「清水商という高校に来なければ、今の自分はない。サッカー人生で、これだけ明るいロードを歩けることはなかった。」
「早すぎるよ。大岩がW杯で指揮を執るまで頑張ってほしかった」
「自分の息子のようにかわいがってきたOBたちが羽ばたいている姿を天国から見守ってほしい」
出典:スポニチ 2026年10月9日
SOCCERPEDIA / 選手・監督ページ / 日本のサッカー選手 / 最終更新:2026年9月1日
名波浩(Hiroshi Nanami、1972年11月28日生)は、藤枝市出身の元サッカー選手。ポジションはMF。日本では1995年から通算67試合9得点を記録している。クラブでは公式戦通算438試合40得点(1995 シーズン以降)。クラブ・代表で通算9個のタイトルを獲得、個人賞は11回。
名波 浩(ななみ ひろし、1972年11月28日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者、解説者。元日本代表。現役時代のポジションはミッドフィールダー。
Jリーグのジュビロ磐田、セレッソ大阪、東京ヴェルディ1969、イタリア・セリエAのACヴェネツィアでプレーした。Jリーグベストイレブンを4度受賞。日本代表では背番号10番を着用し、1998年のフランスワールドカップに出場した経歴を持つ。マネジメントは株式会社ラボーナ。
静岡県藤枝市にて名波家4人兄弟の末子として出生。サッカーが盛んな藤枝市という環境と兄らの影響もあり、物心つくうちからサッカーに熱中する。この頃の浩は、時間があれば電話で友人を呼び出してサッカーに明け暮れていた。やや肥満気味でゲーム中あれこれ指図することから付けられたあだ名は「ジャイアン」(あだ名はジャイアンだが歌は上手い)外でサッカーが出来ない時は兄らと自宅でボール蹴りに興じ、部屋の調度品を破壊していた。
藤枝市立西益津小学校に入学し、休み時間はサッカー、放課後は空き地や田圃、大手公園(通称チビッコ広場)で日が暮れるまでボールを蹴り、ディエゴ・マラドーナのプレーに衝撃を受け左足の技術を磨く。小学2年生時に実兄・豊の後に付き、西益津サッカー団のセレクションに参加した。当時のコーチを驚嘆させるほどのセンスに溢れた左足を持っていたが、入団の条件が小学3年生以上だったため落選。小学3年生時の再挑戦時には、更に技術に磨きがかかっていた。小学校4年生時、既に同世代との試合では圧倒的なプレーを見せていた浩は飛び級で年長チームに所属するようになった。この頃のポジションは左ウイング。
藤枝市立西益津中学校入学。中学2年生時でレギュラー獲得。「フィーバーした」と回想するほど対抗試合で勝ち続け、3年生で県予選優勝。
サッカー熱で藤枝市と清水市の対立が激しかったこの当時、県選抜の仲間の大半が清水市立商業高校へ進学することを知った浩は「俺もキヨショーに行けば、さらに強いチームになる」と清水市立商業高校へ進学を希望した。その際に担任から藤枝市内にある全ての高校が入学を待ち望んでいると助言され1度は進路を保留するも、最終的に清商へ進学。
清水商業高等学校時代は大岩剛、山田隆裕、薩川了洋、望月重良らと共に高校総体、ユース選手権を制覇した。
順天堂大学入学、同大学サッカー部入団。在学中に五輪代表(U-23)に選ばれ、バルセロナ五輪アジア最終予選では3試合で途中出場した。サッカーの技術が上達しようとも、それだけでは生計が立てられない状況を諦観する中、JSLが1993年にJリーグと名を変え発足。次々と同世代がプロになっている事に焦り、親から200万円を借りてサッカーの海外留学を頼むも「大学を卒業する事が絶対条件」と却下された。同部では1部残留を辛うじて決め卒業した。
1995年にジュビロ磐田に加入。加入直後からレギュラー入りし、4月12日の柏レイソル戦でJリーグ初ゴールを決めた。
同年から加茂周監督率いる日本代表に招集。当初はクラブと同じ攻撃的MFで起用されていたが、アトランタ五輪後に前園真聖が日本代表に合流するタイミングで、ボランチにコンバートされた。その後中田英寿の台頭もあり、日本代表では主にボランチで起用された。
1998年のフランスW杯では、アジア地区予選から日本代表の一員として出場。背番号10番を付け、中盤の中心選手として本大会にも全試合に先発出場した。その後、右膝の怪我をするまでの約6年間、日本代表の10番として君臨した。名波本人は7番の着用を希望していたが、代表のスターティングメンバー選出時に10番を任され、困惑したというエピソードが存在する。ラモス瑠偉の後継となる10番だったが勝ち点が伸びずにメディアに叩かれ、更に国立競技場での対韓国戦では柳想鐵の執拗なマークに遭い、マークを外すだけで手一杯となり、体力を消耗、疲労したところで韓国に逆転負けを喫し、「名波はスタミナ不足、10番の器ではない」と評価される。しかし、走力、体力共に優っていた上、背番号で叩かれる理不尽さに業を煮やしていた名波は「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれるW杯出場を決めた試合直後に背番号10番のユニフォームをラルキン・スタジアムの観客の少年に投げ渡した。
フランスW杯後、フィリップ・トルシエ就任後も招集される。1999年のコパ・アメリカでは中田英寿が不在であったためトップ下を任されるも惨敗し、トルシエから「名波は一生リーダーにはなれない選手」と酷評された。
同年夏にイタリア・セリエAのACヴェネツィアに移籍。ヴェネツィアは前年まで中心選手であったアルバロ・レコバが移籍し、その穴を埋めるべく左利きの攻撃的選手を求めていた。セリエA開幕戦のウディネーゼ戦では途中出場し、マニエーロの得点をアシストして移籍後初アシストを決めた。10月28日のコッパ・イタリア、ペスカーラ戦での決勝ゴールが移籍後初ゴールとなった。1月23日、第18節のウディネーゼ戦でリーグ戦初ゴールにして唯一のゴールを決めた。24試合に出場したが、監督交代などの影響もあり、フル出場は少なく、ベンチ入りしても出場機会の無い試合や、僅かな出場時間しか得られない試合もあった。コッパ・イタリアでは準決勝まで勝ち進むも、ラツィオに敗れ、リーグ戦は16位に終わりクラブはセリエBに降格。契約上、クラブが降格すれば退団することが決まっていたため、翌年帰国し、磐田に復帰した。
帰国後アジアカップのメンバーに招集され、「イタリア挑戦に失敗した自分を呼んで貰えて感謝している」とコメント。大会では名波を中心にした攻撃が機能し圧倒的な強さで優勝、名波自身もMVPを獲得する。コパアメリカで名波を酷評したトルシエ監督も称賛を惜しまなかった。 またクラブでは2001年に通称『N-BOX』と呼ばれる新フォーメーションが機能し黄金期を迎える。しかし2001年に右膝半月板を痛め代表から長期離脱。トルシエ監督や国民からW杯までの復帰が待ち望まれる中、10月の欧州遠征(セネガル及びナイジェリアと対戦)のメンバーに招集され同行するも、怪我の再発が確認され試合に出場しないまま再び離脱。2002年日韓W杯の日本代表からも外れる。本人は「怪我をして外れたのではなく、実力がなかったから外された」と自分を戒めたが、実際は怪我からの復調が芳しくなかったためである。
ジーコ監督就任後、初の試合となったジャマイカ戦に招集された(背番号は8番。10番は中村俊輔が着用。)が出場は無く、その後は招集されることはなかった。一方、クラブではその後もジュビロの中心選手となり、2002年のJリーグ完全優勝(1st、2nd両ステージ制覇)にも大きく貢献した。
2006年はチームの若返りを進める山本昌邦監督の下で次第に出場機会を減らし、山本昌邦の監督辞任によって就任したアジウソン監督でも状況は変わらなかった。出場機会を求め、8月15日付で、当時最下位で降格の危機に瀕していたセレッソ大阪へチーム立て直しのために、2007年1月31日までの期限付き移籍を決断。名波加入前はシーズンでわずか1勝だったが、加入後は入れ替え戦出場を争うまでに調子を上げていったが、最終的に降格してしまう。11月26日の大宮戦で、史上23人目のJリーグ通算300試合出場を達成した。
2007年1月16日、磐田から東京ヴェルディ1969へ、2007年2月1日から2008年1月31日までの期限付き移籍をすることが発表された。サッカーダイジェストのインタビューなどでは、2007年シーズンをもって引退する事を匂わすコメントをしていたが、出場機会にあまり恵まれず不完全燃焼であったことや、磐田側からも復帰の要請があったことから2007年12月8日に「2008年シーズンは磐田に現役選手として復帰する」ことが発表された。
2008年11月12日、2008年シーズン限りでの引退を表明。2009年シーズンのコーチ就任は断ったが、「40歳過ぎぐらいに監督になりたい」と、語っている。
2023年、日本代表のコーチに就任することが発表された。2026 FIFAワールドカップの日本代表コーチ。
現役引退後はジュビロ磐田のアドバイザーを務め、2009年4月5日より、テレビ朝日のサッカー情報番組『やべっちF.C.』のレギュラーになった。また、BS朝日やスカパー!などのサッカー中継での解説も務めている。テレビ朝日での中継時にはピッチ上から解説を行う。2011年のAFCアジアカップの決勝に代表されるように、放送席で解説を務める松木安太郎・セルジオ越後は興奮すると我を忘れてしまうことが非常に多くなるため(居酒屋中継と言われる)、ピッチから冷静かつ的確に解説を行う名波の存在が欠かせないものとなっていた。2012年3月11日、東京ヴェルディ1969時代のチームメイトで栃木SCドリームアンバサダーを務める佐藤悠介が主催した「3.11悠介ドリームズメモリアルゲーム」に選手兼監督として出場した。
2014年9月25日、ペリクレス・シャムスカの後任としてジュビロ磐田の監督に就任した。9月28日に行われ初陣となった愛媛FC戦では、前田遼一と8試合ぶりの先発に起用した松浦拓弥の得点で2-0で勝利を収め、同日に2009年よりレギュラー出演していた『やべっちF.C.』に出演し、同番組を卒業した。初戦には勝利したが就任後の9試合を2勝5分2敗の4位で終えたためJ1自動昇格圏には届かず、J1昇格プレーオフ準決勝ではモンテディオ山形に対して後半アディショナルタイムで失点を喫し敗れ、磐田の1年でのJ1復帰を逃した。名波自身の目から見た監督就任時のチーム状況については「個々のレベル・サッカーの質は想定の範囲内だったが、選手たちの勝ちに対する飢えと負けたくないという気持ちがこんなに希薄だとは思わなかった」 と就任初年度の感想を述べた。
2015年シーズンは前田、山崎亮平といった攻撃的なポジションを務める選手が移籍し、苦しい流出が続いた が、新加入のジェイやアダイウトン、GKのカミンスキーといった外国人選手の活躍や若手の小林祐希、川辺駿の飛躍もあり、11月24日に行われたJ2最終節大分トリニータ戦に勝利し、アビスパ福岡と勝ち点82と並んだが得失点差で2位となり3年ぶりのJ1復帰が決定した。前述の通り加入した外国人3人全員がチームにフィットしたが、名波は3選手の人柄を3人を知る関係者に聞き、プレーに関しても良いプレーを編集した動画だけでは無く、その選手が出場している試合をフルで観て獲得に動いているとインターネット番組『footi』で話している。
2016年シーズンは、最終節まで残留争いをして13位でシーズンを終えたが、チームの最低目標でもあったJ1残留を達成。
2017年シーズンは、昨季のチーム得点王だったジェイが退団に対して、中村俊輔と川又堅碁が加入するも、中村が39歳という大ベテランという点や川又が前年名古屋グランパスで5得点しか挙げてない事など、シーズン前は批判的な声もあったが、1年目にしてチームの中心となった中村や川又のシーズン14得点など新加入選手が活躍。11年ぶりの5連勝や16年ぶりのリーグ最少失点を更新などオフェンスとディフェンスが躍動し、最終的にはACL出場圏内を争った。結局ACL出場圏内には入れなかったものの、リーグ6位でシーズンを終了。開幕前に「得失点プラマイ0」を目標と公言していた中で、それを大きく上回るシーズンとなった。
2018年シーズンは、前年の結果以上の「トップ5」を目標にスタートしたが、アダイウトンやムサエフの長期離脱や前年セットプレーからの得点に多く貢献した中村俊輔の怪我などが影響し、昨シーズン総得点50点だったものが、35点とリーグワースト2位の得点力となった。シーズン途中には得点力を上げるため得点王の経験もある大久保嘉人が加入したが、調子は上がらず最終節を前にしてJ1残留圏内の13位に付けていた。しかし、最終節で川崎に引き分ければ残留が決まったが、ロスタイムにオウンゴールで逆転負けとなり、どちらかが勝てば磐田の残留が決まる14位湘南と16位名古屋の試合が引き分け、この結果により13位から16位に転落し、5チームが勝ち点「41」を取りながらも得失点差でJ1参入プレーオフにまわる結果となった。プレーオフでは東京ヴェルディと戦い、2-0で勝利を収めJ1残留を決めた。12月8日、J1参入プレーオフ終了後の記者会見で「このゲームに至った責任は全て僕にある」と語り、来季の続投に関して明言しなかったが、磐田社長の木村と強化本部長の服部の慰留を受け、続投することが複数のメディアから報じられた。2019年1月12日、磐田の公式ホームページ上にて、2019年シーズンも監督を務めることが発表された。
2019年シーズンも第16節終了時点でチームはリーグ17位と低迷。6月30日に行われた第17節の川崎フロンターレ戦で敗れた後、自らけじめをつけるためサポーターのもとへ行き、磐田のコールリーダーに辞任する旨を伝え、試合後の会見で監督を辞任することを発表した。同日付で磐田と監督契約の解除で合意し、退任することが発表された。この会見の前日、あるJリーグクラブの監督に辞任することを伝えた際に「まだやるよな」と言われ、「やります、前向きですよ」と伝え、退任後もサッカー人生を続けていくことを明かしている。
2021年6月21日、J2松本山雅FCの柴田峡監督解任を受け同チームの監督に就任が発表された。伊藤翔など実績あるストライカーの補強などで辣腕を振るうなどしたが、チームを立て直せず松本はJ3降格の憂き目を見た。奇しくも降格決定した11月28日は名波の誕生日である。2022年シーズンも松本がJ3降格後も続投が発表されたが、名波がコロナ感染となってしまい、チームは最終節(J3・第34節)で1年でのJ2復帰を逃した。シーズン終了後、契約期間満了に伴い退任することが決まった。
ボランチのポジションから長短の繊細なパスを繰り出すゲームメーカー。高校、大学、ジュビロ入団当初まではトップ下でプレーしていたが、日本代表で加茂周監督に展開力と守備への適性を買われ、ボランチへコンバートされる。以後、代表やドゥンガ退団後の磐田では中盤の底に位置して、ゲームの流れをコントロールする役割を果たした。
ボールタッチやキックのほとんどを左足で行うレフティ。右足でボールを扱うことはほとんどせず、右サイドに流れた時にでも無理やり左足でセンタリングを上げたこともあった。自ら「右足はつっかえ棒」「右足でパスを出すときはむしろゲーム運びがうまくいっていないと見たほうがいい」とも発言している。ジュビロへの入団会見では「自分の左足の下にボールがあるときは注目してほしい」と宣言し、引退会見では「『左の名波』『名波の左足』という自分の最も好きなフレーズが14年間で浸透できたのが自信になる」と振り返った。ちなみにJリーグ公式戦において「右足で決めたゴール」はわずかに「1」であった。
2001年に負った膝の怪我の影響で連戦に耐えられないという噂については「自分のコンディションよりも、むしろピッチコンディションが問題。それさえ整えばできなくはない」とコメントしている。しかし、引退発表後には膝の状態が悪いところをチームメイトに見せないよう、ホテルの宿泊部屋でも配慮していたことを明かしている。
一次情報の発言のみ収録。1回の会見につき主要な発言を最大3つ引用し、他は解説で要約しています。
「清水商という高校に来なければ、今の自分はない。サッカー人生で、これだけ明るいロードを歩けることはなかった。」
「早すぎるよ。大岩がW杯で指揮を執るまで頑張ってほしかった」
「自分の息子のようにかわいがってきたOBたちが羽ばたいている姿を天国から見守ってほしい」
出典:スポニチ 2026年10月9日
数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。
| クラブ | シーズン | 年齢 | ディビジョン | リーグ | 国内カップ1 | リーグカップ2 | 大陸大会3 | シーズン通算 | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 1995 | 22 | J1リーグ | 51 | 3 | 2 | 0 | — | — | — | — | 53 | 3 | |
| 1996 | 23 | J1リーグ | 30 | 3 | 1 | 0 | 14 | 1 | — | — | 45 | 4 | |
| 1997 | 24 | J1リーグ | 21 | 5 | 2 | 1 | 2 | 0 | — | — | 25 | 6 | |
| 1998 | 25 | J1リーグ | 33 | 7 | 3 | 0 | 2 | 0 | — | — | 38 | 7 | |
| 1999 | 26 | J1リーグ | 15 | 4 | 0 | 0 | 2 | 0 | — | — | 17 | 4 | |
| 2000 | 27 | J1リーグ | 5 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | — | — | 7 | 1 | |
| 2001 | 28 | J1リーグ | 17 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | — | — | 21 | 1 | |
| 2002 | 29 | J1リーグ | 24 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | — | — | 29 | 1 | |
| 2003 | 30 | J1リーグ | 27 | 3 | 5 | 1 | 5 | 0 | — | — | 37 | 4 | |
| 2004 | 31 | J1リーグ | 29 | 3 | 3 | 0 | 5 | 0 | 3 | 1 | 40 | 4 | |
| 2005 | 32 | J1リーグ | 26 | 1 | 2 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 | 33 | 1 | |
| 2006 | 33 | J1リーグ | 10 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | — | — | 14 | 0 | |
| 2008 | 35 | J1リーグ | 13 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 | — | — | 18 | 0 | |
| 通算 | 301 | 32 | 22 | 2 | 48 | 1 | 6 | 1 | 376 | 36 | |||
| 1999-2000 | — | セリエA | 24 | 1 | 7 | 1 | — | — | — | — | 31 | 2 | |
| 2006 | 33 | J1リーグ | 13 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | — | — | 13 | 2 | |
| 2007 | 34 | J2リーグ | 17 | 0 | 1 | 0 | — | — | — | — | 18 | 0 | |
| キャリア通算 | 355 | 35 | 29 | 3 | 48 | 1 | 6 | 1 | 438 | 40 | |||
1. 国内カップ戦(コパ・デル・レイ、FAカップ、天皇杯など) 2. リーグカップ(EFLカップ、JリーグYBCルヴァンカップなど) 3. 大陸大会(UEFAチャンピオンズリーグ、AFCチャンピオンズリーグなど) 年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。
日本 としての年別成績です。親善試合を含みます。
| 年 | 年齢 | 出場 | 得点 | 得点グラフ |
|---|---|---|---|---|
| 1995 | 22 | 2 | 2 | |
| 1996 | 23 | 13 | 1 | |
| 1997 | 24 | 21 | 3 | |
| 1998 | 25 | 11 | 0 | |
| 1999 | 26 | 6 | 0 | |
| 2000 | 27 | 12 | 3 | |
| 2001 | 28 | 2 | 0 | |
| 通算 | 67 | 9 | ||
年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。
英語版 Wikipedia の Managerial statistics の値です(Wikipedia(英語版)、revid 1373513438)。勝率は勝利数÷試合数。当サイトによる補完・推計は行っていません。
| 在任期間 | 年齢 | チーム | 試合 | 勝 | 分 | 敗 | 勝率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| — | — | 170 | 63 | 53 | 54 | 37.1% | |
| — | — | 76 | 27 | 19 | 30 | 35.5% | |
| 通算 | 246 | 90 | 72 | 84 | 36.6% | ||
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1988〜1990 | 15 | |
| 1991〜1994 | 18 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1995〜2001 | 22 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
| 在任 | 年齢 | チーム | 役職 |
|---|---|---|---|
| 2014〜2019 | 41 | 監督 | |
| 2021〜2022 | 48 | 監督 |
掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。
| 時期 | 年齢 | 移籍元 | 移籍先 | 形態 | 移籍金 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1991 | 18 | 清水商業高校 | 順天堂大学 | 移籍 | — | 下部組織への移籍 形態・移籍金は未確認 |
| 1995 | 22 | 順天堂大学 | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | |
| 1999 | 26 | 期限付き移籍 | — | 期間・移籍金は未確認 | ||
| 2006 | 33 | 期限付き移籍 | — | 期間・移籍金は未確認 | ||
| 2007 | 34 | 期限付き移籍 | — | 期間・移籍金は未確認 |
※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。
出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認
所属履歴と出場記録から機械的に算出しています。個人の交友関係についての評価は含みません。
本人の在籍期間と監督の在任期間の重なりから算出しています。取得元(API-Football)に在任期間の登録がある監督だけが対象で、古い年代の監督は登録が無いため出ていません。
| 監督 | クラブ・代表 | 在任 |
|---|---|---|
| ルイス・フェリペ・スコラーリ | 1997年7月〜1997年12月 | |
| ルチアーノ・スパレッティ | 1999年7月〜2000年6月 |
英語の記録名しか確認できないもの(8件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。
代表チームで獲得したメダルです(金1)。当サイトの大会結果データとも照合し、食い違いがあれば掲載しません。
| AFCアジアカップ | 金 2000 レバノン |
|---|
出典は英語版 Wikipedia の「メダル獲得記録(Medal record)」節(記事名・版 ID・取得日は「出典」節に記載)。W杯は当サイトの大会結果データでも一致を確認しています。
本文の一部は、ウィキペディア日本語版「名波浩」(版 110508210)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。
※ 出典は媒体名・日付・URL を文字で記載しています(外部サイトへのリンクは行いません)。出典が確認できない数値はページに載せません。
掲載写真は Wikidata API および Wikimedia Commons API を通じて、ライセンス(CC BY-SA / パブリックドメイン等)と作者表示の要件を確認したうえで掲載します。