宮本恒靖

SOCCERPEDIA / 選手・監督ページ / 日本のサッカー選手 / 最終更新:2026年9月1日


概要

日本宮本恒靖(Tsuneyasu Miyamoto、1977年2月7日生)は、富田林市出身の元サッカー選手。ポジションはDF。日本では2000年から通算71試合3得点を記録している。クラブでは公式戦通算444試合10得点(1995 シーズン以降)。

宮本 恒靖(みやもと つねやす、1977年2月7日 - )は、大阪府富田林市出身の元サッカー日本代表選手。FIFA Master修了。日本サッカー協会・第15代会長。

2013年7月19日、第13期FIFAマスターを卒業し、元プロ選手としては2人目、日本人元プロ選手としては初めてのFIFAマスター卒業生となった。

日本サッカー協会(JFA)の専務理事を経て、現在は日本サッカー協会(JFA)の第15代会長を務める。

クラブ経歴

プロ入り前

大阪府富田林市出身。サッカーを始めたのは富田林市立伏山台小学校5年生。ポジションはフォワードだった。サッカーを始めるまでは、地区の少年ソフトボールをしていた。地元の富田林市立金剛中学校に進学、同校にてサッカーの指導を受けて技術を向上、サッカーを始めてから約3年後の中学2年生時「第14回全日本選抜中学生大会」(現・14歳以下ナショナルトレセン)、日本ジュニアユース代表候補(現・U-15代表候補)合宿に招集。中学校2年生時「大阪府英語暗唱大会」で優勝。

大阪府立生野高等学校時代はガンバ大阪ユースに所属し、上級生がいなかったため初代キャプテンに就任、ユースチーム卒業までの3年間務めた。ユースでは1994年12月にJユースカップで優勝し初めてのタイトルを得た。1993年にはU-17日本代表に選ばれ、日本で開催された1993 FIFA U-17世界選手権に出場しベスト8の成績をおさめた。U-18ジュニアユース(監督・山本昌邦)招集された。

ガンバ大阪時代

1995年6月24日、ガンバ大阪のトップチームにクラブでは初めて昇格し(同期入団は實好礼忠、森下仁志、中口雅史、高木健旨、松山明男)、スイーパーとして活躍。プロ契約後、数年間中々出場機会に恵まれず、ポジションも頻繁に変わりプロ選手として苦悩する事になる。同時期に同志社大学経済学部に進学。労働経済学のゼミに所属し、2001年に卒業した。

1996年から1998年頃、当時のクゼ、アントネッティ両監督にはボランチで起用されたこともあった。初ゴールは1997年10月4日、同年オールスター戦にも初選出されキャプテンを務める。2000年にトップチームの主将に就任、オールスター戦にJ-EASTとJ-WESTの両チーム合わせての得票1位で選出(2002年も1位選出される)。2001年1月にイングランドサッカーのトップリーグであるプレミアリーグに所属していたウェストハム・ユナイテッドFCへの移籍を試みたが、イギリス政府から労働ビザが発給されずに断念した。このゴタゴタで、背番号が5から35になった が、2003年からは再び5番に戻った。2002年に就任した西野朗監督にはセンターバックで起用され、山口智・シジクレイ・デ・ソウザと3バックを形成した。2004年度には再び主将に就任。2005年12月3日、リーグ最終節の川崎フロンターレ(等々力陸上競技場)戦ではヘディングシュートを決め、クラブ初、自身にとっても初となるJリーグ優勝のタイトルを得て、ピッチ上で号泣した。

レッドブル・ザルツブルク時代

2006年シーズン終了後、オーストリア・ブンデスリーガのレッドブル・ザルツブルクに1年間の契約で完全移籍し、初年度にリーグ優勝を果たした。

レッドブル・ザルツブルクでは、4バックの左右どちらのセンターバックもこなし、2007-08年シーズンからはSKラピード・ウィーン戦(12月7日)、SKシュトゥルム・グラーツ戦(12月15日)などで左サイドバックとしてもスタメン出場した。宮本本人は自らのブログで10年ぶりにこのポジションでプレーしたと振り返っている。

2008年1月、チームでの練習中に左太腿裏の腱断裂の怪我を負い、現地で手術、リハビリに務めることになった。6月に本格的に練習再開、8月17日には8か月ぶりに公式戦出場を果たす。同年10月28日のオーストリア協会カップ3回戦では海外移籍後初のキャプテンを任され、フル出場した。 前任者のジョバンニ・トラパットーニ監督時代と違い、コー・アドリアーンセ新監督が就任してからは試合出場機会が減少した。

2008-2009シーズンはアドリアーンセ監督が攻撃戦術を採用した影響もあり、リーグ戦は1試合も出場機会がなかった。2部に所属するリザーブチームのリーグ戦には3試合に出場。そのため、ザルツブルクとの契約は6月まで残っていたものの出場機会を求めて移籍を検討。クロアチアリーグやオーストリア国内のクラブからもオファーが届いていたが、欧州での経験を日本で生かしたいという思いから、複数年契約や高額年俸を用意するなど熱心に誘いのあったヴィッセル神戸入りを決めた。

ヴィッセル神戸時代

2009年1月15日、ヴィッセル神戸が、ザルツブルクとの間で完全移籍に合意したと発表した。神戸入団後に主将に就任。2009年の序盤戦はセンターバックで、2009年の後半はボランチの位置でプレーするようになった。同年7月18日のJ1リーグ第18節川崎戦では自身初となるバイシクルシュート(オーバーヘッドキック)を決め、これが宮本のプロ選手生活で最後の公式戦ゴールとなった。2010年および2011年は北本久仁衛と河本裕之をバックアップする控えのセンターバックとしてプレーし、出場機会は減った。2011年はJ1リーグ戦で4試合出場のみ、うち先発は第23節の福岡戦(レベスタ)と公式戦最終出場試合ともなった最終節の仙台戦(ユアスタ)の2試合だったが、残る30試合でも全てベンチ入りをしていた。

2011年のシーズン終了後、宮本は神戸側から出されていた契約延長の申し出を固辞。12月19日に現役引退を表明した。また、引退後に国際サッカー連盟(FIFA)がスイスで運営する「FIFAマスター」(「スポーツに関する組織論、歴史・哲学、法律についての国際修士」の大学院コース)で学び、また、コーチングライセンスの取得を目指す意向を示した。

代表経歴

代表経歴

1997年にU-20日本代表に選出され、ワールドユースでキャプテンとして5試合に出場。

シドニー五輪を目指すU23代表でもフラット3の中心を担うと、2000年6月18日のキリンチャレンジカップ・ボリビア戦で日本代表初出場。シドニー五輪本大会ではオーバーエイジで加わった森岡隆三に押し出されベンチメンバーとなるが、森岡が累積警告による出場停止となったグループリーグ第3戦のブラジル代表選でスタメン起用される。

その後A代表の常連となるが、フラット3の中央には森岡が絶対的なレギュラーとして君臨しており、宮本はその控えの立場であった。2002年日韓W杯を前に森岡が怪我で一時離脱した際に出場した試合で不安定なプレーを繰り返したうえに、大会直前の静岡産業大学との練習試合で競り合った際に相手FW松下和磨の肘が顔に入り鼻骨骨折すると、森岡の復帰を待望する声が大きくなる。森岡が本大会に間に合わせる形で復帰したため、控えに戻った宮本だったが、初戦のベルギー戦で森岡が再び負傷してしまった事により緊急で途中出場。同点ゴールを献上してしまった事もあり、宮本のプレーを不安視する声もあがるが、次戦以降は不安視を一蹴するほどの獅子奮迅の活躍を見せ、日本代表初のベスト16進出に貢献。また、前述の鼻骨骨折により顔面を保護するために兵庫医大病院が用意した医療器具のフェイスガード(ノーズガード)を付けてのプレーとなったが、その姿を見た海外のメディアから、バットマンと渾名された。

トルシエ後のジーコJAPANでは、発足時よりキャプテンを務めた中田英寿が故障で離脱して以降、出場した試合全てのキャプテンを務めた。代表初ゴールは2004年2月7日のマレーシア戦。同年のアジアカップ準々決勝のヨルダン戦のPK戦では、中村俊輔と三都主アレサンドロが外したことで窮地に陥ると、マレーシア出身のスブヒディン・モハマド・サレー主審に、「これはフェアじゃない。ピッチ状態がよいほうでやるべきだ」と通訳なしでPKの位置変更を申し入れ、前代未聞のPK戦途中でのサイド位置を実現させた。この結果、川口能活のファインセーブもありこのPK戦を制すると、日本代表は2大会連続のアジア制覇を果たし、自身も大会ベストイレブンに選出された。

2006年、自身2大会連続2度目のワールドカップ出場となった2006年ドイツW杯では、第1戦(オーストラリア戦)と第2戦(クロアチア戦)はフル出場したが、第3戦(ブラジル戦)は累積警告により出場出来なかった。ドイツW杯以降は代表に選出されなかった為、クロアチア戦がA代表最後の出場となった。

試合数

注:2002年5月7日、国際Aマッチではない親善試合として、レアル・マドリード対日本代表戦が行なわれた。したがって、日本代表としての出場試合数は72となる。

監督経歴

現役引退後

現役引退後は、FIFAマスター入学に向けての準備に励む傍ら、サッカー教室などを開催したり、NHKやWOWOWのサッカー中継にゲスト解説者として登場。2012年ロンドンオリンピックの期間中には、ジャパンコンソーシアムの男女サッカー中継に解説者として出演した。

2012年4月17日に自らの公式サイト内のブログで、FIFAマスター第13期生への合格を公表した。日本人の元プロサッカー選手では初めての合格で、2012年9月17日に入学した。卒業してからも、引き続き欧州にて指導者資格の取得を目指す可能性があることを表明している。

2013年7月19日、2012-2013年FIFAマスター第13期生修了式が行われ、宮本恒靖を含め24か国の生徒が卒業した。日本人は2013年7月19日時点で、宮本を含め通算9名ほどがFIFAマスターを卒業している。元プロサッカー選手の卒業生は2名で、日本人元プロサッカー選手としては宮本が初めてである。

なお、ロンドンオリンピック開幕直前の2012年7月16日には、ホームズスタジアム神戸で引退試合を開催。ガンバ・ヴィッセル・日本代表時代のチームメートが多数参加したほか、中田英寿や宮本の長男もサプライズで登場した。この試合はスカチャン、BSスカパー!で生中継されたほか、同月22日の深夜には、この試合のダイジェストを中心に構成された特別番組『宮本恒靖引退試合スペシャル〜日本のキャプテン17年の歩み〜』が、毎日放送で放送されている。

FIFAマスター取得後の2013年10月、ベースボール・マガジン社発行のサッカー専門誌「サッカーマガジン」のリニューアル(週刊から月刊の「サッカーマガジンZONE」に移行) に伴い、特別編集長を委嘱される。

2014年1月31日より、日本プロサッカーリーグにリーグ運営の円滑化を目的として新たに設置される、議決権を持たない特任理事(非常勤)に就任。

2014年4月4日、2014年ブラジルW杯テクニカルスタディーグループ10名のうちの1人(試合を分析し、技術や戦術、傾向などを分析し、試合ごとのテクニカルリポート及び大会の総括リポートを作成するグループ。指導改善や強化に役立てる。W杯では、1966年イングランドW杯から導入)に内定したと発表された。

2015年、古巣・G大阪のアカデミーコーチングスタッフに就任。ジュニアユースチームのコーチを務めるかたわら、トップチームの指導に必要な日本サッカー協会公認S級コーチライセンスの講習を受けた。また、シーズン終了後には、Jリーグの功労選手賞を受賞した。

監督時代

2016年、G大阪ユースの監督に就任。1月21日には、日本サッカー協会の理事会で、S級コーチライセンスの取得を認められた。前年の講習を受講した21名の中で、最も早い認定であった。9月1日、ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルで計画していたサッカーによる民族融和を進める為、7歳から12歳の男女を対象としたサッカー・アカデミー「マリ・モスト(小さな橋)」の施設がほぼ完成して、10月9日に開校して引き渡し式も行われる予定である。

2017年、J3・G大阪U-23の監督に就任。3月12日の開幕戦(対ガイナーレ鳥取)では、代表でチームメートだった森岡隆三と監督として対戦した。翌年もG大阪U-23の指揮を執っていたが、同年7月23日、同日に解任が発表されたレヴィー・クルピの後任として、トップチームの監督に就任した。コミュニケーション力を発揮し、チーム全体の事だけでは無く一人一人の役割についても分かり易く細分化して選手に伝えて、仕事に全うできる状況を作り上げた。その結果チーム成績も向上し、第25節から第33節にかけて9連勝を記録するなど10勝3分4敗の成績を残し、就任時の16位から9位にまで順位を浮上させた。2019年はリーグ7位で終えると、2020年はリーグ2位・天皇杯準優勝の実績を残した。

2021年は開幕から10試合で1勝4分5敗の18位と低迷し、5月14日に監督解任が発表された。

日本サッカー協会役員時代

2022年3月、日本サッカー協会理事に就任。新設の会長補佐と国際委員長を兼務。2023年2月1日には専務理事に就任。

2023年12月24日、2024年3月をもって最終任期で会長を退任する田嶋幸三の後任として、3月24日付で第15代日本サッカー協会会長に史上最年少で就任した。元プロサッカー選手、元Jリーガー、ワールドカップ出場経験者として初めてのサッカー協会会長となる。

プレースタイル

選手としての特徴

向かってくる相手攻撃陣の次のプレーを予想する読みのするどさと、ピンチのときでも率先して味方選手をひっぱるリーダーシップを持ち、所属していたガンバ大阪でも日本代表でもディフェンス陣のリーダーとして活躍した。

人物像

エピソード

英語が堪能であり2004年のアジアカップでPK戦で審判にピッチについて英語で抗議し、PK戦を行うゴールを変えさせたエピソードがある。英語は、留学等を経ず中高の公教育のみで習得している。ただし母が英語教師だったこともあり指導を受けていた。

発言集

一次情報の発言のみ収録。1回の会見につき主要な発言を最大3つ引用し、他は解説で要約しています。

2026-27シーズン(2件)
2026年10月23日本人コメント宮本恒靖(本人)/公式インタビュー
JFA会長として2027年1月開催予定のアジアカップの可否判断に当たり、宮本会長は情勢不安定なサウジアラビアでの開催困難性を言及した。前日に外務省が危険レベルを引き上げ渡航中止勧告を出す中での発言で、11月中旬の理事会での決定に向けてサウジ側とのミーティングを実施。安全面を最優先課題に掲げ、延期や代替案検討の意思も示した。
「やはり安全ではないので、そこに関しては開催は現時点では簡単じゃないと思っています」
「彼らが一番に考えているのは選手であったり、サポーターの皆さんであったり、大会に参加するであろう人たちの安全だというふうに言っていた」

出典:FOOTBALL ZONE 2026年10月23日

2026年10月15日本人コメント宮本恒靖(本人)/クラブ公式発表
映画『最高の景色への挑戦』の公開に際して、日本サッカー協会会長の宮本恒靖がコメントを発表した。元日本代表キャプテンとしてワールドカップを経験した立場から、大会の重要性と選手たちの背景にある努力や支援の重要性を語り、目指していた『最高の景色』に届かなかったことへの向き合い方や、今大会で得た手応えと課題を次へつなぐ決意を述べた。
「ワールドカップは、世界中のサッカーに関わる⼈たちにとって特別な⼤会です。そこには、歓喜も悔しさも、⾔葉では語り尽くせない数多くの瞬間があります。」

出典:Goal.com 日本語版 2026年10月15日

個人成績

数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。

クラブ

クラブシーズン年齢ディビジョンリーグ国内カップ1リーグカップ2大陸大会3シーズン通算
出場得点出場得点出場得点出場得点出場得点
日本ガンバ大阪199518J1リーグ11040————150
199619J1リーグ1302070——220
199720J1リーグ2613040——331
199821J1リーグ3201040——370
199922J1リーグ3002020——340
200023J1リーグ2900040——330
200124J1リーグ2403020——290
200225J1リーグ2012020——241
200326J1リーグ2612051——332
200427J1リーグ2401000——250
200528J1リーグ3032040——363
200629J1リーグ301500051402
通算2957270341513619
オーストリアレッドブル・ザルツブルク2006-0729オーストリア・ブンデスリーガ9010——00100
2007-0830オーストリア・ブンデスリーガ12000——30150
2008-0931オーストリア・ブンデスリーガ0020——0020
通算21030——30270
日本ヴィッセル神戸200932J1リーグ3212050——391
201033J1リーグ602040——120
201134J1リーグ401000——50
キャリア通算35883504318144410

1. 国内カップ戦(コパ・デル・レイ、FAカップ、天皇杯など) 2. リーグカップ(EFLカップ、JリーグYBCルヴァンカップなど) 3. 大陸大会(UEFAチャンピオンズリーグ、AFCチャンピオンズリーグなど) 年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

代表

日本 としての年別成績です。親善試合を含みます。

年年齢出場得点得点グラフ
20002220
20012330
200224110
200325100
200426192
200527151
200628110
通算713

年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

監督成績

在任別・通算

英語版 Wikipedia の Managerial statistics の値です(Wikipedia(英語版)、revid 1364039001)。勝率は勝利数÷試合数。当サイトによる補完・推計は行っていません。

在任期間年齢チーム試合勝分敗勝率
——日本ガンバ大阪U-234913102626.5%
——日本ガンバ大阪11752263944.4%
通算16665366539.2%

所属チーム

ユース

期間年齢チーム
1992〜199414日本ガンバ大阪

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

クラブ

期間年齢チーム
1995〜200617日本ガンバ大阪
2006〜200928オーストリアレッドブル・ザルツブルク
2009〜201131日本ヴィッセル神戸

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

代表

期間年齢チーム
199315日本日本 U-17
199719日本日本 U-20
200022日本日本 U-23
2000〜200622日本日本

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

監督

在任年齢チーム役職
2017〜201839日本ガンバ大阪U-23監督
2018〜202140日本ガンバ大阪監督

移籍金・年俸・市場価値の推移

移籍履歴

掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。

時期年齢移籍元移籍先形態移籍金備考
200629日本ガンバ大阪オーストリアレッドブル・ザルツブルク移籍—形態・移籍金は未確認
200932オーストリアレッドブル・ザルツブルク日本ヴィッセル神戸移籍—形態・移籍金は未確認

※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。

出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認

人物相関

所属履歴と出場記録から機械的に算出しています。個人の交友関係についての評価は含みません。

指導を受けた監督

本人の在籍期間と監督の在任期間の重なりから算出しています。取得元(API-Football)に在任期間の登録がある監督だけが対象で、古い年代の監督は登録が無いため出ていません。

監督クラブ・代表在任
西野朗日本ガンバ大阪2002年2月〜2012年1月

獲得メダル

代表チームで獲得したメダルです(金1)。当サイトの大会結果データとも照合し、食い違いがあれば掲載しません。

AFCアジアカップ金 2004 中国

出典は英語版 Wikipedia の「メダル獲得記録(Medal record)」節(記事名・版 ID・取得日は「出典」節に記載)。W杯は当サイトの大会結果データでも一致を確認しています。

本文の一部は、ウィキペディア日本語版「宮本恒靖」(版 111136331)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。

出典

  1. FOOTBALL ZONE、2026年10月23日、2026年10月23日 取得 https://www.football-zone.net/archives/680507
  2. Goal.com 日本語版、2026年10月15日、2026年10月15日 取得 https://www.goal.com/jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/2026-1015-goal-japan-one-eiga-jp/blt82f741729e83e056
  3. Wikidata、2026年10月25日 取得 https://www.wikidata.org/
  4. Wikipedia(日本語版)「宮本恒靖」、版 ID 111136331、2026年10月14日 取得 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E6%81%92%E9%9D%96
  5. Wikipedia(英語版)、版 ID 1364039001、2026年10月14日 取得 https://en.wikipedia.org/wiki/Tsuneyasu_Miyamoto

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