加藤久

SOCCERPEDIA / 選手ページ / 日本のサッカー選手 / 最終更新:2026年9月1日


概要

日本加藤久(Hisashi Kato、1956年4月24日生)は、利府町出身の元サッカー選手。ポジションはDF。

加藤 久(かとう ひさし、1956年4月24日 - )は、日本のサッカー指導者、元サッカー選手、スポーツ研究者(博士(学術))。宮城県宮城郡利府町出身。

クラブ経歴

現役時代

県内屈指の進学校である宮城県仙台第二高等学校の出身。仙台二高在学時より将来を嘱望され、早稲田大学に憧れていたため、猛勉強の末に一般入試で同大教育学部へ進学(同じ18歳入学の同級生たるPL学園高校硬式野球部の不動の3番二塁手だった金森栄治とは現在も大親友)、早稲田大学ア式蹴球部へ入部、DFやディフェンシブな中盤の選手としてプレーした。関東大学リーグや大学サッカー選手権を始め多くのタイトルを獲得した。また在学中の1977年に日本代表に選出された。

1979年に早稲田大学を卒業し、1年のブランクを経て1980年からは日本サッカーリーグ(JSL)1部の読売サッカークラブに入団。スイーパーを務め、守備のリーダーとしてチームを統率。1980年代から1990年代初頭に掛けてJSL1部5回、天皇杯3回など、DFとしてクラブ黄金時代を支えた。

日本代表としては、1977年7月5日にカルクム・ビトラーとの親善試合で代表デビューを果たした。翌年12月15日、アジア競技大会での韓国戦で代表初得点を決めた。1985年に行われた1986 FIFAワールドカップ・アジア予選 では主将を務め、最終予選まで勝ち進んだが、出場を懸けた最終予選の韓国代表との第1戦では、CKから放ったヘディングシュートがクロスバーに当たって得点を奪えず、1-2で破れた。続く第2戦0-1と敗れ、本大会への出場を逃した。

1987年のソウルオリンピック予選においても最終予選まで駒を進め、第1戦で中国代表に1-0と勝利、引き分けでも1968年メキシコ以来のオリンピック出場権を得られる条件に加え、ホームでの対戦であったが、第2戦で0-2と破れ、オリンピック出場は得られなかった。この試合を最後に日本代表から退いた。

1991年、読売クラブでの現役、それもレギュラーの選手ながら、日本サッカー協会から強化委員会の一員に選ばれた。日本代表としての活躍と、早稲田大学助教授という高い学識の双方の経験を買われての起用だった。1993年には強化委員会の副委員長になり、日本代表監督のオフトやファルカンへの評価を下す立場になった。

1993年5月15日、横浜マリノスとのJリーグ開幕戦に先発出場したが、松木安太郎監督とポジショニングを巡り対立し、以降の試合では数試合でベンチ入りするも、イェーネ・ハンセンにポジションを奪われるなどもあって起用されず、移籍を希望するようになった。ヴェルディの副社長との話し合いの末、一度は残留に傾いたが、結局、Jリーグ移籍第1号選手として7月に清水へと移籍、移籍後初戦のジェフ市原戦では額を切って包帯を頭に巻きながらのプレーを強いられた。加藤加入後の清水の守備は安定して優勝争いに加わったが、ヴェルディに競り負け優勝を逃した。Jリーグカップでも清水は決勝でヴェルディに敗れて優勝を逃した。同年7月17日にはJリーグオールスターサッカーに先発出場した。

1994年シーズンも清水と契約したが、埼玉県所沢市にある早稲田大学所沢キャンパスで学生指導、あるいは東京都渋谷区(当時)での日本サッカー協会で仕事をした後、東京から清水まで移動する長距離通勤生活は限界があった。チーム練習参加が難しかったこともあり、常時出場は難しく、1stステージ6節でようやくベンチ入り、7節で初出場したが、僅か6試合の出場に留まった。14節の鹿島アントラーズ戦では2枚のイエローカードを受けて退場となった。一方、V川崎ではネルシーニョがヘッドコーチとなって松木監督との共同指導体制に移行し、一時は移籍を決断したラモスなどのベテラン選手の不満を容れて再びブラジルスタイルへ回帰していた。この状況で、加藤は再びV川崎へ移籍(復帰)することになった。同年7月23日にはJリーグオールスターサッカーに2度目となる先発出場した。

同年7月、2ndステージから1年ぶりにヴェルディへ復帰したが、センターバックはペレイラ、廣長優志が先発起用されていたこともあり、出場機会は限られたことから、現役引退を発表した。現役最後の公式戦はJリーグチャンピオンシップのサンフレッチェ広島戦、11月26日の第1戦(1-0)に続いて12月2日の第2戦でも先発出場、ラモスがループシュートを決めて1-0と連勝し、V川崎が2年連続での王者に輝いた。試合後に加藤は親友のラモスと抱擁し、有終の美を飾り、現役を(日刊スポーツ・加藤の写真あり)。

引退後と指導者経歴

1995年からは大学での指導と協会の仕事に携わり、ファルカン解任で就任した加茂周監督の評価を行った。1996年のアジアカップで日本代表はクウェートに敗れてベスト8に終わり、更に加茂が帰国時に体調不良を訴えると、強化委員会は加茂の更迭を主張し、後任にネルシーニョを推薦した。しかし、協会会長の長沼健はこれを退け、加茂の続投を決めたことで、強化委員会は存在意義を失い、加藤は強化委員を辞任した。

1997年、ヴェルディの監督に就任。元JリーガーとしてJリーグクラブチームの監督になった人物は史上初である。この時に早稲田大学も退職し、初めてサッカーに専念する生活になった。しかし、メンバーの高齢化、前園らの新戦力が活躍出来なかったこともあり、12試合で4勝8敗の16位と低迷した責任を取って、1stステージ途中の6月に辞任した。その後はテクニカルディレクターとして活動し、1998年には東京工業大学の博士課程に進学して、再び大学とサッカーを両立させる生活に戻った。

1999年にはヴェルディを離れ、Jリーグの技術委員として活動した後、2000年にはJ2・湘南ベルマーレの監督に就任した。ヴェルディ時代に獲得した前園真聖をレンタルで呼び、松原良香などアトランタオリンピックに出場した選手を中心として戦ったが、1年でのJ1復帰というチーム目標は達成できず、シーズン終了後に解任された。この解任劇でフロントに不信感を持った前園、松原らこのシーズンを支えた主力もチームを去った。

その後は解説者などとしても活動し、東京工業大学で博士の学位を取得した2003年に沖縄かりゆしFC(九州サッカーリーグ)の監督に招聘されたが、チームの運営に関する内紛に巻き込まれてシーズン途中の9月に今シーズン限りのでの辞任が発表された。それでも加藤はチームを九州サッカーリーグ優勝に導いたが、全国地域リーグ決勝大会で敗れて日本フットボールリーグ(JFL)昇格は逃した。しかし、加藤は沖縄との関係を残し、小学生から高校生まで、女子を含めて青少年世代の育成を目指すヴィクサーレ沖縄FCをNPOとして設立し、その理事長となった。このチームはU-15(中学生年代)で高円宮杯U-15、U-12(小学生年代)で全日本少年サッカー大会に出場するなど、沖縄県内の強豪ユースとしての地位を固めた。

2007年シーズンを前にJ2・京都サンガF.C.に招聘された。ヴィクサーレ沖縄との関係維持を条件にこれに応じ、京都の専務取締役(実質上のゼネラルマネージャー職)に就任。当初はGMとしてチーム編成などにかかわり、美濃部直彦監督を支える立場にあったが、シーズン途中からは総監督として現場指導にも関わった。さらに、チームに敗北が増えて目標のJ1復帰が危うくなってきた同年10月に美濃部監督を解任し、自らが監督に就任して残りのJ2リーグ戦とJ1・J2入れ替え戦を戦い、チームの大目標だった1シーズンでのJ1復帰を達成した。

当初は暫定監督扱いだったが、結果を残したことから、以後もGM職との兼任で引き続き京都を指揮。選手を大きく入れ替えてJ1に臨んだ2008年シーズンは、特定の形にこだわらず、相手に応じて様々なシステムを併用する采配を見せ、賛否両論を読んだ。年間通じて残留争いに苦しんだが、結果は14位で、J1残留という最低限の目標を達成。2009年シーズンは上位進出を目指して更に積極的に補強に動いたが、再び下位に沈み、2008年と全く同じ勝ち点での12位に終わる。それでも、2部制導入以降でクラブ史上初となる、3シーズン連続のJ1残留に導いた。

2010年シーズンは、足掛け4年目の長期政権となったが、やはり開幕から下位に沈み、10戦未勝利で最下位となった第14節終了後の7月27日に解任が発表された。合わせて、契約途中だった専務取締役職も退いた。 2011年、東日本大震災の発生直後から被災地域での復興支援活動に取り組んでいたが、日本サッカー協会に任ぜられ、同年10月よりJFA復興支援特任コーチとして活動していたが、2012年10月末で退任。

2019年2月から2020年9月までFC町田ゼルビアの未来プロジェクトリーダーを務めた。

2020年10月2日、京都サンガF.C.の強化育成本部長に就任した。2022年8月10日、強化部からの異動を打診され固辞し、退団。

所属チーム

ユース

期間年齢チーム
1972〜197415日本仙台第二高校
1975〜197918日本早稲田大学

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

クラブ

期間年齢チーム
1980〜199323日本読売/ヴェルディ川崎
199336日本清水エスパルス
199437ヴェルディ川崎
199437日本東京ヴェルディ1969

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

代表

期間年齢チーム
1978〜198721日本日本

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

監督

在任年齢チーム役職
1997〜199740日本ヴェルディ川崎監督
2000〜200043日本湘南ベルマーレ監督
2002〜200445日本沖縄かりゆしFC監督
2007〜201050日本京都サンガF.C.監督

移籍金・年俸・市場価値の推移

移籍履歴

掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。

時期年齢移籍元移籍先形態移籍金備考
197518仙台第二高校早稲田大学移籍—下部組織への移籍
形態・移籍金は未確認
198023早稲田大学読売/ヴェルディ川崎移籍—形態・移籍金は未確認
199336読売/ヴェルディ川崎日本清水エスパルス移籍—形態・移籍金は未確認
199437日本清水エスパルスヴェルディ川崎移籍—形態・移籍金は未確認
199437ヴェルディ川崎日本東京ヴェルディ移籍—形態・移籍金は未確認

※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。

出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認

本文の一部は、ウィキペディア日本語版「加藤久」(版 110388829)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。

出典

  1. Wikidata、2026年10月25日 取得 https://www.wikidata.org/
  2. Wikipedia(日本語版)「加藤久」、版 ID 110388829、2026年10月14日 取得 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E4%B9%85

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