田中マルクス闘莉王

SOCCERPEDIA / 選手ページ / 日本のサッカー選手 / 最終更新:2026年9月1日


概要

日本田中マルクス闘莉王(Marcus Tulio Tanaka、1981年4月24日生)は、ブラジル出身の元サッカー選手。ポジションはDF(ディフェンダー)。日本では2006年から通算43試合8得点を記録している。クラブでは公式戦通算620試合125得点(2001 シーズン以降)。クラブ・代表で通算10個のタイトルを獲得、個人賞は12回。

田中 マルクス 闘莉王(たなか マルクス トゥーリオ、ブラジル名:マルクス・トゥーリオ・リュージ・ムルザニ・タナカ;Marcus Túlio Lyuji Murzani Tanaka、1981年4月24日 - )は、ブラジル・サンパウロ州パルメイラ・ド・オエスチ出身の元プロサッカー選手、YouTuber。現役時代のポジションはディフェンダー(センターバック)だったが、フォワードとして起用されることもあった。元日本代表。

父親が日系ブラジル人で、母親がイタリア系ブラジル人。2003年に日本に帰化した。2006年のJリーグ最優秀選手賞(MVP)受賞者。

クラブ経歴

生い立ち

生まれて初めて喋った言葉は「ママイ(お母さん)」「パパイ(お父さん)」「ボーラ(ボール)」だったという。その言葉どおり、物心ついたときには既にボールを蹴っていた。

1989年1月、オレステス小学校入学。当時の担任教師によれば「優しい子で、困っている友達を見ると放っておけない性格だった」「勉強が得意で、努力家で、学業成績が良かった。水泳も得意で、学校の水泳大会ではいつも優勝していた。」という。ただし本人は「数学は得意だったけど、国語は苦手だった。友達と喧嘩することも多かった」と回想した。サッカーを本格的に始めたのは9歳の時で、ボランティア活動で子どもたちにサッカーを教えていたコーチが近所に引っ越してきたことがきっかけ。そのサッカー教室へ通い上達していった。しだいに少年チームだけでは物足りずに父親の試合について行き、大人に混じってサッカーをすることもあった。

中学時代は「自分の人生に責任を持つ人間に育ってほしい」という父親の厳しい教育方針のもと、昼間は会計事務所で働き、夜間はオレステス中学校夜間部へ通う生活を送った。中学校では体育教師の熱心な勧誘でバレーボール部に所属してエースアタッカーとして活躍し、地区大会で優勝するほどであった。また数学教師の推薦でオレステス中学校代表としてブラジル数学オリンピックに出場し、全国大会にまで進んだ経歴も持つ。中学時代に本格的にサッカーをやっていなかったプロ選手はほとんど存在せず、この時期にサッカーから離れていたトゥーリオは非常に珍しい存在であった。

1997年、人に勧められて受けたミラソウFCのセレクションに合格し、その頃からプロサッカー選手を目指すようになった。その1ヶ月後の1998年1月、留学生を探しにミラソウFCを視察していた渋谷教育学園幕張高等学校のサッカー部監督・宗像マルコス望に才能を見出され、日本の高校への留学を誘われた。1998年3月、カバン1つだけを持参して16歳で来日した。日本語ができなかったことで大変な思いをし、日本に来て最初の1年間が人生で最も辛かったという。しかし、日本語も英語も必死に勉強したらしい。サッカーに関しては、本来は攻撃的ポジションの経験しかなかったが、宗像の意向でセンターバックにコンバートされた。ブラジルではトップ下か攻撃的MFを担当しており、それまでヘディングの練習はしていなかったため、毎日ヘディングの練習を繰り返した。ただし幼少期の乗馬の経験が、空中戦におけるバランス感覚やポジショニングに大きく役立ち、また中学時代のバレーボールの経験が、跳躍力とタイミング判断に大きく役立つことになった、と本人は回想した。個人としては千葉県選抜チームのメンバーに選出されて国体に出場し、全国優勝を果たした。サッカー部の一員としては、本人のフリーキックからのゴールが決勝点となり、サッカー部を初の全国高等学校サッカー選手権大会出場へ導くという実績を残した。

広島、水戸

2001年に高校を卒業し、祖父の勧めでサンフレッチェ広島に加入。2001年のJリーグ開幕戦、3月11日の鹿島アントラーズ戦、前半10分に負傷したポポヴィッチとの交代で出場しJリーグデビューを果たすと、16分にJリーグ初ゴールを決めた。2002年シーズンに広島がJ2に降格し、1年での昇格を目指すためクラブはベテランの外国籍選手を獲得することとなり、1チームにA登録選手が3人までと規定されていた外国籍選手の保有枠に入れず、翌2003年からJ2の水戸ホーリーホックに期限付き移籍で加入した。その水戸で、個性を大事にした監督の前田秀樹のもと、ディフェンダーでありながら10得点を挙げるなどの活躍をし、守備も攻撃もできる選手としての才能が開花することとなった。同年10月には日本国籍を取得して、登録名を「トゥーリオ」から「田中マルクス闘莉王」に変更した。

浦和レッズ

2004年に水戸へのレンタル保有元である広島からJ1の浦和レッズに完全移籍。レギュラーで活躍し、ステージ優勝を果たした。

2006年にはリーグ初優勝を果たし、Jリーグ最優秀選手賞 (MVP)および日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞した。

2007年にはAFCチャンピオンズリーグ優勝、FIFAクラブワールドカップ 3位に貢献し、浦和の黄金時代を築いた。2008年にはDFながらチーム得点王となる11得点を挙げるなど、以降も攻守にわたって浦和の軸として活躍した。Jリーグベストイレブンには、浦和に在籍した6シーズンすべて選出された。2008年7月17日の東京ヴェルディ1969戦でハットトリックを達成した。

一方で浦和入団の際にラブコールを出してくれたギド・ブッフバルトの退任以降に就任したホルガー・オジェック、フォルカー・フィンケら後任監督と相次いで衝突した。オジェックの後任監督のゲルト・エンゲルスとは良好な関係を築いており、解任に際して惜しむコメントを残している。

2009年8月にはベテラン選手をクラブから去らせるなどの方針を採った浦和のフロントとフィンケの方針に苦言を呈したが、状況は変わらなかった。浦和は契約更新を前提に、今後のチーム作りの方向性やクラブ内での約束事等を提示したが、合意に至らず、2009年シーズン終了後に契約満了により浦和を退団し名古屋グランパスへの完全移籍が決定した。欧州からもオファーが来ていたが、名古屋監督のドラガン・ストイコビッチからの「来年はワールドカップがあるから、日本でプレーするべきだ」というメッセージが最大の決め手となった。

名古屋グランパス

加入会見で「リーグ優勝できなければ名古屋に来た意味はない」と語った言葉通り、名古屋を初優勝へ導いた。最終ラインを巧みに統率して守備を安定させ、空中戦でも圧倒的な強さを発揮。さらに高精度のフィードを前線に配給して攻撃の起点になりながら、機を見て攻め上がりゴールにからむ決定的な仕事もこなした。その貢献度は大きく、「初優勝の最大の立役者」との評価を受けた。チームメイトの楢﨑正剛は、MVPは闘莉王である と評価し(実際に受賞したのは楢﨑)、名波浩は「勝ち点10以上を一人で持っている」と語った。しかし、「サッカー人生で一番重視していたワールドカップイヤーで、しかも名古屋に移籍して優勝すると公言したから100%以上の気持ちでやった」ことによる代償として、終盤戦には右膝と太腿裏を負傷し、リーグ優勝の瞬間にはピッチに立つことができなかった。

2011年は、シーズン前半は自身の怪我やAFCチャンピオンズリーグとの過密日程等によりチームの順位は低迷したが、故障から復帰すると順位を上げ、終盤は6連勝で最終節まで優勝争いをして2位となった。攻撃参加は自重して守備を引き締め、若手育成にも尽力した。12月にブラジルのボタフォゴからオファーを受けたが、名古屋側が絶対慰留の方針だったために、交渉は進まなかった。家族はブラジルへの移籍を希望したが、本人は名古屋の大黒柱としての責任感を理由に日本に残ることを決意した。

2012年6月に再びボタフォゴから好条件のオファーを受けたが、これを再び辞退して名古屋に残留した。FWとして起用された2012年8月4日のヴィッセル神戸戦では、DF登録選手として歴代初となる4得点を記録した。この年は2年連続得点王のジョシュア・ケネディが腰痛のため年間を通しての出場ができなかったため、ストイコビッチ監督はその代替役として闘莉王をFWとして起用することも多く、永井謙佑に次いでチーム2位となる9得点を挙げた。しかし、チームとしては最終成績が7位、総得点は前年の67(リーグ2位)から46(リーグ12位)にまで減少した。

2014年は、新たに監督に就任した西野朗から主将に任命された。この年は7得点を挙げ永井に次いでシーズンチーム得点数2位となったが、磐田との練習試合でピッチでイライラを爆発させた闘莉王は西野を「おっさん」呼ばわりした。

2015年シーズンも主将を2年連続で務め、シーズン後半にはFWとして6試合に出場した。シーズン通してレギュラーとして出場したが、大幅な減額での契約更新の打診には応じず、翌年1月9日に名古屋グランパス退団が発表された。

名古屋グランパス復帰

名古屋退団後はブラジルに帰り、無所属の期間が続いたが、2016年8月23日に降格圏内で低迷していた名古屋へ復帰する事を監督代行のボスコ・ジュロヴスキーが明言した後、同月26日に正式に発表された。9月10日に行われたJ1・2ndステージ第11節 アルビレックス新潟戦で公式戦293日ぶりのピッチに立った。試合は1-0で勝利し、クラブワースト記録の18戦勝ちなしだったチームを勝利へ導いた。闘莉王加入後にチームは残留圏内に順位を上げ、最終的には15位の新潟と勝ち点は並んだが得失点差でJ2降格が決定。シーズン終了後、翌年からのアドバイザー就任の打診を断り、11月7日、契約満了に伴って名古屋を退団した。

京都サンガF.C.

名古屋退団後は、一時ブラジルに帰国し、自身の力でチームを残留させられなかった事や、名古屋から迫られた形での退団となったことでのショックで引退も考えたが、京都サンガF.C.の強化部長らがブラジルまで直接訪ね、熱意を感じ2003年以来のJ2での戦いを決意した。

2017年1月6日に正式に京都へ加入する事が発表された。3月4日に行われた第2節の徳島ヴォルティス戦では、Jリーグ18ヶ月ぶりゴールとなる移籍後初得点を決めてシーズン初勝利に貢献。4月15日に行われた第8節の愛媛FC戦では、FWとして起用されハットトリックを達成。35歳11カ月22日でのハットトリックはJ2最年長記録を更新し、J1・J2・ルヴァン杯の得点を合わせるとJリーグ公式戦通算得点102得点になり、Jリーグ史上初のDF登録選手の100得点突破となった。同年はキャリアベストの15ゴールを決めた。

2018年10月13日の徳島ヴォルティス戦で決勝ゴールを決めたが、2018年の以降の試合と2019年はノーゴールに終わったため、この日のゴールが現役最後のゴールとなった。

2019年12月1日、現役を引退すると発表した。J1では395試合75ゴール、リーグカップで51試合13ゴール、J2では134試合29ゴールの通算成績を残した。

引退後、祖国・ブラジルに戻り、牧場を経営。約40㏊に馬20頭、肉牛50頭を育てている。その傍ら、2022 FIFAワールドカップのNHK総合テレビジョン、フジテレビジョンの中継において、スタジオコメンテーターを務めている。

代表経歴

世代別代表

クラブでの活躍が認められ、2003年10月に日本国籍を取得するとすぐに山本昌邦率いるU-23日本代表に選出された。2004年3月3日のアテネオリンピックアジア地区最終予選のアウェーでのレバノン戦では4-0のスコアで勝利し、続く3月5日のアウェーでのUAE戦も2-0のスコアで勝利した。しかし3月14日のバーレーン戦で左太腿裏肉離れを発症して途中交代となり、その後に日本はセットプレーから失点して敗れた。全治3 - 4週間と診断されたが本人の願いにより松葉杖をついて残り2試合に同行した。本大会のメンバーにも選出され、アテネオリンピックには3試合すべてに出場した。

A代表

上記のように、浦和では活躍していたものの、当時の日本代表監督のジーコの元では1度もA代表に選出はされず、2006 FIFAワールドカップのピッチに立つ事は叶わなかった。その後、2006年8月にイビチャ・オシムの指揮するA代表に初選出。以降は負傷を繰り返しながらも、日本代表の中心選手として定着した。2008年からの2010 FIFAワールドカップ・アジア最終予選では8試合に全試合フル出場して本大会出場に貢献し、本大会への代表にも選出された。

本大会直前に行われた強化試合である2010年5月30日のイングランド代表戦では前半に得点を決めたものの、後半にはクリアミスによるオウンゴールを献上した。さらに6月4日に行われたコートジボワール代表戦では2戦連続となるオウンゴールを献上。直後のプレーでディディエ・ドログバと交錯し、ドログバは右腕を骨折した。コートジボワール代表監督のエリクソンはこの件を全く非難せずに、「不運だったのです。あれは悪いプレーではなかったし、愚かなプレーでもなかった。故意ではなかった。」と擁護した。その後のドログバの右腕の回復は良好で、本大会に間に合わせることができた。なお闘莉王は本大会後に、著書の中でエリクソンへ深い感謝を述べた。故意ではなかったものの、ドログバには日本サッカー協会を通して謝罪文を送付し、誠意を尽くした。

2010 FIFAワールドカップ本大会では、守備の大黒柱として全4試合にフルタイムで先発出場し、自国開催以外で初となる日本代表の決勝トーナメント進出に大きく貢献した。冷静な読みとカバーリング、空中戦でゴールにカギをかけた。攻撃面でも精度の高いフィードを繰り出してカウンターの起点となり、チームが不調の時期にも熱い言葉をかけ続けてチームを鼓舞した。これらの活躍により、本大会直前に挙がっていた周囲からの不満の声をも消し去った。日本史上最高のセンターバックとして名をとどろかせた闘莉王と中澤佑二のコンビは、アーセン・ベンゲルから「日本代表の最高の武器だった」と絶賛された。

プレースタイル

プレースタイル

確かな守備力に加え、高い得点力も備える超攻撃的リベロ。空中戦で圧倒的な強さを持ち、正確なフィードで攻撃の起点にもなる。自陣ゴール前での絶大なる存在感はもちろんのこと、コーチングを含めた統率力も高い。ビルドアップも的確で、高精度のロングフィードは数々のチャンスを創出する。スペイン紙『As(アス)』は、闘莉王の南アフリカワールドカップのオランダ戦での活躍について、「El dandy」(エル・ダンディ、粋な人)と称え、空中戦の強さと、後半に送り出した決定的なパスを高く評価した。ボールを足で扱う技術も優れ、決定力もあるため、しばしばボランチ、トップ下、果てはワントップに至るまで、センターラインのあらゆるポジションで起用されることもある。一方でスピードには優れないが、それをカバーできる頭の良さを持っている。

優れた守備力と同時に攻撃力も兼ね備える選手として、Bleacher Report の「得点力の高いディフェンダー世界トップ20」の特集で世界一に選出された。

国際サッカー連盟 (FIFA) からカリスマ性を持つ選手であると評されている。サッカーというチームワークにおける協調性について、名古屋時代の監督であったドラガン・ストイコビッチは、「チームにモチベーションを与えることができる選手だ。彼はリーダーだ。」と語る。

絶妙な「間合い」を持っている とされており、水戸時代の監督であった前田秀樹は特に一対一の対応について、「闘莉王には一流の間合いがあった」と高く評価した。

人物像

人物

「マルクス・トゥーリオ」という名は、古代ローマの哲学者のマルクス・トゥッリウス・キケロに由来して、父親の知人の医師によって名付けられた。「リュージ」という名は、父親に由来して名付けられたものだが、日本での戸籍名では「ユウジ」と表記されている。

「これからも日本人の心をサッカーに生かしたい。まわりをサポートする。まわりを大切にする。みんなで気持ちをひとつにする。」というサッカー観を持つ。敬虔なクリスチャン(カトリック) で、プレー中にはしばしば十字を切るシーンが見られる。

サッカー選手以外になりたかった職業は獣医。プロ入り二年目にはウサギを飼っていた という一面も持つ。

家族を一生大切にしていこうと誓っており、最も尊敬する人物は父親と答えている。日本出身の祖父母に子供の頃よく言われた言葉は「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」。

語学力

流暢な日本語を話す。その他、高校では日本語に加えて英語も練習し、名古屋時代の監督のドラガン・ストイコビッチとも直接英語でコンタクトする事も多かったという。スペイン語圏のダニルソン・コルドバの練習中の通訳も受け持っていた。

日本への愛

と語った。日本国籍取得の話を最初に持ち掛けた当時のGMの今西和男は、「闘志を持ちながらも、礼を重んじる。このような選手が入ったら、日本代表はきっとうまくいくと思った」という。

表現者としての力

「闘莉王の体には、浦和レッズのユニフォームと同じ真っ赤な血が流れていた」と言われたように、試合での強さ以外にも、その姿は見ている者の心を揺さぶる、と評されることがある。

一生懸命で熱くなりすぎてしまい、時にはサポーターとも口論になってしまうこともあったが、それはいつでも、誰に対しても、本音で真剣に向き合っていた証拠であるとも言われている。浦和時代にはチームのサポーターの応援と声援について「スタンドを見ていると、涙がこみ上げてくることがある」と語っていた。一方で、浦和時代には選手起用を始めとする強化方針に注文をつけ、移籍後も古巣に対する批判を行っている。

個人成績

数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。

クラブ

クラブシーズン年齢ディビジョンリーグ大陸大会1シーズン通算
出場得点出場得点出場得点
日本サンフレッチェ広島200119050——221
200220050——271
日本水戸ホーリーホック2003210————4510
日本浦和レッズ200422061——284
200523071——3510
200624071——418
200725000100373
200826010413712
200927011——325
日本名古屋グランパス201028010——306
20112902250388
201230321524315
201331041——314
201432243——3912
201533062——367
201634000——70
日本京都サンガF.C.2017350————3115
2018360————314
2019370————300
キャリア通算5113243620125

1. 大陸大会(UEFAチャンピオンズリーグ、AFCチャンピオンズリーグなど) 年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

代表

日本 としての年別成績です。親善試合を含みます。

年年齢出場得点得点グラフ
20062451
20072541
200826102
200927132
201028112
通算438

年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

所属チーム

ユース

期間年齢チーム
199715ブラジルミラソウFC
1998〜200016日本渋谷教育学園幕張高等学校

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

クラブ

期間年齢チーム出場得点
2001〜200319日本サンフレッチェ広島——
200321日本水戸ホーリーホック——
2004〜200922日本浦和レッズ——
2010〜201528日本名古屋グランパス12124
201634日本名古屋グランパス——
2017〜201935日本京都サンガF.C.3115

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は国内リーグ戦の合計で、カップ戦・大陸大会を含む内訳は「個人成績」の表にあります。

代表

期間年齢チーム
200422日本日本 U-23
2006〜201024日本日本

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

移籍金・年俸・市場価値の推移

移籍履歴

掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。

時期年齢移籍元移籍先形態移籍金備考
199816ミラソウFC渋谷教育学園幕張高等学校移籍—下部組織への移籍
形態・移籍金は未確認
200119渋谷教育学園幕張高等学校日本サンフレッチェ広島移籍—形態・移籍金は未確認
200321日本サンフレッチェ広島日本水戸ホーリーホック期限付き移籍—期間・移籍金は未確認
200422日本サンフレッチェ広島日本浦和レッズ移籍—形態・移籍金は未確認
201028日本浦和レッズ日本名古屋グランパス移籍—形態・移籍金は未確認
2017-0135日本名古屋グランパス日本京都サンガF.C.完全移籍—移籍金は非公表・不明

※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。

出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認
日本語版 Wikipedia(経歴)・API-Football(移籍データ)。移籍の有無と移籍先は日本語版 Wikipedia の情報欄、日付・形態・移籍金は API-Football の掲載値。億円換算は ECB レート(2026-10-21 時点)

人物相関

所属履歴と出場記録から機械的に算出しています。個人の交友関係についての評価は含みません。

共にプレーした選手

同じクラブ・同じシーズンに両者とも出場記録がある選手を、シーズン数の多い順に並べています。取得元(API-Football)のシーズン名簿は 2010-11 シーズン以降しか無いため、それ以前に一緒にプレーしたシーズンは数に入りません。

選手クラブ期間シーズン 
磯村亮太日本名古屋グランパス2012〜20165
楢﨑正剛日本名古屋グランパス2012〜20165
小川佳純日本名古屋グランパス2012〜20165
石櫃洋祐日本京都サンガ2012〜20195
磐瀬剛日本京都サンガ20181
大黒将志日本京都サンガ20171

指導を受けた監督

本人の在籍期間と監督の在任期間の重なりから算出しています。取得元(API-Football)に在任期間の登録がある監督だけが対象で、古い年代の監督は登録が無いため出ていません。

監督クラブ・代表在任
岡田武史日本日本代表2007年12月〜2010年7月
西野朗日本名古屋グランパス2014年1月〜2015年12月
西野朗日本日本代表2018年4月〜2018年7月
森保一日本日本代表2018年8月〜

日本語名を確認できない監督 7 人は掲載していません。

タイトル

クラブ

浦和レッズ

名古屋グランパス

英語の記録名しか確認できないもの(5件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。

本文の一部は、ウィキペディア日本語版「田中マルクス闘莉王」(版 111137223)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。

出典

  1. API-Football(移籍データ)、2026年10月22日 取得 https://www.api-football.com/
  2. API-Football(選手・監督データ)、2026年10月25日 取得 https://www.api-football.com/
  3. Wikidata、2026年10月25日 取得 https://www.wikidata.org/
  4. Wikipedia(日本語版)「田中マルクス闘莉王」、版 ID 111137223、2026年10月14日 取得 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%E9%97%98%E8%8E%89%E7%8E%8B
  5. Wikipedia(英語版)、版 ID 1353671600、2026年10月14日 取得 https://en.wikipedia.org/wiki/Marcus_Tulio_Tanaka

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