城彰二

SOCCERPEDIA / 選手ページ / 日本のサッカー選手 / 最終更新:2026年9月1日


概要

日本城彰二(Shoji Jo、1975年6月17日生)は、室蘭市出身の元サッカー選手。ポジションはFW。日本では1995年から通算35試合7得点を記録している。クラブでは公式戦通算446試合162得点(1994 シーズン以降)。

城 彰二(じょう しょうじ、1975年6月17日 - )は、北海道室蘭市生まれ、鹿児島県姶良郡加治木町(現:姶良市)育ちの元プロサッカー選手。現役時代のポジションはフォワード(FW)。元日本代表。

クラブ経歴

高校時代まで

北海道に生まれる。男3人兄弟の長男。父は建築会社を、母は旅館を経営。父が建てた三階建ての旅館で育った。父はプロ野球選手にしようと仕向けたが、小学校4年のとき、サッカー部の顧問から「これを上げるから一緒にサッカーをしよう」と背番号9のユニフォームを掲げられ、物欲しさにサッカーを始める。小学生時代にサッカーのビデオを借りてフランク・オルデネビッツ(後にチームメイトとなる)のプレーに熱中していた。地元の中学に進学するが、上手くなるために強豪校行きを決意し、中一の終わりにサッカーの名門・名古屋市立日比野中学校に転校。家族で行くのかと思ったら、単身で名古屋に行かされ、父が用意してくれたマンションで一人暮らし。中学生の一人暮らしなど許されず、父から「誰にも話すな」と釘を刺された。やがて学校に露見し、中二の夏休みに鹿児島へ強制送還させられた。父方の祖父が病気になっていたため、家族は鹿児島県姶良郡加治木町(現・姶良市)に転居していた。

姶良市立加治木中学校のサッカー部に入部。同級にずば抜けて上手い横山博敏がいて、みんなで守って、横山にボールを預け、横山がドリブルで敵陣に切り込み、クロスを上げて、城がヘディングシュートを決めるという作戦が当たり、鹿児島大会で優勝、鹿児島実業高等学校に特待生として入学出来た。

鹿児島実業サッカー部では松澤隆司監督の指導を受け、2年先輩に前園真聖や藤山竜仁や遠藤拓哉(遠藤彰弘・遠藤保仁の兄)、同学年に遠藤彰弘や横山博敏、2年後輩に平瀬智行などがいた。

高校3年時の高校サッカー選手権大会第72回大会でベスト4に入った(大会得点王はチームメイトの野見山秀樹)。

Jリーグ加入

卒業後はJリーグのジェフユナイテッド市原に加入。デビュー戦でゴールを挙げ、それから4試合連続ゴールを挙げるなど注目を集めた。

市原では若くしてチームを象徴する選手となるが、日本代表での活躍や海外移籍などを見据えたキャリアアップを理由にして1997年に横浜マリノス(1999年から横浜F・マリノス)へ移籍した。マリノスでは高校の同期生遠藤と同僚となり、チームの中心選手として活躍した。

スペイン挑戦

城はフランスW杯での挫折からの巻き返しを誓い、後のJリーグでゴールを量産。そして2000年1月、念願だった欧州リーグに挑戦する事となる。当時のマリノスの監督アントニオ・デラ・クルスが呼んだスペインの大物代理人ジョゼップ・マリア・ミンゲージャに評価され、リーガ・エスパニョーラ1部・レアル・バリャドリードへシーズン途中でレンタル移籍が決まる。

バリャドリードではほぼレギュラーとして活躍し、得点こそオビエド戦で挙げた2得点にとどまったが、ポストプレーなどでのチームへの貢献が評価された。なお、横浜FM時代の年俸は2億円だったが、レアル・バリャドリード時代は3500万円まで下がった。

シーズン終了後に完全移籍やレンタルの延長が検討されたが、日本代表の試合での負傷がきっかけで高校時代から膝の前十字靭帯を切ったままプレーを続けていたことが発覚し、契約を見送られた。

Jリーグ復帰

スペインでのプレーが出来なくなり、横浜F・マリノスへ復帰したが、その後はケガや体調不良などで得点数が激減した。

横浜F・マリノスは城がスペインにいた2000年前半のJ1・1stステージで5年ぶりのステージ優勝を遂げ、エースの不在をはね返した。逆に同年12月のJリーグチャンピオンシップにおける2試合無得点の敗退(鹿島アントラーズが優勝)やリーグ最終戦までJ2降格の危機が残った2001年の低迷は城の不振が原因とされ、サポーターからの批判を浴びた。期限付き移籍でヴィッセル神戸に加入 した2002年も1ゴールのみに終わり、年末には神戸から翌シーズンの契約延長を見送られ、また本籍の横浜F・マリノスからも戦力外通告を受け、J1でのプレーはこの年限りとなった。

2003年にJ2の横浜FCへ加入した。本人は引退を考えていたが、当時社長の奥寺康彦、監督のピエール・リトバルスキー、コーチの阪倉裕二という市原時代のGMとチームメイトに勧誘された事で実現。高校の同期生の横山と同じチームになった。城はレギュラーとして試合に出場し、その合間にテレビのスポーツ番組やバラエティ番組への出演もしばしば行った。

財政難や劣悪な練習環境に苦しむ横浜FCは低迷を続け、J1昇格を予想される事はほとんど無かったが、城はコンスタントな活躍を続け、徐々に同僚やサポーターからチームリーダーとしての信頼を勝ち取っていった。 城は後にスポーツ雑誌『Number』のインタビューに答え、この時期の意識変化は妻の助言に依る所が大きかったと述べた。

2006年には主将として高木琢也監督の下、三浦知良とツートップを組み、クラブ初のJ1昇格を決めた。前述の靭帯の故障やモチベーションの低下もありシーズン前から"100%サッカーに賭ける最後の1年"と決めており、シーズン中にも拘らず11月23日・三ツ沢公園球技場で行われた徳島ヴォルティスとの試合後にファンの前で引退の挨拶を行った。この時、当時39歳の三浦知良は「俺よりも若い」と引退を惜しんでいる。

現役最後の公式戦となった12月2日の愛媛FC戦ではアシストを記録し、試合後のセレモニーでJ2優勝カップを掲げ三ツ沢の1万人以上のサポーターからの歓声で送り出されて、13年間のプロサッカー選手生活を終えた。

引退後

引退後の2007年2月にはJリーグ百年構想メッセンジャーに任命され、Jリーグが目標に掲げる地域スポーツ文化形成のための各種広報活動に参加している。この他、テレビ(主に日本テレビ放送網のJリーグ・日本代表・高校サッカーなどのレギュラー解説者)などで試合解説、スポーツニッポンの評論家として活動している。

なお、引退試合開催に必要な公式戦500試合出場は満たすことは出来なかったが、日本代表に貢献した功績を鑑みて引退試合の開催が許可された。城の引退試合は最終所属クラブである、横浜FCの主催試合として2008年1月27日に三ツ沢公園球技場で行われた。

2009年、日本サッカー協会指導者ライセンスの最高位であるS級ライセンスを取得した。

2013年、インテル・ミラノの日本でのサッカースクール「インテルアカデミージャパン」のテクニカルディレクターに就任。

2017年5月、北海道サッカーリーグに所属する十勝FC(現・北海道十勝スカイアース)のスーパーバイザーに就任。

2019年3月、北海道十勝スカイアースの統括ゼネラルマネージャー就任が発表された。

代表経歴

日本代表での活躍

アトランタオリンピックを目指す五輪代表チームに選出され、アジア予選ではもう1人のエースであった小倉隆史が最終予選前に負傷離脱した事もあり、前線の軸を担い28年ぶりの本大会出場に貢献。韓国との決勝では1-2で敗れはしたものの、オーバーヘッドシュートを決めた。1996年の本大会にも出場し、結果はグループリーグ敗退だったが、ブラジル戦では相手GKジーダと競り合って伊東輝悦のゴールを演出し、マイアミの奇跡と呼ばれる勝利に貢献した。

1997年には、フランスW杯アジア最終予選で悲願の初出場に貢献した。11月16日、日本がイランを破って本大会出場を決め、ジョホールバルの歓喜と呼ばれたアジア第3代表決定戦では同点ゴールを決めた。

1998年、エースストライカーとして臨んだフランスW杯本戦では得点することが出来なかった。チームも3戦全敗を喫して、特にアルゼンチン戦ではTVで解説を務めていたラモス瑠偉により「シュートを外してヘラヘラ笑っている」と激しく批判され、戦犯として日本中で批判を受けた。帰国時に激怒したサポーターから水攻めをくらっている。ただし、ラモス本人からは後にこの発言について謝罪されている。

フランスW杯以後も代表に選出されていたが、2001年3月の対フランス戦を最後に代表から外れた。

個人成績

数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。

クラブ

クラブシーズン年齢ディビジョンリーグ国内カップ1リーグカップ2シーズン通算
出場得点出場得点出場得点出場得点
ジェフユナイテッド市原199418J1リーグ331220213713
199519J1リーグ431400——4314
199620J1リーグ239101343713
通算99353015511740
横浜マリノス / 横浜F・マリノス199721J1リーグ211222002314
199822J1リーグ312510003225
199923J1リーグ251831633422
200024J1リーグ42000042
200125J1リーグ2521084346
通算106597314712769
スペインレアル・バリャドリード1999-2000—ラ・リーガ152————152
日本ヴィッセル神戸200226J1リーグ2511062323
日本横浜FC200327J2リーグ331214——3416
200428J2リーグ35820——378
200529J2リーグ401210——4112
200630J2リーグ431200——4312
通算15144440015548
キャリア通算3961411573514446162

1. 国内カップ戦(コパ・デル・レイ、FAカップ、天皇杯など) 2. リーグカップ(EFLカップ、JリーグYBCルヴァンカップなど) 年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

代表

日本 としての年別成績です。親善試合を含みます。

年年齢出場得点得点グラフ
19951910
19962030
199721134
199822101
19992350
20002422
20012510
通算357

年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。

所属チーム

ユース

期間年齢チーム
1991〜199315日本鹿児島実業高等学校

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

クラブ

期間年齢チーム
1994〜199618日本ジェフユナイテッド市原
1997〜200221日本横浜マリノス / 横浜F・マリノス
1999〜200023スペインレアル・バリャドリード
200226日本ヴィッセル神戸
2003〜200627日本横浜FC

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

代表

期間年齢チーム
1995〜200119日本日本
199620日本日本 U-23

「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。

移籍金・年俸・市場価値の推移

移籍履歴

掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。

時期年齢移籍元移籍先形態移籍金備考
199418鹿児島実業高等学校ジェフユナイテッド市原移籍—形態・移籍金は未確認
199721ジェフユナイテッド市原横浜マリノス / 横浜F・マリノス移籍—形態・移籍金は未確認
199923横浜マリノス / 横浜F・マリノススペインレアル・バリャドリード期限付き移籍—期間・移籍金は未確認
200226横浜マリノス / 横浜F・マリノス日本ヴィッセル神戸期限付き移籍—期間・移籍金は未確認
200327横浜マリノス / 横浜F・マリノス日本横浜FC移籍—形態・移籍金は未確認

※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。

出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認

本文の一部は、ウィキペディア日本語版「城彰二」(版 110787520)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。

出典

  1. Wikidata、2026年10月26日 取得 https://www.wikidata.org/
  2. Wikipedia(日本語版)「城彰二」、版 ID 110787520、2026年10月14日 取得 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E5%BD%B0%E4%BA%8C
  3. Wikipedia(英語版)、版 ID 1310841727、2026年10月14日 取得 https://en.wikipedia.org/wiki/Shoji_Jo

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