概要
ファルカン(Paulo Roberto Falcão、1953年10月16日生)は、アベラルド・ルス出身の元サッカー選手。ポジションはMF。ブラジルでは1976年から通算28試合6得点を記録している。クラブでは公式戦通算530試合89得点(1973 シーズン以降)。クラブ・代表で通算15個のタイトルを獲得、個人賞は26回(セリエA 年間ベストイレブン 3回)。
パウロ・ロベルト・ファルカン(、1953年10月16日 - )は、ブラジル・サンタカタリーナ州出身で、元同国代表のプロサッカー選手、サッカー指導者。元日本代表監督。現役時代のポジションはミッドフィールダー。
クラブ経歴
選手として
1970年代後半から1980年代中期のブラジルを代表するボランチ。下がり目の位置から放つ正確なロングパスを駆使して中盤を操り、機を見て前方へ進出しミドルシュートを放つ、またトリッキーなパスを使って攻撃に変化を与えることを得意とした。。
クラブではインテルナシオナルでリオグランデ・ド・スル州選手権に5回、ブラジル全国選手権に3回優勝。
1980年にイタリアのASローマに移籍。しかし、当時のイタリアでは、ファルカンが誰なのかさえもよく知られておらず、なぜ移籍金にそれほどの金額がかかるのかと言われるほど獲得を疑問視された。1982-83シーズンに41年ぶりのリーグ優勝に貢献。翌1983-84シーズンにはUEFAチャンピオンズカップ決勝にチームを導いたが、この試合では体調が思わしくなく、PK戦でPKを蹴ることを拒否し、チームは敗戦、一部のファンたちから批判を浴びた。1985年、膝の故障で長期離脱した後、メディカルチェックを受けることを拒否したことに加え、年俸が高かったことから、契約の問題で突然ローマを退団した。ローマのサポーター達はファルカンを「王政ローマ時代の7人のローマ王達に匹敵する」と賞賛し「L'ottavo re di Roma (第8代ローマ王) 」とした。2012年にクラブの殿堂入りも果たしている。
ブラジル代表では1976年のイングランド戦で代表デビューを飾るが、通算記録は36試合9ゴール。当初は攻撃的MFとしてプレーしていたため、ジーコの控えであった。しかし1982年ワールドカップでは、ボランチとしてジーコ、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾとともに黄金のカルテットを形成した。1次リーグではスコットランド戦とニュージーランド戦でそれぞれ1ゴールずつを挙げ、2次リーグ・イタリア戦の後半23分の2-2の同点に追いつくミドルシュートを決めるなど、その存在感を示した。その後数年間は代表から遠ざかっていたが、1986年ワールドカップを控えた3月に復帰、しかし本大会ではグループリーグの2試合にのみ出場した。
1999年、 ワールドサッカー誌の20世紀の偉大なサッカー選手100人で85位に選出された。
代表経歴
代表での出場記録とメダルから組み立てた説明です。
1976年にブラジルでの出場記録が始まり、1986年までに通算28試合6得点を記録した。
監督経歴
引退後
1990年にブラジル代表監督に就任し、指導者としてのキャリアを本格的にスタートさせた。カフー、マウロ・シルバら若手選手を中心に代表招集を行い、1991年のコパ・アメリカに挑み準優勝の成績を残すが、1年で解任された。
その後はメキシコのクラブ・アメリカや、プロとして初めて契約したインテルナシオナルを指揮した。
1994年にハンス・オフトの後任として日本代表監督に就任する。当時のマスコミからは意外な人選と受け止められた。当初、日本サッカー協会 (JFA) は経験豊富で「修羅場をくぐった経験のある人物」(川淵三郎談)を代表監督に、という選考条件でテレ・サンタナらとの間で交渉を進めていたが、スタッフ費用込の年契約10億円という金銭面で折り合いが合わず決裂。元フランス代表監督のミシェル・イダルゴ、元アルゼンチン代表選手であったオズワルド・アルディレスに打診するも拒まれる。その後、当時のJFA関係者であったセルジオ越後を通じてファルカンと交渉に至り、その結果の人選であった。
ファルカンは数年後を睨み、オランダ2部SBVエクセルシオールから帰国した小倉隆史や前園真聖、岩本輝雄ら多くの若手選手を代表に抜擢するも、前任の代表監督であるハンス・オフトの細かい戦術的指揮から、ほぼ選手の自主性に任せたファルカンの指導法に選手らが戸惑い、「オフトと違う」と監督としてのファルカンを疑問視する声が出始める。
そして、就任直後のキリン杯においてフランス代表に惨敗、広島で行われたアジア大会準々決勝で韓国代表に敗れると、これらの責任を問われ解任された。敗戦後に会場を去るとき、サポーターの一人に「ブラジルに帰れ。二度と来るな」と叫びながら空き缶を投げられるも、「日本にも一人だけ本物のサポーターがいたな」と話した。
その後は1996年から2010年まで、ブラジルのテレビ局「ヘジ・グローボ」で、14年間に渡って解説者として活躍した。また「ラジオ・ガウーショ」でサッカー選手のインタビュー番組を毎週行っていた。
2011年に古巣のインテルナシオナルの監督として久しぶりに監督復帰を果たした。2012年はECバイーアの監督を務めた。
個人成績
数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。
クラブ
| クラブ | シーズン | 年齢 | ディビジョン | リーグ | 国内カップ1 | 大陸大会2 | その他3 | シーズン通算 | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 1973 | 19 | 0 | 2 | 0 | — | — | — | — | — | — | 36 | 0 | |
| 1974 | 20 | 2 | 18 | 0 | — | — | — | — | — | — | 39 | 2 | |
| 1975 | 21 | 1 | 24 | 7 | — | — | — | — | — | — | 43 | 8 | |
| 1976 | 22 | 5 | 26 | 4 | — | — | 6 | 1 | — | — | 47 | 10 | |
| 1977 | 23 | 0 | 32 | 7 | — | — | 7 | 0 | — | — | 48 | 7 | |
| 1978 | 24 | 5 | 34 | 7 | — | — | — | — | — | — | 61 | 12 | |
| 1979 | 25 | 6 | 45 | 11 | — | — | — | — | — | — | 65 | 17 | |
| 1980 | 26 | 3 | 3 | 0 | — | — | 9 | 2 | — | — | 25 | 5 | |
| 通算 | 184 | 36 | — | — | 22 | 3 | — | — | 364 | 61 | |||
| ローマ | 1980-81 | 26 | 3 | — | — | 5 | 0 | 2 | 1 | — | — | 32 | 4 |
| 1981-82 | 27 | 6 | — | — | 2 | 0 | 4 | 0 | — | — | 30 | 6 | |
| 1982-83 | 28 | 7 | — | — | 4 | 1 | 8 | 2 | — | — | 39 | 10 | |
| 1983-84 | 29 | 5 | — | — | 8 | 0 | 8 | 1 | — | — | 43 | 6 | |
| 1984-85 | 30 | 1 | — | — | 3 | 0 | 1 | 0 | — | — | 8 | 1 | |
| 通算 | — | — | 22 | 1 | 23 | 4 | — | — | 152 | 27 | |||
| 1985 | 31 | 0 | 11 | 0 | — | — | — | — | — | — | 12 | 0 | |
| 1986 | 32 | 0 | 0 | 0 | — | — | — | — | 2 | 1 | 2 | 1 | |
| 通算 | 11 | 0 | — | — | — | — | 2 | 1 | 14 | 1 | |||
| キャリア通算 | 195 | 36 | 22 | 1 | 45 | 7 | 2 | 1 | 530 | 89 | |||
1. 国内カップ戦(コパ・デル・レイ、FAカップ、天皇杯など) 2. 大陸大会(UEFAチャンピオンズリーグ、AFCチャンピオンズリーグなど) 3. 国内スーパーカップ・国際大会・プレーオフなど(UEFAスーパーカップ、FIFAクラブワールドカップ、リーグスカップ等) 年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。
代表
ブラジル としての年別成績です。親善試合を含みます。
| 年 | 年齢 | 出場 | 得点 | 得点グラフ |
|---|---|---|---|---|
| 1976 | 22 | 5 | 1 | |
| 1977 | 23 | 4 | 0 | |
| 1978 | 24 | 0 | 0 | |
| 1979 | 25 | 5 | 1 | |
| 1980 | 26 | 0 | 0 | |
| 1981 | 27 | 0 | 0 | |
| 1982 | 28 | 7 | 4 | |
| 1983 | 29 | 0 | 0 | |
| 1984 | 30 | 0 | 0 | |
| 1985 | 31 | 0 | 0 | |
| 1986 | 32 | 7 | 0 | |
| 通算 | 28 | 6 | ||
年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。
監督成績
在任別・通算
英語版 Wikipedia の Managerial statistics の値です(Wikipedia(英語版)、revid 1370921605)。勝率は勝利数÷試合数。当サイトによる補完・推計は行っていません。
| 在任期間 | 年齢 | チーム | 試合 | 勝 | 分 | 敗 | 勝率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1990.08〜1991.08 | 36 | 17 | 6 | 7 | 4 | 35.3% | |
| 1991.11〜1992.11 | 38 | 51 | 21 | 14 | 16 | 41.2% | |
| 1993.07〜1994.02 | 39 | 14 | 5 | 4 | 5 | 35.7% | |
| 1994.02〜1994.10 | 40 | 9 | 3 | 4 | 2 | 33.3% | |
| 2011.04〜2011.07 | 57 | 19 | 8 | 5 | 6 | 42.1% | |
| 2012.02〜2012.07 | 58 | 36 | 16 | 10 | 10 | 44.4% | |
| 2015.09〜2016.04 | 61 | 34 | 17 | 6 | 11 | 50.0% | |
| 2016.07〜2016.08 | 62 | 5 | 0 | 2 | 3 | 0.0% | |
| 通算 | 185 | 76 | 52 | 57 | 41.1% | ||
所属チーム
クラブ
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
代表
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1976〜1986 | 22 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
監督
| 在任 | 年齢 | チーム | 役職 |
|---|---|---|---|
| 1990〜1991 | 36 | 監督 | |
| 1991〜1993 | 37 | 監督 | |
| 1993〜1993 | 39 | 監督 | |
| 1994〜1994 | 40 | 監督 | |
| 2011〜2011 | 57 | 監督 | |
| 2012〜2012 | 58 | 監督 | |
| 2015〜2016 | 61 | 監督 | |
| 2016〜2016 | 62 | 監督 |
移籍金・年俸・市場価値の推移
移籍履歴
掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。
※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。
出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認
タイトル
クラブ
ASローマ
- セリエA:1回(1982-83)
- コッパ・イタリア:2回(1980-81, 1983-84)
- 欧州チャンピオンズカップ:1回(1983-84)
個人
- FIFAワールドカップ シルバーボール:1回(1982)
- オンズ・ド・ブロンズ:1回(1982)
- セリエA 年間ベストイレブン:3回(1982, 1983, 1984)
- オンズ・ダルジャン:1回(1983)
- グエリン・スポルティーボ誌 世界年間最優秀選手:1回(1983)
- FIFA 100(偉大な選手100人):1回(2004)
- イタリアサッカー殿堂:1回(2016)
- ゴールデンフット賞:1回(2019)
英語の記録名しか確認できないもの(16件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。
本文の一部は、ウィキペディア日本語版「パウロ・ロベルト・ファルカン」(版 108852694)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。
出典
- RSSSF、2026年9月13日 取得 https://rsssf.org/miscellaneous/onze-awards.html
- Wikidata、2026年10月25日 取得 https://www.wikidata.org/
- Wikipedia(日本語版)「パウロ・ロベルト・ファルカン」、版 ID 108852694、2026年10月14日 取得 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%B3
- Wikipedia(英語版)、版 ID 1370921605、2026年10月14日 取得 https://en.wikipedia.org/wiki/Paulo_Roberto_Falc%C3%A3o
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関連項目
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