概要
エルンスト・ハッペル(Ernst Happel、1925年11月29日 - 1992年11月14日)は、ウィーン出身の元サッカー選手。ポジションはDF。クラブ・代表で通算35個のタイトルを獲得。
エルンスト・ハッペル(Ernst Happel、1925年11月29日 - 1992年11月14日)は、オーストリア・ウィーン出身の元サッカー選手、サッカー指導者。
指導者としてオランダ、ベルギー、西ドイツ、オーストリア全ての国でリーグと国内カップ戦優勝を果たし、サッカー史上最高の監督の一人にも挙げられている。1978 FIFAワールドカップでは、外国人監督ながら指揮したオランダ代表を同大会準優勝に導いた。
クラブ経歴
監督として
現役引退後のハッペルはサッカー指導者の道に進んだ。1962年、最初に率いたクラブであるFCデン・ハーグ(現在のADOデン・ハーグ)では1968年のオランダカップを獲得。 FCデン・ハーグの後に1969年にフェイエノールトの監督に就任。ファイタータイプが多く、伝統的に実直で泥臭い戦いをするチームに先進的なプレッシング戦術、良く配慮された攻撃的なフットボールをもたらした。その結果、フェイエノールトは1970年のUEFAチャンピオンズカップとインテーコンチネンタルカップ、1971年のエールディヴィジで優勝。クラブにとってもハッペル本人にとっても黄金期となった。後にハッペルの伝記を書いたクラウス・デァムンツは「彼は妥協無く戦うこのクラブの性格に、優雅さを教え、この街とこのクラブに自信を与えた」と記している。
1978年FIFAワールドカップ・アルゼンチン大会では、オランダ代表の監督として、準優勝に導く。外国人監督のワールドカップ準優勝は他に1958年大会でスウェーデンのイングランド人監督ジョージ・レイノルのみが達成している。
その後、セビージャFC、クラブ・ブルッヘ、ハンブルガーSVなどの監督を歴任。 フェイエノールトでチャンピオンズカップを制した13年後の1983年には、ハンブルガーSVで再びチャンピオンズカップを獲得した。異なる二つのクラブでチャンピオンズカップを獲得した初の監督となった(その後オットマー・ヒッツフェルト、ジョゼ・モウリーニョ、ユップ・ハインケス、カルロ・アンチェロッティが達成)。
1987年、の監督としてオーストリアに戻り、1992年にオーストリア代表の監督になる前に2度オーストリア・ブンデスリーガにて優勝した(1989年、1990年)。
1992年1月、オーストリア代表監督に就任。しかし、就任から10ヶ月後の11月14日に肺がんのため死去した。享年66歳であった。ハッペルの死後4日後に開催されたドイツ代表との親善試合では、ハッペルが生前に好んで使用していた帽子がベンチに置かれ、試合は0-0でのスコアレスドローに終わった。
彼の死後、オーストリアの最も大きなサッカー専用スタジアムであるウィーンのプラターシュタディオンは、エルンスト・ハッペル・シュタディオンへと改名され、1997年にはロッテルダムに「エルンスト・ハッペル通り」と名付けられた通りができた。
ヨーロッパの監督として初めて「プレッシング」の戦術を開発し、オフサイドトラップ、ゾーンプレスなど当時としては最先端の戦術を次々とチームに導入。フェイエノールトの中心選手だったヴィレム・ファン・ハネヘムは「良いフットボールはアムステルダムから生まれたと強調される度に私は腹が立つ。1970年のヨーロッパ・カップ決勝は事実がそうではなかったという最良の証拠だった」と後に語っている。
人物像
人物
元来無骨で無愛想な監督として知られ、記者会見にてハッペル自身のプライベートな質問が投げかけられると決まって不機嫌になり、短い言葉で回答するにとどまっていた。しかし、死後には遺族から裏の顔として子煩悩で自身の孫のことを非常に甘やかしていたとも明かされている。
私生活ではタバコを愛してやまないヘビースモーカーであり、1981年に発行された『Der Spiegel』のハッペルを特集した記事の見出しには「ブンデスリーガの愛煙家王」と記載されていた。
監督成績
在任別・通算
英語版 Wikipedia の Managerial statistics の値です(Wikipedia(英語版)、revid 1377116125)。勝率は勝利数÷試合数。当サイトによる補完・推計は行っていません。
| 在任期間 | 年齢 | チーム | 試合 | 勝 | 分 | 敗 | 勝率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1962.08〜1967.05 | 36 | 176 | 84 | 43 | 49 | 47.7% | |
| 1967.05〜1967.07 | 41 | 12 | 5 | 3 | 4 | 41.7% | |
| 1967.07〜1969.05 | 41 | 82 | 38 | 24 | 20 | 46.3% | |
| 1969.08〜1973.05 | 43 | 169 | 121 | 29 | 19 | 71.6% | |
| 1974.01〜1978.10 | 48 | 227 | 131 | 49 | 47 | 57.7% | |
| 1977.08〜1978.06 | 51 | 12 | 8 | 2 | 2 | 66.7% | |
| 1981.07〜1987.06 | 55 | 250 | 141 | 50 | 59 | 56.4% | |
| 1987.07〜1991.12 | 61 | 201 | 114 | 48 | 39 | 56.7% | |
| 1992.01〜1992.11 | 66 | 9 | 2 | 3 | 4 | 22.2% | |
| 通算 | 1137 | 643 | 251 | 243 | 56.6% | ||
所属チーム
ユース
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1938〜1942 | 12 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
クラブ
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1942〜1954 | 16 | |
| 1955〜1956 | 29 | |
| 1956〜1959 | 30 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
代表
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1947〜1958 | 21 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
監督
| 在任 | 年齢 | チーム | 役職 |
|---|---|---|---|
| 1962〜1969 | 36 | 監督 | |
| 1969〜1973 | 43 | 監督 | |
| 1973〜1974 | 47 | 監督 | |
| 1974〜1978 | 48 | 監督 | |
| 1977〜1978 | 51 | 監督 | |
| 1979〜1979 | 53 | 監督 | |
| 1979〜1981 | 53 | 監督 | |
| 1981〜1987 | 55 | 監督 | |
| 1987〜1991 | 61 | 監督 | |
| 1992〜1992 | 66 | 監督 |
移籍金・年俸・市場価値の推移
移籍履歴
掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。
| 時期 | 年齢 | 移籍元 | 移籍先 | 形態 | 移籍金 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1955 | 29 | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | ||
| 1956 | 30 | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 |
※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。
出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認
タイトル
クラブ
ラピド・ウィーン(選手)
- オーストリア・ブンデスリーガ:6回(1945-46, 1947-48, 1950-51, 1951-52, 1953-54, 1956-57)
- オーストリア・カップ:1回(1945-46)
フェイエノールト(監督)
- エールディヴィジ:1回(1970-71)
- 欧州チャンピオンズカップ:1回(1969-70)
- インターコンチネンタルカップ:1回(1970)
ハンブルガーSV(監督)
- 欧州チャンピオンズカップ:1回(1982-83)
- ブンデスリーガ:2回(1981-82, 1982-83)
- DFBポカール:1回(1986-87)
FCスワロフスキー・ティロル(監督)
- オーストリア・カップ:1回(1988-89)
英語の記録名しか確認できないもの(17件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。
獲得メダル
代表チームで獲得したメダルです(銀1・銅1)。当サイトの大会結果データとも照合し、食い違いがあれば掲載しません。
| FIFAワールドカップ | 銀 1978銅 1954 |
|---|
出典は英語版 Wikipedia の「メダル獲得記録(Medal record)」節(記事名・版 ID・取得日は「出典」節に記載)。W杯は当サイトの大会結果データでも一致を確認しています。
本文の一部は、ウィキペディア日本語版「エルンスト・ハッペル」(版 111207228)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。
出典
- Wikidata、2026年10月26日 取得 https://www.wikidata.org/
- Wikipedia(日本語版)「エルンスト・ハッペル」、版 ID 111207228、2026年10月11日 取得 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%83%E3%83%9A%E3%83%AB
- Wikipedia(英語版)、版 ID 1377116125、2026年10月12日 取得 https://en.wikipedia.org/wiki/Ernst_Happel
※ 出典は媒体名・日付・URL を文字で記載しています(外部サイトへのリンクは行いません)。出典が確認できない数値はページに載せません。
関連項目
- ラピード・ウィーン
- RCパリ
- ADOデン・ハーグ
- フェイエノールト
- セビージャ
- クラブ・ブルッヘ
- オランダ
- KRCハーレルベーケ
- スタンダール・リエージュ
- ハンブルガー
- スワロフスキー・ティロル
- オーストリア
- オーストリア・ブンデスリーガ
- オーストリア・カップ
- エールディヴィジ
- 欧州チャンピオンズカップ
- インターコンチネンタルカップ
- ブンデスリーガ
- DFBポカール
- FIFAワールドカップ
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