「広島が安定して強さと結果を出している。ゲーム総じて言うと、広島が力の差をしっかり出していた」
「広島は優勝争いを考えてチーム作りをしている選手層の違いがあった。予算規模で言うと40億と80億という違いがあって、人件費で言うと2.5倍ぐらいの違いがある」
「元気にヨーロッパから帰ってきた選手。しかも5大リーグでの経験を持っている」
出典:FOOTBALL ZONE 2026年10月11日
SOCCERPEDIA / 監督ページ / 日本のサッカー監督 / 最終更新:2026年9月1日
森保一(Hajime Moriyasu、1968年8月23日生)は、日本・長崎出身のサッカー監督。2018から日本の監督を務めている。これまでに3クラブを指揮した。日本では1992年から通算35試合1得点を記録している。クラブでは公式戦通算434試合48得点(1987-88 シーズン以降)。
森保 一(もりやす はじめ、1968年8月23日 - )は、静岡県掛川市生まれ、長崎県長崎市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者(JFA Proライセンス)。日本代表監督。現役時代のポジションはミッドフィールダー(MF)。元日本代表。
静岡県掛川市で生まれたが、父親が造船関係者だったため、幼少期から名古屋市、横須賀市、佐賀県唐津市と各地を転居し、唐津市立鏡山小学校に入学するもすぐに転居。小学1年生から長崎市に定住する。森保は自身について「長崎生まれ広島育ちだと認識している」とインタビューの中で答えている。
サッカーを本格的に始めたのは小学6年生の時で、それまでは少年野球をしており、当時はプロ野球選手になることが夢だった。小学6年のサッカークラブチーム「土井首SSS(土井首サッカースポーツ少年団)」時代に第4回全日本少年サッカー大会にGKとして出場している。長崎市立深堀中学校では当初サッカー部が無かったため、近隣でサッカー部のある長崎市立土井首中学校の練習に参加していたが、土井首中の生徒たちからスパイクを隠されるなどのいじめを受けたため、深堀中にサッカー部を新設しプレーを続けた。
高校進学に際してサッカー強豪校である長崎県立国見高等学校への進学を考えていたが、学業が苦手でサッカーのことしか考えていない森保の受験姿勢を見た父親に反対されたため、長崎日本大学高等学校へ進学した。これについては、他に「選手層の厚い国見に進学しても、レギュラーでやっていける自信がなかったため遠慮した」という話や、国見では寮費などで月10万円ほどの負担が必要なのに対し、深堀中学校サッカー部でコーチをしていた三菱重工の選手が森保を長崎日本大学高等学校へ推薦してくれたたため、特待生扱いで一部学費が免除されるという理由から同校への進学を選んだという話も森保に関するインタビューの中で言及されている。
高校時代は攻撃的なMFとして山梨国体選抜に選ばれるが、当時長崎県のサッカーは国見と長崎県立島原商業高等学校が全盛期だったことから、インターハイや選手権などの全国大会には出場できなかった。高校時代までは比較的無名な選手だった。
高校の下田規貴監督と日本サッカーリーグ(JSL)のマツダ(現サンフレッチェ広島)の今西和男総監督が知り合いで、下田から森保を推薦する年賀状を受け取った今西が、ハンス・オフトコーチを伴い長崎に視察に訪れ、オフトは全く興味を示さなかったとされるが、今西が森保の視野の広さと3手先まで読んでパスが出せること、危機察知能力を評価し、採用を決め、1987年同クラブ入団。同期は河村孝らがいたが森保は入団当初はその中で最下位の評価だった。当時マツダ本社は高卒採用枠5人までであったため森保は本社に入社することが出来ず、子会社のマツダ運輸(現マツダロジスティクス)に勤務した。当初はサテライトチームであるマツダSC東洋でプレーしていたが、この年からマツダ監督に就任したハンス・オフトに見出された。その後チームは2部に降格しオフトは退団したが、ビル・フォルケスコーチに育てられ、3年目の1989年にJSL2部デビュー、風間八宏のアシストで先制点および2点目を挙げる。1991年にマツダとプロ契約を結び、同年JSL1部昇格に貢献した。
1992年4月、オフトが日本代表監督に就任すると日本代表に初招集される。代表メンバーの何人かは存在自体知らなかった無名選手の大抜擢で、同郷の長崎県出身の高木琢也と前川和也以外、誰一人「モリヤス」と読めなかった。同年5月オフトジャパン初戦のアルゼンチン戦で先発メンバーに抜擢され初出場を果たし、この際アルフィオ・バシーレ監督とクラウディオ・カニーヒアが“日本にはいいボランチがいる”と高く評価したことから、「森保」と「ボランチ」の名前が脚光を浴びることになる。以降レギュラーとして活躍、ラモス瑠偉をカバーすることに重点を置いた。1993年、W杯アメリカ大会アジア予選に出場し、ドーハの悲劇を経験した。
一方クラブでは、サンフレッチェ広島の選手として、1993年にJリーグが開幕すると、6月2日の名古屋グランパスエイト戦でJリーグ初ゴールを決めた。スチュワート・バクスターの下、風間とともに中盤を支え、1994年サントリーシリーズでは広島のステージ優勝に貢献した。広島時代が"森保イズム"の原点と話し、2022年ワールドカップの監督時代にはコーチを5人の広島OBで固め「チーム広島」を形成した。
1995年に就任したビム・ヤンセン監督時代は3-4-3システムのボランチやトップ下・リベロとさまざまなポジションでプレーするものの、同年7月に右足首関節脱臼骨折してしまい満足に活躍できなかった。リベロとして出場した1996年11月6日のアビスパ福岡戦では2得点を決めた。日本代表ではファルカン時代および加茂周時代も選出されたが、山口素弘がボランチに定着したため1996年2月を最後に代表から遠ざかった。
1997年末、広島は経営悪化がピークに達し、主力放出を余儀なくされていた。1998年にオフトに誘われ、大型補強を行っていた京都パープルサンガにレンタル移籍した。当初は完全移籍の方向で話を進めていたが、広島サポーターが怒り、移籍反対署名を集め、その結果レンタル移籍に変わった経緯がある。移籍後、京都は低迷し監督は清水秀彦に代わったが、引き続き主力としてチームを支えた。
翌1999年広島に復帰、同シーズンに広島の選手としては初のJリーグ通算200試合出場達成。ただ、元々エディ・トムソン監督からの評価は低く、また森崎和幸の台頭で先発メンバー入りできなくなった。2001年ヴァレリー・ニポムニシに監督が代わるも、ケガのため満足な出場は叶わなかった。
2002年広島からスタッフ転進のオファーを受けるも、現役にこだわり清水秀彦に誘われベガルタ仙台に移籍した。主力として活躍したが、2003年のJリーグシーズン末に仙台はJ2に降格、自身も戦力外通告を受け、2004年1月に正式に現役引退を表明した。
2017年10月12日、2020年東京オリンピックを目指す五輪代表の監督に年俸4800万円 で就任した。技術委員長だった西野朗によると、この時点で森保に、W杯ロシア大会後のA代表監督(その場合は東京五輪までの五輪監督も併せて兼任)も打診していたという。
2018年4月、当時日本代表監督だったヴァヒド・ハリルホジッチが2018 FIFAワールドカップ ロシア大会の開幕約2ヶ月前に電撃解任され、後任に西野朗が就任することになった。森保はコーチとして新体制に入閣することになり、日本代表チームに帯同して日本のW杯ロシア大会16強進出に貢献した。
2020年7月、東京五輪が1年延期されたため、ワールドカップアジア地区予選に専念するため、U-24日本代表の監督をコーチの横内昭展が昇格する形で就任しA代表専任となった。東京五輪本戦は合宿から森保が監督を務め、横内はコーチ登録となった。
2021年8月、U-24日本代表を率いた東京五輪では予選リーグを全勝するも、決勝トーナメントでは攻撃力が停滞して4位で終了。真夏で中2日のハードスケジュールの中で殆どターンオーバー出来なかったことも響いた。
2018年7月26日、2020年東京五輪に出場するU-23日本(2018年時点ではU-21日本)監督を兼任したまま、ロシアW杯日本代表コーチから昇格する形で、日本代表監督に年俸約1億5000万円 で4年契約で就任した。日本A代表監督と日本五輪代表監督を兼任するのは、フィリップ・トルシエに次いで2人目で、日本人監督としては初めてである。また、初の外国人日本代表監督のハンス・オフト以降では、W杯後の新日本代表発足時に日本人監督が就くのは初めてである。
2019年、アジアカップとE-1サッカー選手権は準優勝、コパ・アメリカは予選敗退。
2021年、W杯カタール大会最終予選でオーストラリアにアウェイで初勝利し7大会連続7度目の本大会出場が決定。最初の3試合でオマーンやサウジアラビアに敗れて1勝2敗と後がない状態から6連勝で持ち直し2位での突破となった。
2022年、E-1サッカー選手権を優勝し代表監督として自身初のタイトルを獲得。W杯カタール大会ではドイツやスペインといった優勝経験国、2014年のブラジルW杯でベスト8入りを果たしたコスタリカと対戦するグループとなったが、それまで一度も使用したことのなかったフォーメーションを披露し、ドイツ・スペインに日本代表史上初の勝利を収めた上に、同代表を史上初のワールドカップでの逆転勝利に導いた。コスタリカ戦では黒星を喫したものの、2勝1敗でグループステージ首位となり、アジア勢としては初の2大会連続の決勝トーナメント進出を果たした。
この躍進を受け、フランス紙『L'Equipe』はワールドカップの監督ランキングで森保を2位に選出し、イタリア紙『TUTTOmercatoWEB』が発表した平均採点ランキングでは3位に選出、国際サッカー歴史統計連盟は年間世界最優秀監督の代表チーム部門でアジア人歴代最高となる5位に選出した。
12月28日、日本サッカー協会の田嶋幸三会長、反町康治技術委員長とともに会見を開き 日本代表監督の続投を発表した。契約期間は2026 FIFAワールドカップまでで、年俸は田嶋会長曰く「今までの監督以上で世界的に見ても恥ずかしくない額」とされ2億円から3億円と推定される。ワールドカップで指揮を執った日本代表監督が大会後も続投するのは初のことである。
2023年11月1日、カタール・ドーハで行われた アジアサッカー連盟(AFC)のAFCアニュアルアウォーズ2022にて、AFC年間最優秀コーチ賞(男子)を受賞した。男子のAFC年間最優秀コーチ賞の最終候補には、森保のほかにオーストラリア代表監督のグラハム・アーノルドとU-23サウジアラビア代表監督のサアド・アル・シェフリーがノミネートされていたが、カタール・ワールドカップ(W杯)での功績が評価され、森保が初受賞を飾った。
2023年〜2024年初頭にかけて歴代最長のA代表連勝記録を樹立していたが、アジアカップ2023のグループステージ第2節でアジアカップ初のグループステージ黒星をイラクに喫し、10連勝でストップした。
2025年11月18日、キリンチャレンジカップ2025のボリビア代表戦で歴代日本代表監督初の通算100試合目の指揮。試合は3ー0で日本が勝利し、メモリアルマッチを飾った。
2025年10月14日のキリンチャレンジカップ(東京スタジアム)でブラジル代表と対戦し、3-2で逆転勝利を収めた。過去13試合未勝利だったブラジルA代表に対し、14試合目にして史上初となる歴史的白星を挙げた。
2026年4月1日にイギリスのロンドン北西部ブレント区にあるサッカーの聖地として有名なウェンブリー・スタジアムにてイングランド代表と対戦が行われ、三笘薫らの活躍によって1-0で勝利した。アジア勢のA代表がイングランドA代表に勝利するのはこれが初めてのことだった。
2004年、サンフレッチェ広島強化部のコーチに就任、同年にJFA 公認S級コーチライセンスを取得。2005年2月、吉田靖監督の下、U-19サッカー日本代表コーチと兼務し、2006年11月にAFCユース選手権2006にU-19日本代表コーチとして準優勝、2007年のFIFA U-20ワールドカップにもコーチとして参加した。同年9月からミハイロ・ペトロヴィッチ率いるサンフレッチェ広島トップチームコーチに就任。2010年から黒崎久志率いるアルビレックス新潟ヘッドコーチに就任した。
2011年末、広島は経営状況の悪化からペトロヴィッチとの契約延長を断念し、次期監督を探すことになる。その中で、ペトロヴィッチのサッカーを継承および調整し、広島の現状のクラブ方針を把握しているOBを登用することになり、その中で森保の名前が挙がることになった。2012年からは古巣のサンフレッチェ広島に復帰し、クラブ生え抜き史上初となるトップチーム監督を務めることとなった。同シーズン、日本人元Jリーガーの監督としては初であり、日本人新人1年目監督としては松木安太郎以来2人目 となるJ1年間優勝を、翌2013には松木(V川崎)・岡田武史(横浜FM)およびオズワルド・オリヴェイラ(鹿島)以来4人目となるJ1連覇を達成 し、3連覇を狙った翌2014年こそ8位に終わるものの、11年ぶりに導入され2ステージ制が復活した2015年は再び年間優勝。4年間で3度のリーグ優勝を果たした。ただし、ACL(アジアチャンピオンズリーグ)では通算で3勝6分け5敗とJリーグで見せているほどの強さを見せられなかった。監督時代には「まちなかスタジアム」(エディオンピースウイング広島)建設に向けた署名活動にも参加する等した。2017年7月1日、J1第17節浦和レッズに逆転負けし、その3日後の7月4日、広島公式は成績不振のため森保監督を解任したと発表した。
一次情報の発言のみ収録。1回の会見につき主要な発言を最大3つ引用し、他は解説で要約しています。
「広島が安定して強さと結果を出している。ゲーム総じて言うと、広島が力の差をしっかり出していた」
「広島は優勝争いを考えてチーム作りをしている選手層の違いがあった。予算規模で言うと40億と80億という違いがあって、人件費で言うと2.5倍ぐらいの違いがある」
「元気にヨーロッパから帰ってきた選手。しかも5大リーグでの経験を持っている」
出典:FOOTBALL ZONE 2026年10月11日
「明日のキリンカップ決勝戦では、まずは勝利してキリンカップを優勝すること。今回の活動では一戦一戦勝利を目指しながらカップ戦を優勝しようということで、選手たちと勝利と成長をということで戦ってきたので、勝利を勝ち取って、優勝してサポーターの皆さんと喜びを分かち合えればと思っている」
「戦い方の部分においてはエクアドル戦でW杯基準と言えるようなハイインテンシティの中で何ができるかを確認した。やれた部分を相手がどこであっても我々が主体的に攻撃も守備も仕掛けていくという意味でチャレンジしていければと思っている」
「いつも通り目の前の一戦に勝利を目指して全力を尽くすという気持ちで、他のことを考えるつもりはないが、明日の国立競技場が青で染まって、ピッチとスタンドと一体となってみんなで国歌を歌い、日本人の心を感じ、一つのことに挑むところを満員のスタンドの皆さんと、メディアを通じて多くの方々に一つのことに挑む日本人の心を感じていただきながら、私自身は幸せを感じて試合に挑みたい」
出典:Yahoo!ニュース 2026年10月4日
「明日の試合は問題ないかな」
「淳之介も左足の打撲と精密検査を受けたが、明日の試合も問題ないと報告を受けています」
「多くのメンバーを変更して臨みたいと思っています」
出典:dメニューニュース 2026年9月30日
「一部配信で事実ではないことを取り上げ、配信されています。選手たちが傷付くことになっているので、そういった配信はやめてほしいと思います」
「実際に我々が練習をする時に、選手同士がぶつかり合うことはあります。そういった時は建設的なやり取りがありますが、どちらが威圧をして、汚い言葉を使って言ったことはないです。」
出典:マイナビニュース 2026年9月27日
「明日のウルグアイ戦を戦えることを楽しみにしています。2002年から2003年までの2年間ベガルタ仙台でお世話になり、宮城・仙台の人たちに温かく応援していただき、現役生活を終えることができました。」
「月曜日までに到着したメンバーで構成」
出典:サッカーキング 2026年9月22日
「本来は4年契約、次のW杯に向けてチームの立ち上げが普通だと思う」
「今年の親善試合とアジア杯、最大13試合。代表戦って、大きな大会がなければ年に10試合くらいしかないので、めちゃくちゃ次の監督にとっては大きな13試合になるんですよ。」
「今の日本の勝利と、日本のサッカーの発展を考えながらやることに関しては、(W杯の)最後までやるも、半年やるも、あまり変わらない。未来に日本がW杯で優勝できるように、今を戦ってつなげていくということを考えていかなければいけない。」
出典:スポニチ 2026年9月21日
「最後の円陣で話したことは、この悔しさを胸に刻んで、また次の成長に繋げていこうということです。この大会で終わる選手はほとんどいないですし、スタッフも含めて、こういう悔しさ、上手くいかなかったことを生かしてまた次の成長に繋げてほしい、成長して日本のために戦ってほしいと話しました」
「この大会で優勝するという我々の夢や、目標であった『最高の景色』は見ることができなかった。監督として導いてあげられなかった。」
出典:Yahoo!ニュース 2026年10月6日
「監督業を続けているのであれば、(V・ファーレン長崎の監督は)選択肢として持っていきたい」
「おそらく監督は続ける」
出典:Football Tribe 2026年10月6日
数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。
| クラブ | シーズン | 年齢 | ディビジョン | リーグ | シーズン通算 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| マツダ / サンフレッチェ広島 | 1987-88 | 18 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 1988-89 | 19 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
| 1989-90 | 20 | 0 | 0 | 0 | 19 | 8 | |
| 1990-91 | 21 | 0 | 3 | 1 | 30 | 14 | |
| 1991-92 | 22 | 0 | 0 | 0 | 18 | 4 | |
| 1992 | 23 | 0 | 8 | 1 | 8 | 1 | |
| 1993 | 24 | 1 | 0 | 0 | 39 | 3 | |
| 1994 | 25 | 0 | 1 | 0 | 44 | 3 | |
| 1995 | 26 | 0 | — | — | 30 | 4 | |
| 1996 | 27 | 0 | 14 | 2 | 45 | 5 | |
| 1997 | 28 | 0 | 5 | 0 | 32 | 1 | |
| 1999 | 30 | 0 | 3 | 1 | 30 | 2 | |
| 2000 | 31 | 0 | 2 | 0 | 24 | 0 | |
| 2001 | 32 | 0 | 3 | 0 | 20 | 0 | |
| 通算 | 39 | 5 | 339 | 45 | |||
| 京都パープルサンガ | 1998 | 29 | 0 | 4 | 0 | 38 | 1 |
| 2002 | 33 | 0 | 6 | 1 | 35 | 1 | |
| 2003 | 34 | 0 | 3 | 1 | 22 | 1 | |
| 通算 | 9 | 2 | 57 | 2 | |||
| キャリア通算 | 52 | 7 | 434 | 48 | |||
年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。
日本 としての年別成績です。親善試合を含みます。
| 年 | 年齢 | 出場 | 得点 | 得点グラフ |
|---|---|---|---|---|
| 1992 | 23 | 7 | 0 | |
| 1993 | 24 | 15 | 0 | |
| 1994 | 25 | 4 | 0 | |
| 1995 | 26 | 6 | 0 | |
| 1996 | 27 | 3 | 1 | |
| 通算 | 35 | 1 | ||
年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。
英語版 Wikipedia の Managerial statistics の値です(Wikipedia(英語版)、revid 1379183826)。勝率は勝利数÷試合数。当サイトによる補完・推計は行っていません。
| 在任期間 | 年齢 | チーム | 試合 | 勝 | 分 | 敗 | 勝率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2012.02〜2017.07 | 43 | 265 | 126 | 57 | 82 | 47.5% | |
| 2017.10〜2021.07 | 49 | 18 | 10 | 2 | 6 | 55.6% | |
| 2018.08〜現在 | 49 | 112 | 77 | 17 | 18 | 68.8% | |
| 通算 | 395 | 213 | 76 | 106 | 53.9% | ||
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1979〜1980 | 10 | |
| 1981〜1983 | 12 | |
| 1984〜1986 | 15 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1987〜2001 | 18 | |
| 1987〜1989 | 18 | |
| 1998 | 29 | |
| 2002〜2003 | 33 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1992〜1996 | 23 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。
| 時期 | 年齢 | 移籍元 | 移籍先 | 形態 | 移籍金 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1984 | 15 | 長崎市立深堀中学校 | 長崎日本大学高等学校 | 移籍 | — | 下部組織への移籍 形態・移籍金は未確認 |
| 1987 | 18 | 長崎日本大学高等学校 | マツダ / サンフレッチェ広島 | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 |
| 1987 | 18 | マツダ / サンフレッチェ広島 | マツダSC東洋 | 期限付き移籍 | — | 期間・移籍金は未確認 |
| 1998 | 29 | マツダ / サンフレッチェ広島 | 京都パープルサンガ | 期限付き移籍 | — | 期間・移籍金は未確認 |
| 2002 | 33 | マツダ / サンフレッチェ広島 | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 |
※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。
出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認
代表チームで獲得したメダルです(金3・銀1)。当サイトの大会結果データとも照合し、食い違いがあれば掲載しません。
| AFCアジアカップ | 金 1992 日本金 2022 日本金 2025 韓国銀 2019 韓国 |
|---|
出典は英語版 Wikipedia の「メダル獲得記録(Medal record)」節(記事名・版 ID・取得日は「出典」節に記載)。W杯は当サイトの大会結果データでも一致を確認しています。
本文の一部は、ウィキペディア日本語版「森保一」(版 111269455)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。
※ 出典は媒体名・日付・URL を文字で記載しています(外部サイトへのリンクは行いません)。出典が確認できない数値はページに載せません。
掲載写真は Wikidata API および Wikimedia Commons API を通じて、ライセンス(CC BY-SA / パブリックドメイン等)と作者表示の要件を確認したうえで掲載します。