「サッカーができる幸せを感じてやっていた」
「PKもどれだけ練習を積み重ねて、実戦で結果を出せるかというところも結構大きなポイントになる。そこで勝ち上がることがすごく大事」
出典:Infoseekニュース 2026年10月15日
SOCCERPEDIA / 選手・監督ページ / 日本のサッカー選手 / 最終更新:2026年9月1日
井原正巳(Masami Ihara、1967年9月18日生)は、甲賀市出身の元サッカー選手。ポジションはDF。日本では1988年から通算122試合5得点を記録している。クラブでは公式戦通算418試合8得点(1990-91 シーズン以降)。クラブ・代表で通算7個のタイトルを獲得、個人賞は9回(Jリーグ ベストイレブン 5回)。
井原 正巳(いはら まさみ、1967年9月18日 - )は、滋賀県甲賀郡水口町(現:甲賀市)出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー(DF)。元日本代表。
1990年代のJリーグを代表するディフェンダー(センターバック)で「アジアの壁」と呼ばれ、キャプテンとして1998 FIFAワールドカップに出場した。サッカー日本代表のA代表キャップ数122は遠藤保仁に抜かれるまで歴代1位であった。
小学3年生の頃兄がプレーしていた、貴生川サッカー少年団でサッカーを始めた。水口中学を経て、滋賀県立守山高等学校へと進学、1年時からレギュラーを獲得、2学年先輩に美濃部直彦がいた。1984年に全国高校サッカー選手権に出場した。高校卒業後は筑波大学へ進学して蹴球部に所属した。大学入り前に行われた、ワールドユースに向けたセレクションのメンバーに選抜されたが、ディフェンダーのポジションには空きがあったことから「やってみないか?」と勧められたことがきっかけとなり、フォワードからディフェンダーに転向した。筑波では1986年、1987年に関東リーグと総理大臣杯で連覇を果たした。筑波大学2年時に日本代表に選出された。
筑波大学時代、当時ディフェンダーだった中山雅史とセンターバックでコンビを組んでいた。二人はユース代表でもセンターバックを務め、アルバイトも同じ所でするなど公私共に仲が良かった。大学では教員免許も取得した。
読売クラブ、全日空、古河電工、ヤマハなどからも誘いを受けていたが、大学卒業後は日産自動車サッカー部(現:横浜F・マリノス)に入部、入団初年度はオスカー監督から守備的中盤として起用され、リーグ戦全試合に出場、三浦知良を抑えて日本リーグ新人王を受賞した。1991-92年の天皇杯、1992-93年シーズンの天皇杯とアジアカップウィナーズカップの連覇に貢献した。オスカー監督退団時にはブラジルでプレーしないかとも誘われた。
1993年Jリーグ開幕節 (5月15日) のヴェルディ川崎戦に出場して勝利し、同年5月29日のジェフユナイテッド市原戦ではJリーグのオウンゴール第1号を記録した。同年のJリーグオールスターサッカーには三浦知良やジーコらを抑え、ファン投票で最多得票を得て出場した。1994年5月4日のヴェルディ川崎戦でJリーグ初ゴールを挙げた。この年のJリーグオールスターサッカーは、2年連続の最多得票で選出された。1995年はJリーグ1stステージで優勝を果たすと、Jリーグチャンピオンシップでは、ヴェルディ川崎戦の第2戦でダイビングヘッドによる決勝ゴールを決め、マリノス初のJリーグ年間優勝に大きく寄与した。
前身の日産時代から10シーズンをマリノスでプレーし「ミスターマリノス」とまで言われ、当時のJリーグ日本人選手の中では最高額の年俸を貰っていたが、マリノスからは契約延長を提示されず、コーチ就任要請を蹴って、2000年にジュビロ磐田へ移籍、当初はレギュラーとして出場していたが、鈴木政一が新たに監督に就任すると出場機会を大幅に減らした。
2001年からは、以前日本代表で共に戦った福田正博が在籍していた浦和レッドダイヤモンズに移籍した。5月19日のガンバ大阪戦での移籍後初ゴールは、現役最後のゴールとなった。同年行われた2002年W杯1次リーグの組み合わせ抽選会ではアジア代表としてドロワーを務めた。
2002年、2ndステージ、チームは開幕から引き分けを含め、9試合負けなしで一時は首位に立ったが、10節で鹿島に敗れると、6連敗でシーズンを終えた。またこの年のJリーグカップでは決勝に進出したが、鹿島に敗れた。Jリーグ最終節、古巣横浜F・マリノス戦で先発フル出場をしたのを最後に、チームメイトの福田正博と共に現役を引退した。Jリーグ通算297試合、5得点。2004年1月4日、国立競技場で引退試合が開催され、この時ゴールを決めた。
大学2年時に日本代表に選出され、1988年1月27日のアラブ首長国連邦との親善試合でAマッチ初出場を果たした。 1990 FIFAワールドカップ・アジア予選では朝鮮民主主義人民共和国に競り負け1次予選敗退。1992年のAFCアジアカップ1992ではグループリーグ最終戦のイラン戦で、グループリーグ敗退濃厚な中、試合終盤に起死回生となる三浦知良の決勝ゴールをアシストして決勝トーナメント進出に貢献、決勝ではサウジアラビアを破って初のアジア制覇に貢献した。
1994 FIFAワールドカップ・アジア予選では、1993年5月5日開催の一次予選、スリランカ戦で代表初ゴールを挙げるなど、一次予選、二次予選の全試合に先発フル出場したが、あと一歩のところでW杯出場権を逃す「ドーハの悲劇」を経験した。1994年のアジア大会ではベスト8で敗退したが、その準々決勝の韓国戦で終盤に一時は同点となる目の覚めるようなスーパーロングシュートを決めた。1995年以降、柱谷哲二が代表を退いて以降は、加茂周代表監督によってキャプテンに指名され、以降代表を外れるまでキャプテンを務めた。
1998 FIFAワールドカップ・アジア予選最終予選では、第2戦のUAE戦でFKを頭で合わせると、このボールはゴールに向かい、間違いなくゴールラインを割って得点となるところであったが(決勝ゴールになる可能性が高かった。)、オフサイドのポジションに居た小村徳男がゴール欲しさからかボールを触って押し込んだたため、ノーゴールの判定、この決果0-0の引き分けに終わる。この様なこともあり、苦戦を強いられながらも、アウェイでのウズベキスタン戦では、ロングフィードで試合終了間際に呂比須ワグナーの同点ゴールをアシスト。最終節のカザフスタン戦で代表で最後となるゴールを決め第3代表決定戦進出に貢献すると、イラン代表と決戦を制し、日本のW杯初出場へ導いた。3戦全敗となった1998 FIFAワールドカップでは、大会直前に負傷し、出場も危ぶまれたが、キャプテンとして 全試合に先発フル出場した。
1999年、コパアメリカではグループリーグの2試合に出場したが、ボリビア戦で後半83分に、この試合で2度目の警告を受けて退場処分になった。次の代表戦となったイラン戦は出場停止であったが、『フィリップ・トルシエ監督は「出場停止であるという理由のみで招集しなかった訳ではない。」とコメント、以降再び招集されることはなかった。
引退後はNHKサッカー解説、TBSラジオ番組『スポーツBOMBER!』パーソナリティー(2003年度から下半期・木曜日担当)、日本サッカー協会認定のJFAアンバサダー、びわこ成蹊スポーツ大学客員教授、公共広告機構(現:ACジャパン)・骨髄バンクCMなど各方面で活躍。日本各地の少年サッカー教室に参加するなどサッカーの普及にも力を注いでいる。2005年には洪明甫と共に日韓親善大使に選ばれた。
2006年4月にJFA 公認S級コーチのライセンスを取得。これにより、日本代表及びJリーグ監督に就任出来る事になった。
2009年2月、柏レイソルのヘッドコーチに就任。同年7月、監督の高橋真一郎が解任され、後任監督が決定するまでの代行監督を務めた。2013年にはシーズン中に監督の辞意を表明したネルシーニョに代わって天皇杯の1試合指揮をとった(その後ネルシーニョは辞意を撤回)。2014年限りで柏との契約を満了し退任。
2015年よりアビスパ福岡の監督に就任。 最終的には2位磐田と並ぶ勝ち点82の成績を収めたが、得失点差により順位は3位となりJ1自動昇格は叶わず、J1昇格プレーオフに回ることとなった。 そのプレーオフの決勝戦において、4位のセレッソ大阪と1-1で引き分けたが、年間順位で上回った為チームを5年ぶりのJ1の舞台に導いた。
2016年シーズンは5年ぶりとなるJ1の舞台で指揮を執ったが、J11stステージで2勝5分10敗、2ndステージで2勝2分13敗と苦しみ、1年でJ2降格となった。
2017年シーズンは21勝11分10敗で4位となり、J1昇格プレーオフに進出。決勝戦で名古屋グランパスと1年でのJ1復帰を賭けて対戦。試合は0-0の引き分けで終了し、レギュレーションによりJ2残留となった。
2018年11月17日、J2第42節・FC岐阜戦終了後の会見で、J1昇格を逃したことに対する責任を取り、辞任を表明。 11月19日、アビスパ福岡の公式サイト上で2018シーズンをもって退任することが発表された。
2018年12月13日、ネルシーニョの柏レイソル監督復帰に合わせて井原も柏レイソルのヘッドコーチに復帰した。2022年4月、左アキレス腱を断裂して手術を受けたネルシーニョが復帰した29日までの間、代行監督を務めた。柏での監督代行はこれで3度目となった。 2023年5月17日、チームの成績不振(リーグ戦2勝5分6敗の16位)で退任する事になったネルシーニョ監督の後任として、柏レイソルの監督に就任した。8月以降の公式戦の成績は、7勝8分け2敗で、最終順位は17位と、何とかJ1残留を決めた。一方の天皇杯では、決勝に進出したが、川崎フロンターレにPK戦の末に惜敗した。天皇杯決勝進出と、8月以降成績が持ち直し、J1に残留した手腕を評価され、2024年も監督を続投することとなった。2024年シーズン、何とかチームをJ1に残留させることには成功したが、この年で監督を退任することとなった。
2025年からNHKのサッカー解説に復帰し、『Jリーグタイム』にも出演することとなった。また、同年6月にホンコン・チャイナで開催された国際大会「International Youth Invitational Football Cup at KTSP June2025」 において、U-20Jリーグ選抜チームの監督を務めた。
2025年6月28日、自身のウェブサイト上で韓国Kリーグ2の水原三星ブルーウィングスに7月からコーチとして加わることを発表した。水原三星は同年Kリーグ2位となり、昇格・降格プレーオフに進出したが済州SK FCに敗れ昇格を果たせず。同年12月23日、コーチを退任した。
一次情報の発言のみ収録。1回の会見につき主要な発言を最大3つ引用し、他は解説で要約しています。
「サッカーができる幸せを感じてやっていた」
「PKもどれだけ練習を積み重ねて、実戦で結果を出せるかというところも結構大きなポイントになる。そこで勝ち上がることがすごく大事」
出典:Infoseekニュース 2026年10月15日
数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。
| クラブ | シーズン | 年齢 | ディビジョン | リーグ | シーズン通算 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 横浜マリノス横浜F・マリノス | 1990-91 | 22 | — | 4 | 0 | 26 | 2 |
| 1991-92 | 23 | — | 3 | 0 | 25 | 0 | |
| 1992 | 24 | 0 | 8 | 0 | 13 | 0 | |
| 1993 | 25 | 0 | 0 | 0 | 33 | 0 | |
| 1994 | 26 | 0 | 2 | 0 | 47 | 1 | |
| 1995 | 27 | 0 | — | — | 49 | 1 | |
| 1996 | 28 | 0 | 13 | 0 | 43 | 1 | |
| 1997 | 29 | 0 | 0 | 0 | 24 | 0 | |
| 1998 | 30 | 0 | 0 | 0 | 28 | 0 | |
| 1999 | 31 | 0 | 6 | 0 | 34 | 0 | |
| 通算 | 36 | 0 | 322 | 5 | |||
| 2000 | 32 | 0 | 3 | 0 | 23 | 1 | |
| 2001 | 33 | 0 | 6 | 0 | 36 | 1 | |
| 2002 | 34 | 0 | 9 | 1 | 37 | 1 | |
| 通算 | 15 | 1 | 73 | 2 | |||
| キャリア通算 | 54 | 1 | 418 | 8 | |||
年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。
日本 としての年別成績です。親善試合を含みます。
| 年 | 年齢 | 出場 | 得点 | 得点グラフ |
|---|---|---|---|---|
| 1988 | 20 | 5 | 0 | |
| 1989 | 21 | 11 | 0 | |
| 1990 | 22 | 6 | 0 | |
| 1991 | 23 | 2 | 0 | |
| 1992 | 24 | 11 | 0 | |
| 1993 | 25 | 15 | 2 | |
| 1994 | 26 | 9 | 1 | |
| 1995 | 27 | 16 | 1 | |
| 1996 | 28 | 13 | 0 | |
| 1997 | 29 | 21 | 1 | |
| 1998 | 30 | 10 | 0 | |
| 1999 | 31 | 3 | 0 | |
| 通算 | 122 | 5 | ||
年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。
英語版 Wikipedia の Managerial statistics の値です(Wikipedia(英語版)、revid 1310851788)。勝率は勝利数÷試合数。当サイトによる補完・推計は行っていません。
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1983〜1985 | 15 | |
| 1986〜1989 | 18 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1988〜1999 | 20 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
| 在任 | 年齢 | チーム | 役職 |
|---|---|---|---|
| 2009〜2009 | 41 | 監督 | |
| 2013〜2013 | 45 | 柏レイソル(代行) | 監督 |
| 2015〜2018 | 47 | 監督 | |
| 2022〜2022 | 54 | 柏レイソル(代行) | 監督 |
| 2023〜2024 | 55 | 監督 |
掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。
| 時期 | 年齢 | 移籍元 | 移籍先 | 形態 | 移籍金 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1986 | 18 | 滋賀県立守山高等学校 | 移籍 | — | 下部組織への移籍 形態・移籍金は未確認 | |
| 1990 | 22 | 日産自動車 | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | |
| 1992 | 24 | 日産自動車 | 横浜マリノス横浜F・マリノス | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 |
| 2000 | 32 | 横浜マリノス横浜F・マリノス | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | |
| 2001 | 33 | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 |
※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。
出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認
英語の記録名しか確認できないもの(6件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。
代表チームで獲得したメダルです(金1)。当サイトの大会結果データとも照合し、食い違いがあれば掲載しません。
| AFCアジアカップ | 金 1992 日本 |
|---|
出典は英語版 Wikipedia の「メダル獲得記録(Medal record)」節(記事名・版 ID・取得日は「出典」節に記載)。W杯は当サイトの大会結果データでも一致を確認しています。
本文の一部は、ウィキペディア日本語版「井原正巳」(版 110748129)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。
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