ロベルト・バッジョ

SOCCERPEDIA / 選手ページ / イタリアのサッカー選手 / 最終更新:2026年9月1日


概要

イタリアロベルト・バッジョ(Roberto Baggio、1967年2月18日生)は、カルドーニョ出身の元サッカー選手。ポジションはFW。イタリアでは1988年から通算56試合27得点を記録している。クラブでは公式戦通算643試合291得点(1982-83 シーズン以降)。クラブ・代表で通算6個のタイトルを獲得、個人賞は51回(オンズ・ド・オンズ 3回、FIFA選抜(FIFA XI) 2回)。

ロベルト・バッジョ(、 1967年2月18日 - )は、イタリア出身の元サッカー選手、実業家。現役時代はファンタジスタと呼ばれた名手の一人で、ポジションはミッドフィールダー、フォワード。元イタリア代表。

1993年にバロンドール、FIFA最優秀選手賞を受賞。セリエAでは通算205ゴールを挙げ、キャリア通算では318ゴールを挙げた。2003-04シーズンで現役引退。弟のエディ・バッジョも元サッカー選手である。

2002年に国連食糧農業機関 (FAO) の親善大使に就任。世界の貧困や飢餓撲滅のための慈善活動に取り組む。病院への寄付、ハイチ地震への寄付、アウンサンスーチー解放への協力などの功績が認められた。2010年11月14日、ノーベル平和賞受賞者世界サミットの事務局から「平和サミット賞」を授与された。

クラブ経歴

ヴィチェンツァ、フィオレンティーナ

キャリアを通じてイタリア国内リーグで活躍。1981年にセリエC1のヴィチェンツァでデビュー。1984-85シーズンに12得点を記録。1985年にはセリエAのACFフィオレンティーナに移籍した。ところが契約成立からわずか2日後、右膝十字靭帯断裂の大怪我を負った。移籍直後の1985-86シーズン、怪我でコッパ・イタリアでの5試合のみの出場となり全てのリーグ戦を欠場、1986-87シーズン5月10日、第29節のナポリ戦でセリエA初ゴールを決めたが、怪我で僅か5試合のみの出場に終わった。1987年9月20日のACミラン戦では60メートルをドリブルしての得点を挙げた。怪我の回復した1988-89シーズンには15得点をあげ、フィオレンティーナはUEFAカップ出場権を獲得した。1989-1990シーズンには第12節のFCアスコリ戦でセリエAで初のハットトリックを決めるなど、リーグ戦で17得点の活躍を見せた。

ユヴェントス

1990年、当時史上最高額の150億リラという移籍金でユヴェントスに移籍、フィレンツェではクラブに対する暴動が起こっている。バッジョ自身も望まぬ移籍だったため困惑していた。ユヴェントスの選手として初めてフィレンツェに戻ってきた試合では、地元のティフォージから裏切り者扱いされ、彼がボールを持つ度にブーイングを浴びせられた。しかし、後半になると状況が一変する。チームは決勝点のチャンスとなるPKを獲得するが、通常のPKキッカーであるバッジョは蹴るのを拒否した。監督の怒りを買ったバッジョは即座に交代を命じられたが、スタンドから拍手を受けながらピッチを去った。一方でこのPKを蹴らなかったことにより、ユヴェントスファンからはチームに対しての忠誠心を疑問視されるなど、ファンからの信頼獲得には時間を要した。1991-92シーズン、フォッジャでは2PKを含めハットトリックを決めた。

1992-93シーズンはリーグ戦で21得点を挙げ、またUEFAカップ決勝のボルシア・ドルトムント戦では第1戦で2ゴールを挙げ、チームを優勝に導いた。これはユヴェントスにとっては1985年以来以来のヨーロッパタイトルだった。この功績・貢献が認められ、同シーズンのFIFA最優秀選手賞とバロンドールを受賞した。1994-95シーズンは怪我で多くの試合を欠場したが、シーズン後半には復調し、ユベントスの9年ぶりのリーグ優勝、コッパイタリア獲得に貢献した。

ACミラン

1995-96シーズンを迎えるにあたり、スタメンを保証されないことを言い渡されるとともに、チームからは減給を要求された。この時レアル・マドリード、マンチェスターユナイテッドらが獲得に興味を示したが、1995-96シーズン、ACミランへの移籍を選択、2節のウディネーゼ戦で移籍後初得点を挙げた。ここで自身にとっては2期連続のリーグ制覇に貢献した。ユベントス時代にはアウェーでのフィオレンティーナ戦でPKを蹴ることを拒否したが、同シーズン第15節では、自らが志願しPKキッカーを務めて得点を挙げた。

1996-97シーズン、開幕のエラス・ヴェローナ戦でゴールを挙げるスタートを切り、第10節、第27節とミラノダービーでは2試合でゴールを挙げたが、タバレス監督からアリゴ・サッキ監督に代わると、ベンチスタートとなるなど、出場機会を減らすこととなり、起用は限定的なものとなり、目立った活躍を見せることはなかった。

ボローニャ

1997-98シーズン、マンチェスターユナイテッドが引退したカントナの後釜に据えるべく獲得に動き、FCバルセロナからも興味を示された。パルマもリーグ初の優勝を目指して獲得に動き、移籍が決定的になっていたが、カルロ・アンチェロッティ監督から希望するセカンドトップではなくFWの一人として起用する予定だと聞くと、パルマではなく、中堅クラブのボローニャへの移籍を選択した(後のパルマに移籍しなかったことを後悔していると明かした。)。開幕のアタランタ戦で即座に得点を挙げると、第7節のナポリ戦ではハットトリック、第30節のミラン戦、第33節のユヴェントス戦でもゴールを挙げるなど、最後の5試合で8得点をマークし、自己最多の22得点を決め、ワールドカップのメンバー入りを果たした。

インテル

1998-99シーズンから、インテルで2シーズンプレー、ロナウドのパートナーとしてと期待されたが、同シーズンのUEFAチャンピオンズリーググループリーグのレアル・マドリード戦で2ゴールを挙げ、ASローマ戦では4アシストを決めるなどの活躍もあった一方、負傷欠場も少なくなく、期待されたロナウドとのプレーもほとんどなかった。

1999-00シーズンからユベントス時代にバッジョを重要視せず確執も伝えられていたマルチェロ・リッピ監督が就任、シーズン前にリッピと面会し、戦力として見ていることや、スタメンで起用される可能性も十分であることを聞かされたが、行き違いなどもあり次第に冷遇され、1月の移籍市場ではローンでの移籍にリヴァプール、アーセナル等が獲得に興味を示したが、代表に復帰してユーロ2000への出場を目指していたことから残留を選択した。

インテル退団が半ば既定となった後の2000年5月23日のCL出場権プレーオフパルマ戦では、前半35分にFKで先制、さらに同点にされた後半38分左足ボレーで決勝点と2ゴール奪って勝利をもたらした。この試合を最後に、解雇に近い形でチームを離れた。この頃、Jリーグの某チームから破格の条件でオファーを受け、移籍を真剣に検討、次のワールドカップへの出場を目指していたことから、トラパットーニ代表監督に日本でプレーしても代表に呼ばれる可能性が有るか尋ね、イタリアに留まる決断をした。

ブレシア

2000-01シーズン、イングランド、スペインといったチームからブレシアの3倍以上の年俸でオファーを受けたが、ヴィチェンツァから近かったこと、カルロ・マッツォーネ監督から誘われ、そのマッツォーネの存在が決めてとなってブレシアへの移籍を決めた。

2001-02シーズンでは、2002年FIFAワールドカップ出場を目指し、シーズン前半からゴールを量産していた。シーズン途中に靭帯を負傷し2ヶ月間離脱。復帰2試合目となった2002年1月31日のコッパ・イタリア準決勝パルマ戦で左膝十字靭帯に全治6ヶ月の負傷を負ってしまう。それでもワールドカップへの出場を目指し、リハビリを経て僅か81日で復帰。4月21日、第32節のフィオレンティーナ戦で後半25分に途中出場、2ゴールを挙げ、第34節のボローニャ戦でも1ゴールを挙げた。しかしワールドカップへの出場は叶わなかった。

2003-04シーズン、第33節のラツィオ戦でシーズン12ゴール目にして現役最後のゴールを挙げた、5月16日、リーグ最終節のサン・シーロでの古巣ACミラン戦が現役最後となり、先発出場し83分の途中交代時には客席全体からスタンディングオベーションが送られた。後にブレシアの背番号10は永久欠番となった。

現役引退後は、数年間の休養を経て2010年にイタリアサッカー連盟の打診を受け、テクニカル部門のスタッフに就任したが、2013年に同職を退任した。以後はサッカー界から距離を置き、現在は故郷カルドーニョに近いアルタヴィッラ・ヴィチェンティーナで隠居生活を送っている。2024年、この隠居先に武装グループが侵入し、銃器で頭部を殴られて負傷する事件が発生した。

代表経歴

代表経歴

イタリア代表としては1988年11月16日に行われたオランダとの国際親善試合でデビュー。1989年4月22日に行われたウルグアイとの国際親善試合で初ゴールをあげた。

FIFAワールドカップにはイタリアW杯(背番号は15)、アメリカW杯(背番号は10)、フランスW杯(背番号は18)に出場し、3位、準優勝、準々決勝進出と、いずれもベスト8に入った。ちなみに3大会の敗退はいずれもPK戦によるもので、バッジョは3大会ともPKキッカーを務めている。一方、欧州選手権にはキャリアを通じて縁がなかった。

1990年イタリア大会

1990年の地元開催では当初はスーパーサブ的存在であったが、グループリーグ第3戦目のチェコスロバキア戦において、中盤から単独ドリブル突破を仕掛け、ディフェンダーを次々と抜き去ってゴールを決めた。

準決勝の相手はマラドーナ率いるアルゼンチンであったが、この試合はバッジョはスタメンから外れ、チームもアルゼンチンに1-1に追いつかれた後、PK戦で敗れた。

フル出場した3位決定戦のイングランド戦ではピーター・シルトンの致命的なミスを突いて先制点を記録し、さらには決勝点となるPKを奪った。

1994年アメリカ大会

前年の1993年に、バロンドールを受賞していたこともあって、周囲の期待は大いに高まっていた。しかし本大会直前に右足を痛めて万全でない状態で1994年ワールドカップを迎えた。

イタリアは、グループリーグ初戦・アイルランド戦を落とし、グループリーグ第2戦ノルウェー戦では、ペナルティーエリア外での故意のハンドの反則をしたGKジャンルカ・パリュウカが退場処分となった際には、アリゴ・サッキ監督により控えGKルカ・マルケジャーニの投入のためにバッジョはベンチに下げられてしまった。 グループリーグ第3戦メキシコ代表戦も引き分け結局、イタリアは1勝1敗1分けで辛うじて決勝トーナメントに進出(当時の規定でグループ3位ながら救われた)。自身は無得点に終わった。

決勝トーナメント1回戦のナイジェリア戦でも先制を許し、反撃の切り札で投入したゾラは不可解な判定で退場処分となり1点を追い掛ける苦しい試合展開になる。しかし、試合終了直前の89分、ついにバッジョが同点弾を決め、延長戦でもPKを沈めた。

準々決勝のスペイン戦でも再び終了直前にカウンターから角度のない所から決勝点をあげて、2-1で勝利。準決勝のブルガリア戦でも続けざまに2得点を挙げて2-1と勝利した。決勝トーナメントの準決勝までの3試合でチーム6得点中5得点、どのゴールも試合を逆転・決定するもので、酷評から一転して救世主扱いとなった。しかし、準決勝で右足の脹脛を痛め、決勝への出場が危ぶまれた。

決勝のブラジル戦、バッジョは強行出場したものの精彩を欠き、試合はワールドカップ決勝史上初のPK戦となった。ブラジルがリードを保ったまま最終キッカーであるバッジョの番となるが、彼はゴール左上にはるか高く打ち上げてしまう。これによってイタリアは優勝を逃した。

本大会の後、自伝の中でPK失敗を回想した際に残した「PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持つ者だけだ」という名言は非常に有名である。

1998年フランス大会

ボローニャでゴールを量産した好調さを買われ、1998年フランスワールドカップのメンバーにサプライズ選出された。パオロ・マルディーニはバッジョに今大会ではアレッサンドロ・デル・ピエロの控えの役割であることを伝えていた。バッジョはそれを了承し、10番をデル・ピエロに譲り、馴染みのある18番を着用した。バッジョは「マルディーニは常に私のチーム内での役割をはっきりさせている」と述べている。大会を通じて2得点1アシストを記録した。

初戦チリ戦で先発出場。パオロ・マルディーニからのロングボールを、バッジョがダイレクトでスルーパスを走りこんだクリスティアン・ヴィエリに通しアシストを記録。その後追いつかれるが、バッジョ自らPKを誘い、これを決めた。またこのゴールで、イタリア代表としてワールドカップの舞台で3大会連続でゴールを決めた初の選手となった。グループリーグ最終戦のオーストリア戦では決勝ゴールを決める活躍を見せた。

準々決勝のフランス戦では途中出場し、延長後半に決定的ともいえるボレーシュートを放つが、ボールはクロスバーをわずかに越えていった。結局、この試合も決着はつかず、PK戦に突入。バッジョは1番手でPKを決めたが、イタリアは3大会連続でPK戦で敗退した。

1999年以降

1999年以降は代表からは遠ざかる。本人は2002年日韓大会出場を熱望し、所属クラブでゴールを挙げ続け、全治6か月の負傷を懸命のリハビリで2か月で復帰するなどアピールを行なったものの招集されることはなかった。現役引退を表明後の2004年4月28日にジェノヴァで行われたスペインとの親善試合にキャリアへの敬意から特別招集され、この試合を最後に代表を引退した。イタリア代表での通算成績は国際Aマッチ56試合出場27得点。

プレースタイル

選手としての特徴

優れたテクニックと、誰も予想できないようなタイミングや方法でパスやシュートをするなど、アイデア溢れるプレーをする選手であり、「ファンタジスタ」という言葉はまさにバッジョのためにあると言われた。

幼少の頃憧れた選手はジーコで、フリーキックの蹴り方を真似るなどしていた。ストライカーではなくプレーメーカーであるが、ミッシェル・プラティニは、9番と10番の間、9.5番であるとプレー振りを分析していた。

人物像

人物

元ローマ・カトリック信者であったが、1980年代に仏教に改宗し、創価学会会員となった。三色旗のキャプテンマークを着用したこともある。

1991年9月に母国の栄誉『イタリア共和国功労勲章』(Cavaliere / Knight)を受章している。

個人成績

数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。

クラブ

クラブシーズン年齢ディビジョンリーグ大陸大会1その他2シーズン通算
出場得点出場得点出場得点出場得点
イタリアヴィチェンツァ1982-8315000————10
1983-8416140——21122
1984-85171252————3414
通算92——214716
イタリアフィオレンティーナ1985-8618050————50
1986-871914210——103
1987-8820673————349
1988-892115109——104124
1989-90221721121——4619
通算28151311013655
イタリアユヴェントス1990-9123145389114727
1991-92241884————4022
1992-9325217396——4330
1993-9426172273——4122
1994-952784284——2914
通算2614322211200115
イタリアミラン1995-962871053——3410
1996-97295535100339
通算63104006719
イタリアボローニャ1997-98302231————3323
インテル・ミラノ1998-993154064213510
1999-0032451——12247
通算9164335917
イタリアブレシア2000-01331030————2810
2001-0234111021——1512
2002-03351200————3212
2003-0436120000——2612
通算4021——10146
キャリア通算8536633275643291

1. 大陸大会(UEFAチャンピオンズリーグ、AFCチャンピオンズリーグなど) 2. 国内スーパーカップ・国際大会・プレーオフなど(UEFAスーパーカップ、FIFAクラブワールドカップ、リーグスカップ等) 年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

代表

イタリア としての年別成績です。親善試合を含みます。

年年齢出場得点得点グラフ
19882010
19892163
19902294
19912321
19922476
19932575
199426125
19952710
19962800
19972921
19983062
19993120
20003200
20013300
20023400
20033500
20043610
通算5627

年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

所属チーム

クラブ

期間年齢チーム
1982〜198514イタリアヴィチェンツァ
1985〜199017イタリアフィオレンティーナ
1990〜199522イタリアユヴェントス
1995〜199727イタリアミラン
1997〜199829イタリアボローニャ
1998〜200030イタリアインテル・ミラノ
2000〜200432イタリアブレシア

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

代表

期間年齢チーム
198416イタリア U-16
1988〜200420イタリアイタリア

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

移籍金・年俸・市場価値の推移

移籍履歴

掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。

時期年齢移籍元移籍先形態移籍金備考
198518イタリアヴィチェンツァイタリアフィオレンティーナ移籍—形態・移籍金は未確認
199023イタリアフィオレンティーナイタリアユヴェントス移籍—形態・移籍金は未確認
199528イタリアユヴェントスイタリアミラン移籍—形態・移籍金は未確認
199730イタリアミランイタリアボローニャ移籍—形態・移籍金は未確認
199831イタリアボローニャインテル・ミラノ移籍—形態・移籍金は未確認
200033インテル・ミラノイタリアブレシア移籍—形態・移籍金は未確認

※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。

出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認

人物相関

所属履歴と出場記録から機械的に算出しています。個人の交友関係についての評価は含みません。

指導を受けた監督

本人の在籍期間と監督の在任期間の重なりから算出しています。取得元(API-Football)に在任期間の登録がある監督だけが対象で、古い年代の監督は登録が無いため出ていません。

監督クラブ・代表在任
マルチェロ・リッピイタリアユヴェントス1994年7月〜1999年2月

タイトル

クラブ

ユヴェントス

ACミラン

個人

英語の記録名しか確認できないもの(34件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。

獲得メダル

代表チームで獲得したメダルです(銀1・銅1)。当サイトの大会結果データとも照合し、食い違いがあれば掲載しません。

FIFAワールドカップ銀 1994銅 1990

出典は英語版 Wikipedia の「メダル獲得記録(Medal record)」節(記事名・版 ID・取得日は「出典」節に記載)。W杯は当サイトの大会結果データでも一致を確認しています。

本文の一部は、ウィキペディア日本語版「ロベルト・バッジョ」(版 110280137)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。

出典

  1. Wikidata、2026年10月25日 取得 https://www.wikidata.org/
  2. Wikipedia(日本語版)「ロベルト・バッジョ」、版 ID 110280137、2026年9月17日 取得 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%B8%E3%83%A7
  3. Wikipedia(英語版)、版 ID 1373232331、2026年10月19日 取得 https://en.wikipedia.org/wiki/Roberto_Baggio

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