概要
フェルナンド・レドンド(Fernando Redondo、1969年6月6日生)は、Adrogué出身の元サッカー選手。ポジションはMF。アルゼンチンでは1992年から通算29試合1得点を記録している。クラブでは公式戦通算430試合14得点(1985-86 シーズン以降)。クラブ・代表で通算13個のタイトルを獲得、個人賞は11回。
フェルナンド・カルロス・レドンド・ネリ(Fernando Carlos Redondo Neri, 1969年6月6日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の元サッカー選手。元アルゼンチン代表。現役時代のポジションはミッドフィールダー。
クラブ経歴
アルゼンチン時代
1969年、ブエノスアイレスの中流階級の家庭に生まれる。少年時代はフットサルでボールに慣れ親しんだ。当時憧れていたサッカー選手はリカルド・ボチーニであったという。
10歳の時にAAアルヘンティノス・ジュニアーズの下部組織に入団。1985年9月29日、対CAヒムナシア・イ・エスグリマ・デ・フフイ戦にて15歳でトップチームデビュー。程無くしてレギュラーポジションを得た。1990年に自由契約扱いとなり、スペインのCDテネリフェを移籍先に選ぶ。
テネリフェ
テネリフェではアルゼンチン人監督のホルヘ・バルダーノに重用され、1990-91シーズン、15節のエスパニョール戦で初ゴールを挙げ、UEFAカップ出場も経験した。1994年にバルダーノがレアル・マドリードの監督に就任すると、ホルヘ・バルダーノがチームに獲得をリクエストし、レアル・マドリードに移籍した。
レアル・マドリード
レアル・マドリード移籍直後も怪我に見舞われたものの、レギュラーに定着し、6シーズン在籍。リーガ・エスパニョーラ優勝2回、UEFAチャンピオンズリーグ優勝2回、インターコンチネンタルカップ優勝1回を経験。1997-98シーズンのチャンピオンズリーグでは全11試合に出場、決勝でユヴェントスを破って優勝を果たした。
1999-2000シーズンのUEFAチャンピオンズリーグは主将としてチームを牽引、2000年にオールド・トラッフォードで行なわれた準決勝・対マンチェスター・ユナイテッドFC戦における、ドリブル突破から一発のヒールキックでヘニング・ベルグを抜き去り、ゴールライン際からのスルーパスでラウル・ゴンサレスの決勝ゴールをアシストした。マンチェスター・ユナイテッドの監督であるアレックス・ファーガソンはこの試合の後、「あの選手のブーツには磁石でも入っているのか?」と感嘆の声を上げた。大会を通してフル回転したレドンドは、レアル・マドリード史上初となるチャンピオンズリーグMVPに輝いたが、シーズン終了後、フロレンティーノ・ペレスが会長に就任すると、ペレスにより£11.25ミリオンの移籍金でイタリア・ACミランへ売却された。
ACミラン
2000-01シーズン、ミランはシーズン開幕前、ファリノス、ジェラールの獲得を狙っていたが、獲得出来なかったことから、31歳ではあったものの、実力者のレドンド獲得を決めた。3年契約でチームに加入したが、シーズン前のトレーニング中に膝を故障、初めに手術を施したイタリアの医師は、膝の専門家ではなく、膝は腫れて、痛みは増し、膝の権威による再手術を強いられた。合併症の手術等も含めて復帰までに2年の歳月を要した。その間、高額のサラリーが契約上保証されていたにも関わらず、「チームに貢献してからもらう」と言って休養中のサラリーを全額返還したというエピソードがある。2002-03シーズン、2002年12月3日のコッパ・イタリア、アンコーナとの対戦でようやく複帰した。12月7日のASローマ戦でリーグ戦に初出場した。2003年3月12日、UEFAチャンピオンズリーグのレアル・マドリード戦にてスターティングメンバーとしてサンティアゴ・ベルナベウに帰還。後半79分にアンドレア・ピルロとの交代でピッチを去る際には、スタンドからスタンディングオベーションが送られた。コッパ・イタリア決勝のローマ戦では、第1戦、第2戦とも先発フル出場し、優勝に貢献した。ミランはチャンピオンズリーグ制覇したが、準決勝の第1戦こそ途中出場したが、決勝のユヴェントス戦はベンチ外となった。このシーズン、公式戦19試合に出場、ファンの愛着も獲得し、チームとの契約を1年延長した。翌2003-04シーズン、スクデットを獲得したが、レドンド自身は怪我を克服出来ず、全盛期の輝きを取り戻すことはないまま、2004年のシーズン終了をもって35歳で現役を退いた 。2004年5月16日のブレシア・カルチョ戦で後半60分から出場、現役最後の試合となった(ロベルト・バッジョの現役最後の試合でもある。)。
引退後はブエノスアイレスに住み、レアル・マドリード関連のチャリティーマッチなどに時折顔を出している。
代表経歴
代表経歴
アルヘンティノス時代に、1990年のW杯イタリア大会に臨むアルゼンチン代表の要請を受けるも、学業(法律の学位取得)を優先するという理由で招集を辞退した。
その後監督がアルフィオ・バシーレに替わり、1992年6月18日、対オーストラリア戦でA代表デビュー。中盤の要「5番」として1992年のFIFAコンフェデレーションズカップ、1993年のコパ・アメリカ優勝に尽力。コンフェデレーションズカップでは、大会最優秀選手に選ばれた。1993年8月8日にはワールドカップ予選のパラグアイ戦で代表初ゴールにして唯一のゴールとなったゴールを決めた。
1994年のW杯アメリカ大会にも出場を果たし、グループリーグ初戦のギリシャ戦ではディエゴ・マラドーナの得点をアシストした。マラドーナがドーピング違反で大会から追放されたこともあり、チームは決勝トーナメント1回戦でルーマニアに2-3で敗退した。
アメリカW杯後就任したダニエル・パサレラ監督とは起用法を巡って衝突(この時はレドンドのトレードマークだった長髪を切るかどうかで揉めたと報じられ、1998年フランス大会でレドンドが代表を辞退した理由ともされている)。
パサレラの後任マルセロ・ビエルサの招集には応じ、1999年9月に行われたブラジルとの2試合で代表複帰するなど、2002年のW杯日韓大会に出場する意欲も見せていたが、前述の負傷により本大会出場を断念せざるを得なかった。
個人成績
数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。
クラブ
| クラブ | シーズン | 年齢 | ディビジョン | リーグ | 国内カップ1 | 大陸大会2 | その他3 | シーズン通算 | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| アルヘンティノス | 1985-86 | 16 | アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | — | — | 1 | 0 |
| 1986-87 | 17 | アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
| 1987-88 | 18 | アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン | 14 | 0 | 0 | 0 | — | — | — | — | 14 | 0 | |
| 1988-89 | 19 | アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン | 36 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 36 | 0 | |
| 1989-90 | 20 | アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン | 14 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 14 | 1 | |
| 通算 | 65 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 65 | 1 | |||
| 1990-91 | 21 | ラ・リーガ | 23 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 23 | 1 | |
| 1991-92 | 22 | ラ・リーガ | 32 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 32 | 2 | |
| 1992-93 | 23 | ラ・リーガ | 20 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 20 | 4 | |
| 1993-94 | 24 | ラ・リーガ | 28 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 32 | 1 | |
| 通算 | 103 | 8 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 107 | 8 | |||
| 1994-95 | 25 | ラ・リーガ | 23 | 1 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | 26 | 2 | |
| 1995-96 | 26 | ラ・リーガ | 23 | 2 | 2 | 0 | 4 | 0 | 1 | 0 | 30 | 2 | |
| 1996-97 | 27 | ラ・リーガ | 33 | 1 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 39 | 1 | |
| 1997-98 | 28 | ラ・リーガ | 33 | 0 | 2 | 0 | 11 | 0 | 0 | 0 | 46 | 0 | |
| 1998-99 | 29 | ラ・リーガ | 23 | 0 | 2 | 0 | 7 | 0 | 2 | 0 | 34 | 0 | |
| 1999-2000 | — | ラ・リーガ | 30 | 0 | 5 | 0 | 15 | 0 | 3 | 0 | 53 | 0 | |
| 通算 | 165 | 4 | 17 | 0 | 37 | 1 | 6 | 0 | 225 | 5 | |||
| 2000-01 | 31 | セリエA | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
| 2001-02 | 32 | セリエA | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
| 2002-03 | 33 | セリエA | 8 | 0 | 6 | 0 | 5 | 0 | 0 | 0 | 19 | 0 | |
| 2003-04 | 34 | セリエA | 8 | 0 | 5 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 14 | 0 | |
| 通算 | 16 | 0 | 11 | 0 | 6 | 0 | 0 | 0 | 33 | 0 | |||
| キャリア通算 | 349 | 13 | 28 | 0 | 47 | 1 | 6 | 0 | 430 | 14 | |||
1. 国内カップ戦(コパ・デル・レイ、FAカップ、天皇杯など) 2. 大陸大会(UEFAチャンピオンズリーグ、AFCチャンピオンズリーグなど) 3. 国内スーパーカップ・国際大会・プレーオフなど(UEFAスーパーカップ、FIFAクラブワールドカップ、リーグスカップ等) 年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。
代表
アルゼンチン としての年別成績です。親善試合を含みます。
| 年 | 年齢 | 出場 | 得点 | 得点グラフ |
|---|---|---|---|---|
| 1992 | 22 | 4 | 0 | |
| 1993 | 23 | 13 | 1 | |
| 1994 | 24 | 9 | 0 | |
| 1995 | 25 | 0 | 0 | |
| 1996 | 26 | 0 | 0 | |
| 1997 | 27 | 0 | 0 | |
| 1998 | 28 | 0 | 0 | |
| 1999 | 29 | 3 | 0 | |
| 通算 | 29 | 1 | ||
年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。
所属チーム
クラブ
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1985〜1990 | 15 | |
| 1990〜1994 | 20 | |
| 1994〜2000 | 24 | |
| 2000〜2004 | 30 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
代表
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1992〜1999 | 22 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
移籍金・年俸・市場価値の推移
移籍履歴
掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。
| 時期 | 年齢 | 移籍元 | 移籍先 | 形態 | 移籍金 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1990 | 20 | アルヘンティノス | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | |
| 1994 | 24 | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | ||
| 2000 | 30 | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 |
※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。
出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認
人物相関
所属履歴と出場記録から機械的に算出しています。個人の交友関係についての評価は含みません。
指導を受けた監督
本人の在籍期間と監督の在任期間の重なりから算出しています。取得元(API-Football)に在任期間の登録がある監督だけが対象で、古い年代の監督は登録が無いため出ていません。
| 監督 | クラブ・代表 | 在任 |
|---|---|---|
| フース・ヒディンク | 1998年7月〜1999年3月 | |
| ビセンテ・デル・ボスケ | 1999年11月〜2003年6月 |
タイトル
クラブ
レアル・マドリード
- ラ・リーガ:2回(1994-95, 1996-97)
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ:1回(1997)
- UEFAチャンピオンズリーグ:2回(1997-98, 1999-2000)
- インターコンチネンタルカップ:1回(1998)
ミラン
- セリエA:1回(2003-04)
- コッパ・イタリア:1回(2002-03)
- UEFAチャンピオンズリーグ:1回(2002-03)
- UEFAスーパーカップ:1回(2003)
代表
アルゼンチン代表
- コパ・アメリカ:1回(1993)
個人
- ESM チーム・オブ・ザ・イヤー:1回(1997-98)
- トロフェオEFE:1回(1990-99)
- UEFAクラブ最優秀選手:1回(1999-2000)
英語の記録名しか確認できないもの(8件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。
獲得メダル
代表チームで獲得したメダルです(金2)。当サイトの大会結果データとも照合し、食い違いがあれば掲載しません。
| コパ・アメリカ | 金 1993 エクアドル |
|---|---|
| FIFAコンフェデレーションズカップ | 金 1992 サウジアラビア |
出典は英語版 Wikipedia の「メダル獲得記録(Medal record)」節(記事名・版 ID・取得日は「出典」節に記載)。W杯は当サイトの大会結果データでも一致を確認しています。
英語の記録名しか確認できないもの(1件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。
本文の一部は、ウィキペディア日本語版「フェルナンド・レドンド」(版 106703938)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。
出典
- Wikidata、2026年10月26日 取得 https://www.wikidata.org/
- Wikipedia(日本語版)「フェルナンド・レドンド」、版 ID 106703938、2026年10月14日 取得 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%89
- Wikipedia(英語版)、版 ID 1375477789、2026年10月14日 取得 https://en.wikipedia.org/wiki/Fernando_Redondo
※ 出典は媒体名・日付・URL を文字で記載しています(外部サイトへのリンクは行いません)。出典が確認できない数値はページに載せません。
関連項目
- アルヘンティノス
- テネリフェ
- レアル・マドリード
- ミラン
- アルゼンチン
- ラ・リーガ
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ
- UEFAチャンピオンズリーグ
- インターコンチネンタルカップ
- セリエA
- コッパ・イタリア
- UEFAスーパーカップ
- コパ・アメリカ
- FIFAコンフェデレーションズカップ
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