小笠原満男

SOCCERPEDIA / 選手ページ / 日本のサッカー選手 / 最終更新:2026年9月1日


概要

日本小笠原満男(Mitsuo Ogasawara、1979年4月5日生)は、日本出身の元サッカー選手。ポジションはMF(ミッドフィールダー)。日本では2002年から通算55試合7得点を記録している。クラブでは公式戦通算732試合96得点(1998 シーズン以降)。クラブ・代表で通算9個のタイトルを獲得、個人賞は4回。

小笠原 満男(おがさわら みつお、1979年4月5日 - )は、岩手県盛岡市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー(MF)。元日本代表。2009年シーズンJリーグ最優秀選手賞受賞。

クラブ経歴

プロ入り以前

岩手県盛岡市に生まれ、地元の太田東サッカー少年団に入団しサッカーを始める。6年生の時に第15回全日本少年サッカー大会にチームのキャプテンとして出場している。

1995年、斎藤重信監督率いる岩手県立大船渡高等学校に進学し、斎藤の家で下宿生活を送る。“東北のファンタジスタ”と言われ天才派選手 として注目され、U-16日本代表に初招集されてからは年代別日本代表に選出される。

1997年、第76回全国高等学校サッカー選手権大会に出場し、ベスト16進出の原動力となり大会優秀選手に選出された。高校選抜でチームを組んだ日本代表に選出され、第58回ベリンツォーナ国際ユース大会等に出場した。

鹿島アントラーズ

1998年、高校卒業後に鹿島アントラーズに加入。同期は本山雅志、中田浩二、曽ヶ端準、山口武士、中村祥朗。4月15日の対ガンバ大阪戦でJリーグデビュー。

1999年、5月5日のジュビロ磐田戦でヘディングシュートでJリーグ初得点を記録。

2000年、レギュラーに定着して活曜。ナビスコカップ優勝、Jリーグ優勝、天皇杯優勝と、鹿島のJリーグ史上初の3冠獲得達成に貢献した。J1第1ステージ最終節でハーフライン付近から放ったシュートは、クロスバーに当たってゴールとはならなかった。チャンピオンシップ第2戦の試合中にビスマルクとフリーキックのキッカーを巡って揉め、名良橋晃の説得によりビスマルクがキッカーを譲る一幕があり、小笠原の蹴ったフリーキックは惜しくも外れてしまった。Jリーグチャンピオンシップ、天皇杯の両大会においてMVPに選出された。2001年1月1日に行われた天皇杯決勝の清水エスパルス戦では、先制点と、Vゴールとなるビスマルクからのパスをボレーで合わせるミドルシュートを延長前半に決めて3対2で勝利し、チームを優勝に導いた。先制点となったフリーキックは、主審に守備側の壁を適正な位置へ移動させるためのプレーの停止を要請せず、清水の選手たちが態勢を整える前にボールを蹴りこむという頭脳プレーだった。このVゴールはAFC月間最優秀ゴール賞に選ばれた。

2001年、背番号を17から8に変更。5月の柏レイソル戦で左肘を骨折するものの8月に復帰し、チャンピオンシップ第2戦のジュビロ磐田戦においては、延長戦10分にVゴールとなる直接FKを決めてリーグ連覇に貢献し、2年連続でチャンピオンシップMVPを獲得。この年、Jリーグベストイレブンに初選出され、以後2005年まで連続で選出された。

2002年、ナビスコカップ優勝に貢献して大会MVPを獲得。2003年のシーズン終盤、当時ゲームキャプテンを務めていた秋田豊から、「全部背負ってみろ」とキャプテンマークを託された。これ以降、柳沢敦が主将に就任するまで、小笠原がゲームキャプテンを務めることになった。

2005年シーズン途中にイタリア・セリエAのレッチェからのオファーを受け移籍を志願したが、優勝争いをしている最中ということもあり、クラブがオファーを断り破談に終わった。交渉が決裂した直後の19節広島戦はメンバー外となった。第24節神戸戦では初めてボランチとしてスタメン出場した。このシーズンはMFながら11得点と自己最多得点記録を大幅に更新した。

2006年7月15日にカシマサッカースタジアムで開催されたJリーグオールスターサッカーに、史上最多得票で選出された。

FCメッシーナ

2006年8月、セリエAのFCメッシーナへ2007年6月まで10ヶ月間のレンタル移籍することが発表され、以前から望んでいた海外への初挑戦となった。9月20日の対レッジーナ戦において後半8分から途中交代で出場しセリエAデビューを果たした。10月21日のエンポリ戦でセリエA初ゴールを記録した。その後は出場のチャンスに恵まれることがなく、ほとんどの試合でベンチ外を強いられた。

小笠原自身は後に、セリエAでの一年間を通してボランチとしての守備力を磨き、人間としても成長することができたと述懐している。

鹿島アントラーズ復帰

2007年7月3日にレンタル移籍終了で鹿島への復帰が発表された。背番号は40を選択、これは過去に背負った8番を野沢拓也が付けていたため、当時のJリーグ規定における最大数の背番号を選んだもの。7月15日のサンフレッチェ広島戦(ナビスコカップ)で323日ぶりの復帰戦を勝利で飾った。鹿島復帰後は主にボランチとして攻守ともにチームの要となり、チームの6シーズンぶりのリーグ優勝に貢献。12月1日の対清水戦のPKによる得点でJリーグ通算50得点を達成した。

2008年、元日に行われた天皇杯決勝に出場し優勝に貢献。この年主将に就任し、AFCチャンピオンズリーグ2008では、規定により30を超える背番号が認められないため、かつて本田泰人が背負っていた背番号「6」を着けて出場した。4月2日に対アルビレックス新潟戦で、日本及びイタリアリーグ通算10シーズン連続得点を達成した。 9月20日、対柏レイソル戦で左膝半月板損傷及び前十字靱帯を損傷し、全治10ヶ月という怪我を負った。一時は引退を考える程の怪我であったが、手術後はチームを盛り上げるために、異例の早い時期でのピッチ内リハビリを開始したり、シーズン終盤の優勝争いでは、ホペイロにベンチ外メンバーのユニフォームを試合会場に持ってきてもらうように頼み、試合開始前の円陣に全員がユニフォームを着て参加 するよう呼びかけるなど、ピッチ外から鹿島のリーグ連覇を支えた。全国高校サッカー選手権大会のイメージキャラクターに選ばれ、CM出演や雑誌へのコメントなどのPRに努めた。

2009年シーズン開幕に向けて、フィジカルコーチにリハビリに協力してほしいと頼み込み、コーチの年末年始のオフを短縮してもらってリハビリに取り組んだ結果、キャンプ初日から主力組で練習を開始することができた。優勝を飾ったゼロックススーパーカップには出られなかったが、3月7日のJリーグ開幕戦の対浦和レッズ戦において、2-0でリードしている後半41分から途中出場、168日ぶりの復帰を果たした。この試合を含め公式戦3試合連続途中出場後の3月18日、ACL第2戦の対上海申花戦において公式戦での179日ぶり先発出場と182日ぶりのフル出場を果たし、勝利に貢献した。4月22日ACL・シンガポール・アームド・フォーシズ戦で268日ぶりの公式戦ゴールを決め、5月2日対ジェフ千葉戦でリーグ戦279日ぶりの得点をPKで決めた。8月8日のJOMO CUPにJリーグ選抜メンバーに選出され、試合前に選手間投票によりキャプテンとして出場した。チームはJリーグ史上初の3連覇を果たし、自身は2005年以来のフル稼働となった。12月、JリーグアウォーズにてJリーグ最優秀選手賞を受賞した。

2010年元日に行われた天皇杯決勝に出場し優勝に貢献。2月8日、全国のサッカー担当記者の投票により決められる2009年度の日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を初受賞した。

2011年3月18日から5日間東日本大震災の被害を受けた地元岩手で支援活動を行う。3月29日サッカー復興支援チャリティーマッチ、日本代表対Jリーグ選抜にJリーグ選抜として出場。以降、積極的に被災地を訪れ支援活動を行っている。5月31日東北地方におけるサッカー復興のために、東北人魂を持つJ選手の会を立ち上げた。

2012年7月14日対セレッソ大阪戦において2006年4月2日の大宮戦以来、約6年3カ月ぶりの通算13得点目の直接FK弾を決め、歴代4位に浮上した。

2014年8月23日の清水戦で、J1新記録となるリーグ戦16シーズン連続得点を達成。

2018年、1998年のJリーグ優勝から国内とアジアで出来る優勝を鹿島で経験していたが、唯一取れていなかったAFCチャンピオンズリーグを優勝。セレモニーでは、ゲームキャプテンであった昌子源がトロフィーを受け取るも、小笠原に最初にトロフィーを掲げる役を譲った。12月27日、2018年シーズン限りでの現役引退を表明した。

2019年10月24日に開催されたJリーグ理事会において同年開催のJリーグアウォーズでJリーグ功労選手賞の授与が決定した。

代表経歴

日本代表

1998年、U-19日本代表としてAFCユース選手権1998に出場し準優勝に貢献。

1999年、U-20日本代表として1999 FIFAワールドユース選手権に全試合出場し、1次リーグのアメリカ戦で1得点を決めるなど準優勝に貢献した。U-22日本代表にも選出されるが、監督のフィリップ・トルシエからプレー中におけるコミュニケーションの乏しさを指摘され、9月にスタメン出場した韓国との親善試合を最後に招集外となった。

2002年、3月21日の対ウクライナ戦でフル代表デビュー。22歳で2002 FIFAワールドカップ日本代表にも選出され、グループリーグ第3戦の対チュニジア戦で、6分間という短時間ではあったがワールドカップ初出場を果たした。

2004年2月7日、キリンチャレンジカップの対マレーシア戦で代表初得点を記録。その直後の2月9日、茨城県鹿嶋市で行われていた代表合宿中に、他7人の選手と共に無断外出してキャバクラで飲食し、問題を起こしていたことが発覚。代表監督であったジーコは「裏切り行為と感じた」として小笠原ら8人を代表から外した。

2005年、ワールドカップ・アジア最終予選の北朝鮮戦とバーレーン戦で得点をあげるなど、日本のアジア予選突破に貢献した。

2006年6月、自身2度目のワールドカップとなる2006 FIFAワールドカップ日本代表に選出された。グループリーグ第2戦の対クロアチア戦にフル出場し、さらに第3戦の対ブラジル戦にも先発出場したが、2敗1分で決勝トーナメント進出はならなかった。

その後、イビチャ・オシム体制においては全く召集されなくなり、岡田武史体制に代わった2010年2月2日、キリンチャレンジカップ・対ベネズエラ戦にて1321日ぶりの日本代表復帰を果たした。リーグでは好調を維持していたが、2010 FIFAワールドカップでは予備登録メンバーに選出されるに留まった。

プレースタイル

プレースタイル

Jリーグ屈指のゲームメーカー。90分のゲームの中の変化、行く、抑える、堪えるという判断力に優れている。 パス、シュートにおける多彩なキックを使い分けて攻撃を司る。プレースキックの精度も高く、直接FKによるJリーグでの通算得点13点は歴代4位タイであり、2005年には年間直接FKゴール数歴代3位の4本の直接フリーキックを挙げている。高さはないが、体幹の強さを生かして周囲の激しいプレスを跳ね除けるボールキープ力、そしてボール奪取能力に優れている。勝利への意志が非常に強い。

個人成績

数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。

クラブ

クラブシーズン年齢ディビジョンリーグ国内カップ1リーグカップ2大陸大会3その他4シーズン通算
出場得点出場得点出場得点出場得点出場得点出場得点
日本鹿島アントラーズ199818J1リーグ50210021——92
199919J1リーグ1541050——00214
200020J1リーグ283545241204410
200121J1リーグ2473230——313310
200222J1リーグ27450316010425
200323J1リーグ277433130314012
200424J1リーグ2873020————337
200525J1リーグ30112000————3211
200626J1リーグ2030021————224
イタリアACRメッシーナ2006/07—セリエA6120——————81
日本鹿島アントラーズ200727J1リーグ1445131————226
200828J1リーグ24500207110346
200929J1リーグ323402171——455
201030J1リーグ33350216110475
201131J1リーグ311103060——411
201232J1リーグ3124070——10432
201333J1リーグ3323050——10422
201434J1リーグ3321040————382
201535J1リーグ291005050——391
201636J1リーグ3006040——80480
201737J1リーグ17030204010270
201838J1リーグ14020106010240
キャリア通算53170591163856523273296

1. 国内カップ戦(コパ・デル・レイ、FAカップ、天皇杯など) 2. リーグカップ(EFLカップ、JリーグYBCルヴァンカップなど) 3. 大陸大会(UEFAチャンピオンズリーグ、AFCチャンピオンズリーグなど) 4. 国内スーパーカップ・国際大会・プレーオフなど(UEFAスーパーカップ、FIFAクラブワールドカップ、リーグスカップ等) 年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

代表

日本 としての年別成績です。親善試合を含みます。

年年齢出場得点得点グラフ
20022280
20032380
200424122
200525154
200626101
20072700
20082800
20092900
20103020
通算557

年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

所属チーム

ユース

期間年齢チーム
1995〜199715日本岩手県立大船渡高等学校

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

クラブ

期間年齢チーム出場得点
1998〜201818日本鹿島アントラーズ1597
2006〜200726イタリアACRメッシーナ——

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は国内リーグ戦の合計で、カップ戦・大陸大会を含む内訳は「個人成績」の表にあります。

代表

期間年齢チーム
199515日本日本 U-17
1998〜199918日本日本 U-20
199919日本日本 U-23
2002〜201022日本日本

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

移籍金・年俸・市場価値の推移

移籍履歴

掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。

時期年齢移籍元移籍先形態移籍金備考
199818岩手県立大船渡高等学校日本鹿島アントラーズ移籍—形態・移籍金は未確認
200626日本鹿島アントラーズイタリアACRメッシーナ期限付き移籍—期間・移籍金は未確認

※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。

出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認

人物相関

所属履歴と出場記録から機械的に算出しています。個人の交友関係についての評価は含みません。

共にプレーした選手

同じクラブ・同じシーズンに両者とも出場記録がある選手を、シーズン数の多い順に並べています。取得元(API-Football)のシーズン名簿は 2010-11 シーズン以降しか無いため、それ以前に一緒にプレーしたシーズンは数に入りません。

選手クラブ期間シーズン 
青木剛日本鹿島アントラーズ2012〜20165
本山雅志日本鹿島アントラーズ2012〜20154
鈴木優磨日本鹿島アントラーズ2015〜20184
町田浩樹日本鹿島アントラーズ2016〜20183
中田浩二日本鹿島アントラーズ2012〜20143
大迫勇也日本鹿島アントラーズ2012〜20132
内田篤人日本鹿島アントラーズ20181

タイトル

クラブ

鹿島アントラーズ

英語の記録名しか確認できないもの(12件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。

獲得メダル

代表チームで獲得したメダルです(金1・銀1)。当サイトの大会結果データとも照合し、食い違いがあれば掲載しません。

AFCアジアカップ金 2004 中国
FIFA U-20ワールドカップ銀 1999 ナイジェリア

出典は英語版 Wikipedia の「メダル獲得記録(Medal record)」節(記事名・版 ID・取得日は「出典」節に記載)。W杯は当サイトの大会結果データでも一致を確認しています。

英語の記録名しか確認できないもの(1件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。

本文の一部は、ウィキペディア日本語版「小笠原満男」(版 108806262)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。

出典

  1. API-Football(選手・監督データ)、2026年10月25日 取得 https://www.api-football.com/
  2. Wikidata、2026年10月25日 取得 https://www.wikidata.org/
  3. Wikipedia(日本語版)「小笠原満男」、版 ID 108806262、2026年10月14日 取得 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%BA%80%E7%94%B7
  4. Wikipedia(英語版)、版 ID 1310843778、2026年10月14日 取得 https://en.wikipedia.org/wiki/Mitsuo_Ogasawara

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