「キリアンのことはとても好きだし、彼は記録を塗り替える選手だ。しかし、すべてが自分、自分、自分、自分という話になってしまう時が来る。」
出典:BBC Sport Football 2026年10月23日
SOCCERPEDIA / 選手ページ / フランスのサッカー選手 / 最終更新:2026年9月1日
ジャン=ピエール・パパン(Jean-Pierre Papin、1963年11月5日生)は、ブローニュ=シュル=メール出身の元サッカー選手。ポジションはFW。フランスでは1986年から通算54試合30得点を記録している。クラブでは公式戦通算679試合356得点(1981-82 シーズン以降)。クラブ・代表で通算24個のタイトルを獲得、個人賞は30回(オンズ・ド・ブロンズ 3回、フランス年間最優秀選手(フランス・フットボール誌) 2回)。
ジャン=ピエール・パパン(Jean-Pierre Papin、1963年11月5日 - )は、フランス、ブローニュ=シュル=メール出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW(センターフォワード)。フランス史上最高のストライカーの一人であり、フランスリーグ5年連続得点王に輝くと共に、チャンピオンズカップでも1989-90シーズンから3期連続得点王となった。1991年度にはバロンドールを受賞した。
地元の2部クラブ・ヴァランシエンヌFCに入団し、1985-86シーズンにクラブ・ブルッヘへ移籍すると、UEFAカップのボアヴィスタ戦でハットトリックを達成するなど、すぐさま活躍を見せ、ベルギーカップ優勝に貢献し、自身もリーグの得点王を獲得。年間トータルでは43試合で32ゴールを挙げた。
1986-87シーズン、ASモナコへの移籍がほぼ決まっていたが、ベルナール・タピ会長の存在により、オリンピック・マルセイユへ移籍、1987-88シーズンから5年連続で得点王に輝くとともに、リーグでは4連覇を達成。チャンピオンズカップでも3年連続得点王となり、1990-91シーズンにはチームを初のチャンピオンズカップ決勝に導いた。マルセイユではトータル184ゴールを挙げた。
1988-89シーズン、クープドゥフランス決勝、ASモナコ戦でハットトリックを決め、優勝に貢献。
1989-90シーズン、8月30日のソショー戦で4ゴールを決めると、12月3日のトゥールーズ戦、3月7日のトゥーロン戦、3月31日のリール戦と、シーズン中4度のハットトリックを達成するなどリーグ得点王を獲得、チャンピオンズカップでも得点王を獲得した。
1990-91シーズン、1月13日のリヨン戦で4ゴール、4月13日のナンシー戦でハットトリックを達成するなど、リーグ得点王を獲得、9月19日のチャンピオンズカップ、KSディナモ・ティラナとの対戦でもハットトリックを達成、チャンピオンズカップの決勝で延長PK戦の末レッドスター・ベオグラードに敗れ準優勝に終わるも、チームを初のチャンピオンズカップ決勝に導き、同大会で2年連続得点王となった。
1991-92シーズン、12月14日のレンヌ戦でハットトリックを達成するなど、5年連続リーグ得点王を獲得しリーグ4連覇に大きく寄与した。1991年、9月18日のチャンピオンズカップ、ルクセンブルクとの対戦でもハットトリックを達成 、チャンピオンズカップでも3年連続得点王となった。1991年12月にはFIFA選出の最優秀選手に選ばれ、バロンドールを受賞した。
1992年から当時の世界最高額でACミランに移籍、ヨーロッパ最優秀選手同士のファンバステンとのツートップは相手DFに驚異となり、世界最強になるのではと、あらゆるメディアで取り上げられた。しかしファンバステンが故障の為、数試合しかパートナーを組めず、コンビネーションを確立するに至らなかった。1992-93シーズン当初はオランダトリオの存在も有り出番は限られたが、チャンピオンズカップ1次リーグのオリンピア戦で移籍後公式戦初ゴール、第6節のラツィオ戦でセリエA初ゴールを記録、第7節のパルマ戦でも2試合連続となるゴールを決めた。ファンバステンとのツートップではアシスト的な役回りであったが、怪我でファンバステンが離脱すると以降翌年まで最大の得点源として、18節から21節のサンプドリア戦までコッパ・イタリアのインテル戦を含め、5試合連続ゴールを決め、23節のラツィオ戦ではキーパーが一歩も動けないロングシュートを決めるなど、リーグ戦では21試合と限られた出番ではあったが、ファンバステンと並びチーム最多の13ゴールを決め、リーグ優勝に貢献、シーズン合計では34試合で20ゴールを挙げた。。チャンピオンズカップでも決勝進出に貢献したが、前シーズンまで所属していたマルセイユに0-1と敗れ、優勝は出来なかった。
1993-94シーズン、序盤こそレギュラークラスの扱いであったが、怪我での離脱、シーズン途中にデサイーの加入もあり、外国人枠の影響で出場は限られたが、2シーズン連続のリーグ優勝を果たした。セリエAでは第4節のアタランタ、第5節のASローマ、第6節のクレモネーゼ戦まで3試合連続ゴールを決めると、第11節のインテルとのミラノダービーではパヌッチのクロスから決勝ゴールを決めた。カップ戦では、トヨタカップでのサンパウロFCとの対戦では2-2とする同点ゴール、UEFAスーパーカップのパルマ戦、第1戦では決勝ゴールを決める活躍をした。UEFAチャンピオンズリーグではミランは優勝を成し遂げたが、予選などでは活躍するも、決勝では外国人枠の影響によりベンチ外となった。
レアルマドリード、プレミアリーグのトッテナム・ホットスパーなどへの移籍の話しが有ったが、1994-95シーズンからはドイツ・ブンデスリーガ・バイエルン・ミュンヘンに移籍、マルセイユ時代に監督として指導し、パパンをよく知るフランツ・ベッケンバウアーが会長を務めていたこともあり、ゴールの量産を期待された。1994年11月12日シャルケ戦で移籍後初ゴールを決め、チャンピオンズリーグではチームが敗退の危機に瀕していた中、ディナモ・キエフ戦で単独で相手DF陣を抜き去っての2ゴールを決めて、チームを救う活躍を見せ、準決勝に進出したチームの立役者となるが、膝の悪化による度重なる離脱と、それに伴う不調により、リーグ戦では途中出場などで2シーズンで僅か27試合3ゴールに終わった。1995-96シーズンには決勝でFCジロンダン・ボルドーを破り、UEFAカップ優勝を果たした。チームは残留を望み、長時間の話し合いをするも、本人のたっての希望で移籍することとなった。1994年12月にはASローマ対世界選抜の試合に出場、三浦知良とツートップを組んだ。
1996-97シーズン、FCジロンダン・ボルドーと移籍、かつてのキレを取り戻し、代表に戻すべきとの声があがった。8月16日、2節のFCメス戦で移籍後初ゴールを決め、18節のパリサンジェルマン戦では2得点、36節のパリサンジェルマンでもゴールを決めるなど、リーグ戦ではトータル16ゴールを決めた。
1997-98シーズンはシルヴァン・ヴィルトールなどの活躍も有り、出場が減ったが、リーグ戦やカップ戦で合計14ゴールを決めた。クープ・ドゥ・フランス、ファーストラウンドのオーベルヴィリエ戦ではハットトリックを決めた。クープ・ドゥ・ラ・リーグでは決勝までに4ゴールを決め、決勝に導く活躍、パリサンジェルマンとの決勝では途中出場、FKから同点ゴールを挙げ2-2とした、しかし延長PK戦ではPKを外し、PK戦2-4で敗れた。
1998年は当時2部のEAギャンガンに移籍したが、シーズン半ばに突然引退を表明、7節のアジャクシオ戦でのゴールは現役最後のゴールとなった1999年にマルセイユで、マルセイユのかつてのチームメイトであるクリス・ワドル、エリック・カントナ、モーゼル、バジール・ボリなどを集めたマルセイユOBチームや、現役フランス代表、三浦知良も含まれた世界選抜と引退試合を行い、プロサッカー選手としての生活に終止符を打った。
その後もアマチュア選手としてプレーを続け、JSサン=ピエール (1999-2001) 、JSキャップ=フェレ (2001-2004) の2チームに所属した。
マルセイユのサポーターが選ぶ20世紀最高のマルセイユのプレーヤーの投票で第1位に輝いた。(2位はチームメートのクリス・ワドル)
2011年にはACミラングロリエの一員として、仙台でのチャリティーマッチに出場した。
1986年2月26日の北アイルランド戦で代表デビューを果たし、同年のメキシコW杯に出場、グループリーグ初戦のカナダ戦でフル代表初ゴール、しかしその後2試合無得点に終わるとストピラにポジションを奪われ、決勝トーナメントに入ってからは起用されなかった。それでも3位決定戦のベルギー戦で得点を挙げ、3試合で2ゴールを決め、フランスの3位獲得に貢献した。以降フランスの中心選手の一人となった。
その後フランスは1988年の欧州選手権、1990年のイタリアW杯出場権を逃した。ユーロ1992予選ではトータル10ゴールを決め、本大会出場に貢献、本大会ではグループリーグ初戦のスウェーデン戦、第3戦のデンマーク戦でゴールを決めたが、パパンの得点に依存するチームとなり、グループリーグで敗退した。アメリカW杯予選では、最終節のブルガリア戦では引き分けでも出場権を獲得出来ることから出場は確実と見られていた。前半ヘディングでカントナのゴールをアシストしたが、試合終了間際に逆点ゴールを決められる、パリの悲劇でワールドカップ出場を逃した。
1994年12月13日のユーロ1996予選、アゼルバイジャン戦で代表最後のゴールを決め、1995年1月18日にオランダとの親善試合に出場したが、その後は怪我が多く、また若手へ切り替えと特定の選手に依存しないと言うエメ・ジャケ代表監督の考えから、ボルドー時代には活躍するも再び代表に呼ばれることはなかった。
身長は180cmに満たないがヘディングでのゴールも多かった。ほとんどのゴールは少ないボールタッチ数のでのゴールで、DFの裏に抜け出し、相手をスピードでかわしシュートを決めるプレーを得意とし、またオーバーヘッドやジャンピングボレーなどのボレー系のシュートが得意で、パピナーダと異名を取っていた。また、FKから得点を奪うこともあった。
オリヴィエ・ジルーが幼少期に好きだった選手の一人で、映像を見てオーバーヘッドやジャンピングボレーなどを参考にしていたと話している。
一次情報の発言のみ収録。1回の会見につき主要な発言を最大3つ引用し、他は解説で要約しています。
「キリアンのことはとても好きだし、彼は記録を塗り替える選手だ。しかし、すべてが自分、自分、自分、自分という話になってしまう時が来る。」
出典:BBC Sport Football 2026年10月23日
数値は英語版 Wikipedia の Career statisticsです。当サイトによる補完・推計は行っていません。記録が無い項目は「—」です(0 ではありません)。
| クラブ | シーズン | 年齢 | ディビジョン | リーグ | 国内カップ1 | リーグカップ2 | 大陸大会3 | その他4 | シーズン通算 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 1981-82 | 17 | ディビジョン3* | 17 | 3 | 0 | 0 | — | — | — | — | — | — | 17 | 3 | |
| 1982-83 | 18 | ディビジョン3* | 3 | 0 | 1 | 0 | — | — | — | — | — | — | 4 | 0 | |
| 1983-84 | 19 | ディビジョン3* | 29 | 10 | 0 | 0 | — | — | — | — | — | — | 29 | 10 | |
| 通算 | 49 | 13 | 1 | 0 | — | — | — | — | — | — | 50 | 13 | |||
| 1984-85 | 20 | ディヴィジョン2 | 33 | 15 | 2 | 2 | 0 | 0 | — | — | — | — | 35 | 17 | |
| 1985-86 | 21 | ベルギー・ファーストディビジョン* | 33 | 21 | 8 | 7 | — | — | 4 | 5 | — | — | 45 | 33 | |
| 1986-87 | 22 | ディヴィジョン1 | 33 | 13 | 7 | 1 | 4 | 2 | — | — | — | — | 44 | 16 | |
| 1987-88 | 23 | ディヴィジョン1 | 37 | 19 | 1 | 0 | 0 | 0 | 8 | 4 | — | — | 46 | 23 | |
| 1988-89 | 24 | ディヴィジョン1 | 35 | 22 | 10 | 11 | 0 | 0 | — | — | — | — | 46 | 33 | |
| 1989-90 | 25 | ディヴィジョン1 | 36 | 30 | 4 | 2 | 0 | 0 | 8 | 6 | — | — | 48 | 38 | |
| 1990-91 | 26 | ディヴィジョン1 | 36 | 23 | 5 | 7 | 0 | 0 | 9 | 6 | — | — | 50 | 36 | |
| 1991-92 | 27 | ディヴィジョン1 | 37 | 27 | 4 | 4 | 0 | 0 | 4 | 7 | — | — | 45 | 38 | |
| 通算 | 214 | 134 | 31 | 25 | 4 | 2 | 29 | 23 | — | — | 278 | 184 | |||
| 1992-93 | 28 | セリエA | 22 | 13 | 4 | 4 | — | — | 7 | 3 | 1 | 0 | 34 | 20 | |
| 1993-94 | 29 | セリエA | 18 | 5 | 2 | 0 | — | — | 6 | 4 | 3 | 2 | 29 | 11 | |
| 通算 | 40 | 18 | 6 | 4 | — | — | 13 | 7 | 4 | 2 | 63 | 31 | |||
| 1994-95 | 30 | ブンデスリーガ | 7 | 1 | 1 | 0 | — | — | 3 | 2 | 1 | 0 | 12 | 3 | |
| 1995-96 | 31 | ブンデスリーガ | 20 | 2 | 2 | 0 | — | — | 6 | 1 | — | — | 28 | 3 | |
| 通算 | 27 | 3 | 3 | 0 | — | — | 9 | 3 | 1 | 0 | 40 | 6 | |||
| 1996-97 | 32 | ディヴィジョン1 | 32 | 16 | 2 | 0 | 4 | 0 | — | — | — | — | 38 | 16 | |
| 1997-98 | 33 | ディヴィジョン1 | 23 | 6 | 2 | 3 | 5 | 5 | 2 | 0 | — | — | 32 | 14 | |
| 通算 | 55 | 22 | 4 | 3 | 9 | 5 | 2 | 0 | — | — | 70 | 30 | |||
| 1998-99 | 34 | ディヴィジョン2 | 10 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | — | — | — | — | 10 | 3 | |
| JSサン=ピエール | 1999-00 | 35 | ディビジオン・ドヌール* | 12 | 4 | — | — | — | — | — | — | — | — | 12 | 4 |
| 2000-01 | 36 | ディビジオン・ドヌール* | 15 | 9 | — | — | — | — | — | — | — | — | 15 | 9 | |
| 通算 | 27 | 13 | — | — | — | — | — | — | — | — | 27 | 13 | |||
| USレージュ・カップ・フェレ* | 2001-02 | 37 | CFA 2 | 24 | 8 | 0 | 0 | — | — | — | — | — | — | 24 | 8 |
| 2002-03 | 38 | CFA 2 | 17 | 7 | 2 | 0 | — | — | — | — | — | — | 19 | 7 | |
| 2003-04 | 39 | CFA 2 | 16 | 9 | 2 | 2 | — | — | — | — | — | — | 18 | 11 | |
| 通算 | 57 | 24 | 4 | 2 | — | — | — | — | — | — | 61 | 26 | |||
| キャリア通算 | 545 | 266 | 59 | 43 | 13 | 7 | 57 | 38 | 5 | 2 | 679 | 356 | |||
1. 国内カップ戦(コパ・デル・レイ、FAカップ、天皇杯など) 2. リーグカップ(EFLカップ、JリーグYBCルヴァンカップなど) 3. 大陸大会(UEFAチャンピオンズリーグ、AFCチャンピオンズリーグなど) 4. 国内スーパーカップ・国際大会・プレーオフなど(UEFAスーパーカップ、FIFAクラブワールドカップ、リーグスカップ等) 年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。
フランス としての年別成績です。親善試合を含みます。
| 年 | 年齢 | 出場 | 得点 | 得点グラフ |
|---|---|---|---|---|
| 1986 | 22 | 8 | 2 | |
| 1987 | 23 | 3 | 0 | |
| 1988 | 24 | 6 | 1 | |
| 1989 | 25 | 5 | 3 | |
| 1990 | 26 | 5 | 4 | |
| 1991 | 27 | 5 | 7 | |
| 1992 | 28 | 10 | 7 | |
| 1993 | 29 | 7 | 3 | |
| 1994 | 30 | 4 | 3 | |
| 1995 | 31 | 1 | 0 | |
| 通算 | 54 | 30 | ||
年齢はその期間の開始時点の満年齢です(シーズン表記は欧州リーグ=8月、単年表記は3月を起点に計算)。
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1983〜1984 | 19 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1984〜1985 | 20 | |
| 1985〜1986 | 21 | |
| 1986〜1992 | 22 | |
| 1992〜1994 | 28 | |
| 1994〜1996 | 30 | |
| 1996〜1998 | 32 | |
| 1998〜1999 | 34 | |
| 1999〜2001 | 35 | |
| 2001〜2004 | 37 | USレージュ・カップ・フェレ* |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
| 期間 | 年齢 | チーム |
|---|---|---|
| 1985〜1986 | 21 | |
| 1986〜1995 | 22 |
「期間」の出典は成績が記録されているシーズンの範囲(API-Football。取得元に古いシーズンの登録が無い場合、実際の加入年より後になります)。出場・得点は取得元に記録がないため掲載していません。
| 在任 | 年齢 | チーム | 役職 |
|---|---|---|---|
| 2004〜2006 | 40 | 監督 | |
| 2006〜2007 | 42 | 監督 | |
| 2007〜2008 | 43 | 監督 | |
| 2009〜2010 | 45 | 監督 | |
| 2014〜2015 | 50 | 監督 | |
| 2020〜2022 | 56 | 監督 | |
| 2023〜2025 | 59 | 監督 |
掲載しているのは公表された実際の移籍金です(市場価値は別表)。金額が非公表・不明の場合は「—」と表記します(0 円ではありません)。
| 時期 | 年齢 | 移籍元 | 移籍先 | 形態 | 移籍金 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1984 | 20 | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | ||
| 1985 | 21 | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | ||
| 1986 | 22 | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | ||
| 1992 | 28 | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | ||
| 1994 | 30 | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | ||
| 1996 | 32 | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | ||
| 1998 | 34 | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | ||
| 1999 | 35 | JSサン=ピエール | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 | |
| 2001 | 37 | JSサン=ピエール | USレージュ=キャップ=フェレ* | 移籍 | — | 形態・移籍金は未確認 |
※ 移籍金が公表された移籍はありません(フリー移籍・期限付き移籍・非公表)。
出典: 日本語版 Wikipedia(経歴)。日本語版 Wikipedia の情報欄の在籍の切り替わりから作成。形態・移籍金は出典で未確認
英語の記録名しか確認できないもの(20件)は、日本語名を確認できるまで掲載していません。
代表チームで獲得したメダルです(銅1)。当サイトの大会結果データとも照合し、食い違いがあれば掲載しません。
| FIFAワールドカップ | 銅 1986 |
|---|
出典は英語版 Wikipedia の「メダル獲得記録(Medal record)」節(記事名・版 ID・取得日は「出典」節に記載)。W杯は当サイトの大会結果データでも一致を確認しています。
本文の一部は、ウィキペディア日本語版「ジャン=ピエール・パパン」(版 111236352)の記述を https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja(CC BY-SA 4.0)のもとで転載・編集したものです。当該部分は同ライセンスで再利用できます。成績・タイトル等の数値は各表の出典に基づきます。
※ 出典は媒体名・日付・URL を文字で記載しています(外部サイトへのリンクは行いません)。出典が確認できない数値はページに載せません。
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