英社 2026年10月9日

所属チーム

ユース

期間年齢チーム
1982〜198415日本相模工業大学附属高等学校
1985〜198818日本中央大学

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

クラブ

期間年齢チーム
1989〜200222日本三菱 / 浦和レッズ

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

代表

期間年齢チーム
1990〜199523日本日本

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

移籍金・年俸・市場価値の推移

移籍履歴

掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。

時期年齢移籍元移籍先形態移籍金備考
198518相模工業大学附属高等学校中央大学移籍—下部組織への移籍
形態・移籍金は未確認
198922中央大学三菱 / 浦和レッズ移籍—形態・移籍金は未確認

※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。

出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認

獲得メダル

代表チームで獲得したメダルです(金1)。当サイトの大会結果データとも照合し、食い違いがあれば掲載しません。

AFCアジアカップ金 1992 日本

出典は英語版 Wikipedia の「メダル獲得記録(Medal record)」節(記事名・版 ID・取得日は「出典」節に記載)。W杯は当サイトの大会結果データでも一致を確認しています。

本文の一部は、ウィキペディア日本語版「福田正博」(版 110744884)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。

出典

  1. Wikidata、2026年10月26日 取得 https://www.wikidata.org/
  2. Wikipedia(日本語版)「福田正博」、版 ID 110744884、2026年10月14日 取得 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E6%AD%A3%E5%8D%9A
  3. Wikipedia(英語版)、版 ID 1310844610、2026年10月14日 取得 https://en.wikipedia.org/wiki/Masahiro_Fukuda
  4. 集英社、2026年10月9日、2026年10月25日 取得 https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jfootball/2026/10/09/post_196/

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