中田浩二

SOCCERPEDIA / 選手ページ / 日本のサッカー選手 / 最終更新:2026年9月1日


概要

日本中田浩二(Koji Nakata、1979年7月9日生)は、日本出身の元サッカー選手。ポジションはMF(ミッドフィールダー)。日本では2000年から通算57試合2得点を記録している。クラブでは公式戦通算445試合50得点(1998 シーズン以降)。クラブ・代表で通算21個のタイトルを獲得、個人賞は2回。

中田 浩二(なかた こうじ、1979年7月9日 - )は、滋賀県滋賀郡志賀町(現:大津市)出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー(ボランチ)、ディフェンダー(センターバック、左サイドバック)。元日本代表。

クラブ経歴

プロ入り前

滋賀県大津市出生。小学校低学年のころは父親の転勤の関係で転校を繰り返しており、サッカーを始めたのは神奈川県横浜市の横浜市立南戸塚小学校2年の時である。小学校3年の時、鳥取県米子市の米子市立義方小学校に転校し、そこで本格的にサッカーを始めるようになる。小学校5年の時、全日本少年大会に出場する。米子市の米子市立後藤ヶ丘中学校に進学し、中学3年の時に全国中学校大会に出場する。2年の時に中国選抜として選抜中国大会に出場する。中学校までのポジションはFWで、左足の怪物として地元紙にも取り上げられるほどの存在となる。

帝京高校では、2学年上には依田光正、松波和幸(松波正信の弟)、留学生の吉成大 と江田広(共にペルー人)、同学年には木島良輔、貞富信宏、藤田芳正がいた。進学後はBチームに入れられるなど決して順調ではなかったものの、ボランチに転向し、頭角を現す。3年生のときにキャプテンとして全国高校サッカー選手権に出場し、決勝では後に鹿島アントラーズでチームメイトとなる本山雅志擁する東福岡高校に敗れたものの、準優勝を収める。この試合は雪深い国立競技場で行われ、試合中に転倒する選手が続出した。また試合球として、白い雪の中でも目立つオレンジ色のボールが採用されるなど、後々まで語り継がれる試合となった。

クラブ ― 鹿島アントラーズ(1998-2004年)

1998年、Jリーグの鹿島アントラーズに入団(同期は小笠原満男、本山雅志、曽ヶ端準、山口武士、中村祥朗)。同い年の小笠原、本山とともに中盤を担い、チームの多くのタイトル獲得に貢献した。鹿島ではリーグ優勝2回、天皇杯優勝1回、ナビスコカップ優勝1回を経験している。2003年8月の大分トリニータ戦で左ひざ靭帯断裂の大ケガを負い、長期戦線離脱を余儀なくされた。2004年5月、柏レイソル戦で259日ぶりの試合復帰を果たした。

クラブ ― オリンピック・マルセイユ(2005年)

2005年1月、元日本代表監督のフィリップ・トルシエが監督をしているフランス1部リーグのオリンピック・マルセイユの練習に参加する。マルセイユ側は中田の獲得を打診するが、提示された移籍金が低額だったため、鹿島側は中田の移籍を認めなかった。同時期、中田との契約切れが迫っていた鹿島は来季以降の契約更新を申し出るが、中田本人が海外移籍を希望していたため断り続ける。その後、契約切れとなりフリーの立場で同年1月26日にマルセイユに移籍した。所属クラブの意向を無視した移籍ゆえに円満移籍とはならなかった。

移籍当初はそこそこ出場機会はあったが、不慣れな左サイドバック、ライバルチームであるPSG戦でのオウンゴール、トルシエ監督の解任により出場機会が激減。守備的MFだけでなくDFもこなせるため出場が期待されたが、イスラエル・プレミアリーグのベイタル・エルサレムFCからの数億単位の移籍話を蹴ったことでフロントとの関係が悪化、その結果、事実上戦力外にされてしまう。

クラブ ― FCバーゼル(2006-2008年)

2006年、出場機会を求めてクラブに移籍を申し出る。古巣の鹿島にも打診したが、「移籍金0円なら獲得する」という回答だった。イスラエル、ウクライナのクラブからオファーが届くもいずれも断り、スイスリーグの名門FCバーゼルの練習に参加し、その後正式契約を結んだ。

2006-07シーズンは、海外のクラブに所属している日本人選手としては珍しく、センターバックとしてレギュラーに定着した。10月のザンクト・ガレン戦で鼻を骨折して途中交代するまでは、19試合連続でフル出場していた。中田の加入以降、バーゼルは2005-06、2006-07シーズンと2シーズン連続で勝ち点1差で優勝を逃すが、2007年5月にはスイスカップに優勝。バーゼルでの初タイトルを獲得した。

2007年6月に代表戦に出るために帰国した際に、人気女優加藤あいと超遠距離恋愛をしていた事が発覚する(2008年7月に加藤と破局と報道される)。

その前後、古巣・鹿島が優勝を目指す為に中田にオファー。中田自身は鹿島が必要としているなら復帰する意思があると伝えたが、鹿島の提示金1億円に対して「中田は必要な選手」とするバーゼルの提示金3億円(ともに推定)では大きな開きがあり、このときは移籍断念となった。

翌2007-08シーズン、バーゼルは悲願のリーグ優勝を果たし、スイスカップも連覇して二冠を獲得。中田も負傷離脱した時期を除き不動のレギュラーとして活躍したが、この頃にはバーゼルの慰留にもかかわらず、中田の鹿島復帰の意思は公然とマスコミに取り上げられるようになった。2008年4月、スイスリーグの終了を待たずして、バーゼルとの契約終了後に鹿島へ移籍することが正式発表された。同年7月より、およそ3年半ぶりにJリーグでプレーすることになった。

クラブ ― 鹿島アントラーズ(2008年7月-2014年)

鹿島復帰後はユーティリティー性を買われ、ボランチ、左サイドバック、センターバックと主に3つのポジションでプレー。しかし膝の怪我の影響か全盛期の身体のキレは全く見られず、1対1で簡単に振り切られる場面が多々見られた。10月に膝の再手術に踏み切ったことにより残りシーズンを全休。チームは連覇を達成したものの、中田本人にとっては公式戦わずか12試合の出場に留まり、不本意なシーズンとなってしまった。2009シーズン当初は青木剛にポジションを譲り、控えに甘んじていたが、チームが失速した夏場以降、出場機会が増えた。

2011年シーズン当初は増田誓志の復帰、本田拓也、柴崎岳の加入でボランチの層が厚くなり、大岩剛の引退で層が薄くなったセンターバックで伊野波雅彦と併用にされていたが、しだいにセンターバックのレギュラーに定着、その後、伊野波は移籍をした。

2013年は新井場徹が移籍した左サイドバックの層が薄くなったため、前野貴徳とポジションを争ってこの位置に立った。

2014年12月3日、2014シーズンをもって現役引退が発表された。チームは最終節まで優勝争いをしていたこともあり、発表直後の12月6日のJ1第34節サガン鳥栖戦もメンバー入りは叶わなかった。

引退後

2015年1月14日、鹿島のクラブスタッフとしてクラブ・リレーションズ・オフィサー(C.R.O)に就任。CROはクラブを運営するにあたって連携が必要な協賛企業・団体や行政機関、更に地元市民などの利害関係者(ステークホルダー)とチームをつなぐことを目的として、ビジネス面においてのサッカー事業に重点を置き、クラブ運営をサポートする責務を負う。また同4月より左記のままでテレビ朝日「やべっちFC」のレギュラーコメンテーター(中山雅史と原則隔週交互出演)に就任した。2018年4月には筑波大学の大学院へ入学した。

代表経歴

日本代表 ― トルシエ監督時代

1999年のワールドユースの大会直前に、レギュラーDFと目されていた鹿島のチームメイト金古聖司が負傷し、当時の監督フィリップ・トルシエによってDFにコンバートされた。中田はこの大会で全試合に左センターバックとして出場し、日本は準優勝した。

オリンピック代表でもレギュラーに定着し、2000年にシドニーオリンピックに出場。グループリーグ3戦目のブラジル戦でルーカス・セベリーノによって負傷させられ、その後の試合には出場できなかった。

A代表でのデビュー戦は2000年2月5日のメキシコ戦。2002年FIFA日韓ワールドカップで4試合すべてにフル出場、日本のベスト16に貢献したが、ベスト16のトルコ戦では自陣で相手選手へパスしてしまい、その後の相手のパスは防いだもののCKを献上、そのCKで失点した。

バランス感覚と正確なロングフィード、時にはサイドバックのようなオーバーラップで、トルシエの提唱するフラット3の左のDFというポジションをつかみ、トルシエ監督下、最もコンスタントに試合に出場した選手の一人である。

日本代表 ― ジーコ監督時代

ジーコが日本代表監督に就任すると、本来のボランチとして出場するようになった。トルシエ時代より出場機会は減ったが、主要大会のメンバーには毎回選出された。

2004年7月アジアカップ準々決勝ヨルダン戦では、外すと負けというピンチからPK戦4人目としてシュートを成功させる。準決勝、決勝と2試合連続でゴールを挙げて、日本は大会を2連覇した。2006年ワールドカップ・ドイツ大会では、3戦目のブラジル戦に途中出場した。

日本代表 ― オシム監督時代

2006年ワールドカップ後に就任したイビチャ・オシム監督のもとでは、欧州のクラブに属している選手がコンディションを崩さないようにという配慮のため、しばらく日本代表への招集は見送られていたものの、代表収集の条件となる“所属クラブでのレギュラー定着゛を果たしている事や、オシム監督が選手に求める“ポリバレント”な能力を持ち合わせている為、日本代表への復帰の可能性も高いと見られていた。2007年6月のキリンカップでオシムジャパン発足後初選出された。

個人成績

数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。

クラブ

クラブシーズン年齢ディビジョンリーグ国内カップ1リーグカップ2大陸大会3シーズン通算
出場得点出場得点出場得点出場得点出場得点
日本鹿島アントラーズ199818—510000——51
199919—1742010——204
200020—2945222——368
200121—2583160——349
200222—2965030——376
200323—183——2230235
200424—2113220——263
通算144271851643018136
フランスオリンピック・マルセイユ2004-0525—50——————50
2005-0626—40——1050100
通算90001050150
スイスFCバーゼル2005-0626—101——————101
2006-0727—34150——90481
2007-0828—18121——50252
通算6237100140834
日本鹿島アントラーズ200828—90——1020120
200929—221401020291
201030—323611062456
201131—262103061363
201232—500020——70
201333—2502060——330
201434—300010——40
通算122613115016316610
キャリア通算3373638732438344550

1. 国内カップ戦(コパ・デル・レイ、FAカップ、天皇杯など) 2. リーグカップ(EFLカップ、JリーグYBCルヴァンカップなど) 3. 大陸大会(UEFAチャンピオンズリーグ、AFCチャンピオンズリーグなど) 年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

代表

日本 としての年別成績です。親善試合を含みます。

年年齢出場得点得点グラフ
20002070
200121130
200222130
20032370
20042462
20052580
20062620
20072710
通算572

年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

所属チーム

ユース

期間年齢チーム
1995〜199715日本帝京高校

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

クラブ

期間年齢チーム出場得点
1998〜200418日本鹿島アントラーズ——
2005〜200625フランスオリンピック・マルセイユ——
2006〜200826スイスFCバーゼル——
2008〜201428日本鹿島アントラーズ300

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は国内リーグ戦の合計で、カップ戦・大陸大会を含む内訳は「個人成績」の表にあります。

代表

期間年齢チーム
199919日本日本U-20
200020日本日本U-23
2000〜200720日本日本

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

移籍金・年俸・市場価値の推移

移籍履歴

掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。

時期年齢移籍元移籍先形態移籍金備考
199818帝京高校日本鹿島アントラーズ移籍—形態・移籍金は未確認
200525日本鹿島アントラーズフランスオリンピック・マルセイユ移籍—形態・移籍金は未確認
200626フランスオリンピック・マルセイユスイスFCバーゼル移籍—形態・移籍金は未確認
200828スイスFCバーゼル日本鹿島アントラーズ移籍—形態・移籍金は未確認

※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。

出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認

人物相関

所属履歴と出場記録から機械的に算出しています。個人の交友関係についての評価は含みません。

共にプレーした選手

同じクラブ・同じシーズンに両者とも出場記録がある選手を、シーズン数の多い順に並べています。取得元(API-Football)のシーズン名簿は 2010-11 シーズン以降しか無いため、それ以前に一緒にプレーしたシーズンは数に入りません。

選手クラブ期間シーズン 
小笠原満男日本鹿島アントラーズ2012〜20143
本山雅志日本鹿島アントラーズ2012〜20143
青木剛日本鹿島アントラーズ2012〜20143
大迫勇也日本鹿島アントラーズ2012〜20132

タイトル

クラブ

鹿島アントラーズ

英語の記録名しか確認できないもの(10件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。

獲得メダル

代表チームで獲得したメダルです(金1・銀1)。当サイトの大会結果データとも照合し、食い違いがあれば掲載しません。

AFCアジアカップ金 2004 中国
FIFAコンフェデレーションズカップ銀 2001 日韓

出典は英語版 Wikipedia の「メダル獲得記録(Medal record)」節(記事名・版 ID・取得日は「出典」節に記載)。W杯は当サイトの大会結果データでも一致を確認しています。

本文の一部は、ウィキペディア日本語版「中田浩二 (サッカー選手)」(版 110362219)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。

出典

  1. API-Football(選手・監督データ)、2026年10月25日 取得 https://www.api-football.com/
  2. Wikidata、2026年10月25日 取得 https://www.wikidata.org/
  3. Wikipedia(日本語版)「中田浩二 (サッカー選手)」、版 ID 110362219、2026年10月14日 取得 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%94%B0%E6%B5%A9%E4%BA%8C_%28%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E9%81%B8%E6%89%8B%29
  4. Wikipedia(英語版)、版 ID 1363287753、2026年10月14日 取得 https://en.wikipedia.org/wiki/K%C5%8Dji_Nakata

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