ドゥンガ

SOCCERPEDIA / 選手・監督ページ / ブラジルのサッカー選手 / 最終更新:2026年9月1日


概要

ブラジルドゥンガ(Dunga、1963年10月31日生)は、イジュイー出身の元サッカー選手。ポジションはMF。ブラジルでは1987年から通算91試合6得点を記録している。クラブでは公式戦通算457試合47得点(1982 シーズン以降)。クラブ・代表で通算20個のタイトルを獲得、個人賞は15回。

ドゥンガことカルロス・カエターノ・ブレドルン・ヴェーリ(、1963年10月31日 - )は、ブラジル・リオグランデ・ド・スル州出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダー(守備的ミッドフィールダー、ボランチ)。

ブラジル代表選手として1990年、1994年、1998年のワールドカップに出場した。2006年7月から2010年7月まで(第1期)と2014年7月から2016年6月まで(第2期)代表監督を務めた。

クラブ経歴

クラブ経歴

ブラジル南部のリオグランデ・ド・スル州でドイツ系およびイタリア系移民の家に生まれた。あだ名の「ドゥンガ」は叔父が命名したもので、幼少期は身長が低かったことから、「白雪姫と七人のこびと」に登場する一番末のこびとにちなんで命名されたものである。ドゥンガの父親もサッカー選手であった。プロ選手になるためのセレクションに合格し、インテルナシオナルで寮生活を送り、インテルナシオナルでプロデビュー。

1987年にイタリアのピサに移籍、ペスカーラ戦でセリエAでの初ゴールを決めるなど活躍、僅か1シーズンのみで、1988-89シーズンからフィオレンティーナに移籍した。キャプテンも務め、ピッチ内外のリーダーとしてプレーし、ファンからも多くの支持を得た(2017年にフィオレンティーナでは、殿堂入りも果たした。)。1989-90シーズンには、UEFAカップの決勝に進出した。しかし、1992年夏、契約はまだ残っていたものの、チームはドゥンガの放出を目論み、セリエAの仲裁委員会が介入する事態となった(ドゥンガに「よれば、副会長となったヴィットリオ・チェッキゴーリから、ロッカールームのスパイになるよう依頼され、申し出を断ったことに端を発しているとしている。)。1992-93シーズン開幕の頃には、トップチームから除外され、プリマベーラでのプレーを強いられた。11月に下位に低迷していたペスカーラへの加入を選択、ドゥンガの加入でチームは多少持ち直したものの、チームはセリエBへと降格した。この間、1990年頃には、ユヴェントスが獲得に動いたこともあった。

1993-94シーズンからVfBシュトゥットガルトへ移籍しプレー、契約満了が近づきイングランドやブラジルからのオファーを検討していた。1984年にキリンカップで日本を訪れて以来、日本の興味を持つようになり、日本の映画が好きで、日本文化に興味を持っていたこと、ジュビロから熱心な誘いを受けたことなどにより、1995年7月から日本のジュビロ磐田でプレーすることとなった。(ジュビロとの交渉の少し前には、横浜フリューゲルスの監督を務めていた加茂周が獲得を希望していたこともあって、フリューゲルスからのオファーを受け、入団が決まりかけていたが、シュトゥットガルトとの契約期間の問題、加茂の退任もあってフリューゲルスが翻意していた。)9月13日サンフレッチェ広島戦でJリーグ初ゴールを決める。1996年11月6日、第29節の横浜フリューゲルス戦で決めたゴールはJリーグ30周年ベストゴールのフリーキック部門にノミネートされた。

強いリーダーシップでチームを牽引して、1997年の2ndステージでは、ガンバ大阪と優勝を争う中、勝ち点1差で迎えた第14節の直接対決で延長戦に入って決勝ゴールを決めるなど、初優勝を果たす。ドゥンガはブラジル代表としてコンフィデレーションズカップ参加の為、Jリーグチャンピオンシップを欠場したが、磐田は1stステージ優勝の鹿島アントラーズを破り、Jリーグ年間優勝を果たし、このシーズンの功績からJリーグベストイレブンとMVPを受賞した。

1998年の1stステージで優勝。シーズンの最終節、11月14日のガンバ大阪戦ではジュビロでのラストゴールを決め、5-4と勝利した。2ndステージは2位、Jリーグチャンピオンシップは、右足内転筋の痛みを堪えてのプレーとなり、運動量も限定され、これまで見せてきた様な存在感を全く出せず、鹿島アントラーズに敗れた。1998年のリーグ戦では、28試合の出場で6ゴール16アシストを記録して週刊サッカーマガジン選出のMVP、また2年連続のJリーグベストイレブンに選出されるなどの活躍を続けていたが、磐田と金銭面で折り合いが付かず退団した。Jリーグでは通算99試合出場16ゴールの成績を残した。その後は古巣インテルナシオナルで1シーズンプレー後に現役を引退した。

引退後は「市民能力開発のためのドゥンガ財団」の代表として社会福祉活動などに従事するとともに、1999年から2004年にかけてはジュビロ磐田のチームアドバイザーも務めた。

代表経歴

代表経歴

1990年のワールドカップでは、ラウンド16のアルゼンチン戦で、後半35分にディエゴ・マラドーナのスルーパスからカニーヒアにゴールを許し、敗北。早期敗退の原因としてGKのタファレル、監督のラザロニなどとともにメディアから厳しく批判された。批判は数年にわたって続き、「国民の恥」(ドゥンガ著「勝利の条件」より)とまで言われた。

1994 FIFAワールドカップでは全試合でプレー、グループリーグ2戦のカメルーン戦ではロマーリオのゴールをアシスト、ライーからキャプテンを引き継ぎ、決勝のイタリア戦ではPK戦でブラジル最後のキッカーとしてPKを成功させるなど、ブラジルを優勝に導き、FIFAが選出した大会ベストイレブンに選ばれた。

ジュビロ磐田在籍時に出場した1998 FIFAワールドカップ、決勝トーナメント初戦のチリ戦でFKからセザール・サンパイオの得点をアシスト、準々決勝のデンマーク戦ではリヴァウドの決勝点をアシストするなど、キャプテンとして全試合に出場、決勝進出に貢献した。

ブラジル代表(第1期)

カルロス・アルベルト・パレイラの後任として2006年7月にブラジル代表監督に就任、監督およびコーチ経験の無いままセレソンを率いることになった。

監督就任以降はフレッジ、ロビーニョ、シシーニョなどの若手選手を積極的に起用した。その一方でベテランのカフー、エメルソン、ゼ・ロベルト、ロナウドなどは招集しなかった。

パレイラが重用していたアドリアーノ、カカ、ロナウジーニョからなる通称「カルテット・マジコ」にたいしては「前線にアタッカーを4人並べる危険なことはしない」と否定的である。流れるようなパスワークといった芸術性よりも、規律を遵守した組織的な守備重視の戦術を採用しておりブラジルのメディアからはつまらないサッカーだと批判されていた。

南アフリカW杯の南米予選においては前半戦で3試合連続無得点を記録し一時は5位にまで後退したため、スタジアムのファンからブーイングを浴び、試合のたびに「Adeus Dunga(さらばドゥンガ)」の合唱が起こり、メディアからも厳しく批判されたがその後は持ち直し、9月に行われたアウェーのアルゼンチンに3-1で勝利し第1回大会から19回連続となるW杯出場を決めた。

しかし、本大会では優勝候補とされながら準々決勝で敗退。この責任を問われ、解任された。

ブラジル代表(第2期)

地元ブラジル開催であった2014 FIFAワールドカップに於いて4位に終わる惨敗を喫して退任したルイス・フェリペ・スコラーリの後任として再びブラジル代表の指揮を執ることが、2014年7月22日に発表された。しかし、2018 FIFAワールドカップ南米予選では中位に苦しみ、さらに2016年のコパ・アメリカ・センテナリオではグループリーグ敗退に終わり、2016年6月14日に解任された。

監督経歴

アル・ラーヤン

2011年8月29日、カタール・スターズリーグに所属するアル・ラーヤンSCの監督に就任した。

プレースタイル

プレースタイル

相手からボールを奪うと素早く的確な判断で、広い視野を活かし、相手DF陣の隙を突くパスを供給した。

1994年のワールドカップでは、ボランチとしての攻守のつなぎ、パスカット、パスコースを限定するといったプレーのみならず、ラストパスの供給、前線までの攻撃参加など、本来はライーが果たすべきであったプレーメーカーの役割をもこなした。

ジュビロ磐田では、勝利するために必要な事をチームメートに伝える伝道師の様な役割を果たし、選手たちに一切妥協を許さない姿勢を貫き、1本のパスで相手ゴールに迫るような、試合の展開を変えるようなパスを何本も供給した。ただしその一方、連続して失点した試合、味方選手に余りに不甲斐ないプレーが続いた時などはやや集中力を切らすこともあった。

人物像

エピソード

サントスFC時代には三浦知良とチームメイトであった。三浦は「普段は優しいが試合になるとまるで人間が変わったかの様に厳しかった。」と後に回想した。

1994 FIFAワールドカップ開催時、パレイラ代表監督がロマーリオの扱いに困っていたのをみて、ワールドカップの優勝にロマーリオの存在は不可欠だと、宿舎では自ら進んでロマーリオと同部屋となった。これが功を奏して、ロマーリオは大会中5ゴールを決め、優勝の立役者となった。

1998年のワールドカップ決勝、フランス戦を前に、メディアから勝つ為に必要なことについて質問されると、「11人の闘うライオン、すなわち11人のドゥンガが居れば勝てる」と答えた。

ジュビロ在籍時、子供の学業の影響で家族は名古屋に在住、ドゥンガは単身赴任の形で磐田に在住する形となり、地元に馴染むために祭りなどにも参加していた。

個人成績

数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。

クラブ

クラブシーズン年齢ディビジョンリーグ国内カップ1リーグカップ2大陸大会3シーズン通算
出場得点出場得点出場得点出場得点出場得点
ブラジルインテルナシオナル198218カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA10——————10
198319カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA40——————40
198420カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA50——————50
通算100——————100
ブラジルコリンチャンス198521カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA131——————131
ブラジルサントス198622カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA161——————161
ヴァスコ・ダ・ガマ198723カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA171——————171
イタリアピサ1987-8823セリエA23261————293
イタリアフィオレンティーナ1988-8924セリエA30381————384
1989-9025セリエA28021——110411
1990-9126セリエA33161————392
1991-9227セリエA33441————375
通算12482040011015512
イタリアペスカーラ1992-9328セリエA233——————233
ドイツVfBシュトゥットガルト1993-9429ブンデスリーガ274——————274
1994-9530ブンデスリーガ264——————264
通算538——————538
日本ジュビロ磐田199531J1リーグ25120————271
199632J1リーグ20410130——344
199733J1リーグ26500111——376
199834J1リーグ2860000——286
通算991630241——12617
ブラジルインテルナシオナル199935カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA151——————151
キャリア通算3934129524111045747

1. 国内カップ戦(コパ・デル・レイ、FAカップ、天皇杯など) 2. リーグカップ(EFLカップ、JリーグYBCルヴァンカップなど) 3. 大陸大会(UEFAチャンピオンズリーグ、AFCチャンピオンズリーグなど) 年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

代表

ブラジル としての年別成績です。親善試合を含みます。

年年齢出場得点得点グラフ
19872341
19882400
198925150
19902661
19912700
19922800
199329131
199430131
199531141
19963200
199733171
19983490
通算916

年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

所属チーム

クラブ

期間年齢チーム
1980〜198416ブラジルインテルナシオナル
198521ブラジルコリンチャンス
198622ブラジルサントス
198723ブラジルヴァスコ・ダ・ガマ
1987〜198823イタリアピサ
1988〜199224イタリアフィオレンティーナ
1992〜199328イタリアペスカーラ
1993〜199529ドイツVfBシュトゥットガルト
1995〜199831日本ジュビロ磐田
199935ブラジルインテルナシオナル

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

代表

期間年齢チーム
1987〜199823ブラジルブラジル

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

監督

在任年齢チーム役職
2006〜201042ブラジルブラジル監督
2008〜200844ブラジルブラジル U-23監督
2011〜201247カタールアル・ラーヤン監督
2013〜201349ブラジルインテルナシオナル監督
2014〜201650ブラジルブラジル監督

移籍金・年俸・市場価値の推移

移籍履歴

掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。

時期年齢移籍元移籍先形態移籍金備考
198521ブラジルインテルナシオナルブラジルコリンチャンス移籍—形態・移籍金は未確認
198622ブラジルコリンチャンスブラジルサントス移籍—形態・移籍金は未確認
198723ブラジルサントスヴァスコ・ダ・ガマ移籍—形態・移籍金は未確認
198723ヴァスコ・ダ・ガマイタリアピサ移籍—形態・移籍金は未確認
198824イタリアピサイタリアフィオレンティーナ移籍—形態・移籍金は未確認
199228イタリアフィオレンティーナイタリアペスカーラ移籍—形態・移籍金は未確認
199329イタリアペスカーラドイツVfBシュトゥットガルト移籍—形態・移籍金は未確認
199531ドイツVfBシュトゥットガルト日本ジュビロ磐田移籍—形態・移籍金は未確認
199935日本ジュビロ磐田ブラジルインテルナシオナル移籍—形態・移籍金は未確認

※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。

出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認

人物相関

所属履歴と出場記録から機械的に算出しています。個人の交友関係についての評価は含みません。

指導を受けた監督

本人の在籍期間と監督の在任期間の重なりから算出しています。取得元(API-Football)に在任期間の登録がある監督だけが対象で、古い年代の監督は登録が無いため出ていません。

監督クラブ・代表在任
ルイス・フェリペ・スコラーリ日本ジュビロ磐田1997年7月〜1997年12月

タイトル

クラブ

その他

ブラジル代表(選手)

ブラジル代表(監督)

個人

英語の記録名しか確認できないもの(21件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。

獲得メダル

代表チームで獲得したメダルです(金8・銀3・銅1)。当サイトの大会結果データとも照合し、食い違いがあれば掲載しません。

FIFAワールドカップ金 1994 アメリカ銀 1998 フランス
FIFAコンフェデレーションズカップ金 1997 サウジアラビア金 2009 南アフリカ
コパ・アメリカ金 1989 ブラジル金 1997 ボリビア金 2007 ベネズエラ銀 1995 ウルグアイ
オリンピック銀 1984 ロサンゼルス銅 2008 北京
FIFA U-20ワールドカップ金 1983 メキシコ
南米U-20選手権金 1983 ボリビア

出典は英語版 Wikipedia の「メダル獲得記録(Medal record)」節(記事名・版 ID・取得日は「出典」節に記載)。W杯は当サイトの大会結果データでも一致を確認しています。

英語の記録名しか確認できないもの(1件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。

本文の一部は、ウィキペディア日本語版「ドゥンガ」(版 111236383)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。

出典

  1. Wikidata、2026年10月26日 取得 https://www.wikidata.org/
  2. Wikipedia(日本語版)「ドゥンガ」、版 ID 111236383、2026年10月14日 取得 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%B3%E3%82%AC
  3. Wikipedia(英語版)、版 ID 1374250879、2026年10月14日 取得 https://en.wikipedia.org/wiki/Dunga

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